泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: スポンサー広告   Tags: ---

Response: --  

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: 亡霊退治   Tags: 思想  芸術  亡霊退治  

Response: Comment: 1  Trackback: 0  

亡霊退治4 『アシッド・キャピタリズム』を読む(後編)

 前回までのエントリーでは僕の目を覚ましてくれた師匠である小倉利丸氏にちょっとからんでしまったわけだが、その後、雑誌『現代思想』(1997年5月号 特集 ストリート・カルチャー)に掲載されている小倉のエッセイ……『都市空間に介入する文化のアクティビスト』を読んでみて、注目すべき新たな思考の展開が見られ、ちょっと引き込まれてしまった。パブリック・アートの可能性について論じているこの文章の中に、ラジカルな前衛としての小倉の顔を見ることができる。
 いままで僕は小倉の文化論の中に、暗に「芸術」のカテゴリーを肯定しているリベラルな一面と、「芸術」を乗り越えるべきだとするラジカルな一面が同居していると指摘してきた。別の言い方をするなら、一方は「表現」の自由を、もう一方は「表現」からの自由を求めるものだと言えるだろう。……この同居が僕には甚だ面白くないのである。
 しかし、このエッセイにおいては、リベラルな一面は影を潜め、結論としてしたためられた『カテゴリーとしてのアートの有効性はあるのか』という一節において、小倉のラジカルな問題意識がクローズアップされている。少し長くなるが、エッセイの最後の部分を書き出してみることにする。小倉はコーア・ブロックという評論家の、パブリック・アートが権力の道具と化してしまう危険性……都市空間における権力の正当性を視覚的な表象において補完する手段に堕してしまう危険性の指摘に同意しながらこう続けている。

 ………コンテンポラリーなアートのもつノマド的性格とパブリックな空間との間のある種のジレンマにブロックは気がついている。そして更に彼は、次のように疑問を一歩先へ進める。もしアートが公共的な空間において、何等「意味」ある存在となりえないのであれば、結局アートは、ごく限られた閉鎖的なサークル、つまり「ミュージアム」と呼ばれる空間の中でしか生きられないのか。言い換えれば、この少数のアートに理解あるサークルを越えたアートとして存在することにどのような意味があるというのか。ブロックは、公共的な空間の中で権力に組み込まれない意味性を獲得できないのであれば、せいぜいミュージアムの中で余命を保てばよいではないか、といいたいのではない。ミュージアム自体も公共空間のある種の変種として、権力のポリティクスの場を構成することから逃れることはできないからだ。むしろそれならば、滅びるという道もあるのではないかとブロックは言いたいのだ。「なぜアートが恐竜のように絶滅することに対して不安を感じるのか。過去からの切断に不安を感じるが故に、アートと呼ばれるものにしがみついているのではないか」というブロックの問いかけは、アートの社会的機能の真理の一面をうまく言い当てている。
 多分、このブロックの批判は、アクティビストとしてのアーティストの生き方や作品の提示の仕方の中にその答えの一端を見出せるだろう。つまり、文化的なアクティビストたちの行為(パフォーマンス)は、もはやパフォーマンスとはいえないかもしれないし、この作品は現実の都市空間の中で日常生活や政治的社会的な主張として具体的な機能を果たしているものであって、それをあえてアートというカテゴリーに括ることには意味がないという場合もあるからだ。いやむしろ、政治的な主張や現実に解決しなければならない問題に対する意思表示も、それが「パフォーマンス」という範疇に組み込まれた瞬間から、それはあらゆるリアリティを剥奪されて、解決の必要のないアーティスティックな表象へと回収されてしまうかもしれないのだ。
 ニューヨークのセント・ジョーンズ教会の前をデモするホームレスの一人が、「これはパフォーマンスではない」と書いたプラカードを掲げていたことにエイドリアン・ハイパーが大きな衝撃を覚えたのは、まさに文化的アクティビズムの限界をこのプラカードが示しているからに他ならない。パフォーマンスによって、文化的な表現を押しだそうとするのがアクティビストだとすれば、逆にパフォーマンスであることを拒否するのがホームレスなのだ。ここにはアーティストであることと生活者であることとの間に解決されねばならない切断が示されている。これは、決して一つの例外ではない。問題は、アートや文化的な表象を成り立たせるために引かれたカテゴリーの線分を新たに引き直すこと、あるいは大胆にそうしたカテゴリーを拒絶する方法を編み出すことにあるということなのである。しかし真の問題は、このように問題を語ることではなく、実践することにあるということもまた明らかである以上、言葉の終わるところからしか新たな出発もない。
 アートは世界をさまざまに表現してきた。しかし問題は世界を表現することではなく、それを変えることにある。19世紀に形而上学者に対して発せられた警句をこのように改訂して掲げたとしても、決して的外れではない。文化のアクティビズムとはまさにこうした課題を担うことなのである。


 そうです! これです。小倉先生……僕はこの言葉を待っていたのです。とうとう先生は目を覚まし、戦士の剣を引き抜いてくれたのですね。この文章を読んでようやく僕は溜飲を下げることができました……。でもどうでしょうか? きっとこのように戦士として前衛の立場に立ったからには、もうリベラルな美術館での自由なんてことにはさして興味がなくなったのではないでしょうか………?
 『アシッド・キャピタリズム』の出版は1992年のようだから、この新しい論考を書くまで5年以上が経過していることになる。その間に小倉の考えに進展があったということなのか、その後の彼の文化論を読んでいないので何とも言えない。(機会があったら調べてみたい。)いずれにせよこの論の進展は僕には喜ばしいことだ(……というかホッとしたと言ったほうが正しいかもしれない)。
 ………だがちょっと待ってくれ。確かに小倉のこの言葉にケチをつける気はない……しかし「芸術」の絶滅という事態、そして「芸術」というカテゴリーを拒絶し「文化」を成り立たせるために引かれたカテゴリーの線分の引き直す……といった認識や実践の方向性は、半世紀も昔にシチュアシオニストによって提出されていたことじゃなかったのか……。もちろん小倉はシチュアシオニストを読んでいるし、紹介する立場にすらあったはずだ。「芸術」のカテゴリーの乗り越えこそはシチュアシオニストの活動のコンセプトのかなめであり、出発点でもあるはずなのに、何だってこの肝心なところを小倉は長いこと読み落としていたんだろうか?

 シチュアシオニストの運動のルーツは、アヴァンギャルド芸術運動と左翼思想(マルクス主義)の二つであるわけだが、シチュアシオニストを問題にしてきたのは基本的に左翼思想家たちだったといっていい。そのせいでアヴァンギャルド芸術の流れでシチュアシオニストの活動を理解する面が欠落しがちなんじゃないかという気がする。この一面をないがしろにすると、おそらくシチュアシオニストは風変わりな(ふざけた)社会運動という評価に落ち着くだろう。
 シチュアシオニストがアヴァンギャルド芸術から受け継いでいるものは、その前衛精神……つまり、常に最前線に立つ戦士でありたいという欲望に他ならない。その欲望と決断が、ピンと張りつめた爽快な緊張感としてシチュアシオニストの無形の活動を貫いている。シチュアシオニストの内面を貫くこの緊張を見落として彼らの活動を語るわけにはいかないのだ。
 僕の見るところ、どうも小倉をはじめ左翼の思想家はこのアヴァンギャルド芸術以降も脈々と流れ続ける前衛精神に疎いんじゃないかという気がしてならない。でないと、シチュアシオニストがまさに拒否し、乗り越えようとしていた「アート」を無邪気に評価することができる理由がわからないのだ。

 小倉利丸がヨゼフ・ボイスの限界を指摘していた『社会に介入するアート』というエッセイの後半部は、シチュアシオニストについての考察となっている。ボイスの限界を突破したのが、まさしくシチュアシオニストであった……という具合に来るのかと思ったら、意外にも小倉によるシチュアシオニストの評価は、基本的に肯定的ではあるが、微妙に渋いものだった。
 小倉はボイスと同様にシチュアシオニストの活動の限界を指摘してみせる。小倉はこう書いている……

 しかし、IS(アンテルナシオナル・シチュアシオニスト)はやはり、政治と文化の溝を運動の内部の課題としても解決できなかった。それは、62年という比較的早い時期に分裂を引き起こしていることによく現れている。多分、62年以降のISは、マルクス主義の影響をより大きく受けるなかで、マルクス主義の重大な限界でもある文化的なアヴァンギャルドに対する政治の優位という発想を克服できなかった。初期のISがもっていたサイコジオグラフィ(心理地理学)、ずらし(転用)、漂泊(漂流)、統一的アーバニズム(統一的都市計画)といった理念は、結局、労働評議会の思想やルカーチの物象化論とは十分に融合されなかった。


 ……このあたりの検証は追々やってゆくつもりだが、小倉のこの見方には疑問がある。シチュアシオニストはシュルレアリスムの批判的な継承者であり、政治の問題と文化の問題は分割されることのない一つのものであるというブルトンの重要な主張は、そのままシチュアシオニストの主張でもある。したがって出発点においてシチュアシオニストには埋めなければならない「芸術運動と政治・社会運動との間の溝」という分断はそもそもないはずである。彼らにとっては文化・芸術運動はそのまま政治・社会運動であり、その逆もまた真である。つまり小倉が文化運動だと理解している、漂泊や統一的都市計画などの技法やビジョンはシチュアシオニストにとってはそのまま政治的なアクションでもある。また、68年の擾乱の季節が近づくにつれ、体制に対する異議申し立ての直接行動(パンフレット、反抗的スローガンの配布など)へ転換してゆくシチュアシオニストの活動は、優れて文化的なアクションであって、「芸術」のカテゴリーの乗り越えを意図して創出された、漂流や統一的都市計画などのコンセプトを貫く理念からのブレは全く存在しないと考えるべきだ。
 シチュアシオニストが考えていたのは常に、日常的現実に介入し祝祭的な状況を構築することだったはずだ。おそらくは68年5月が近づくにつれ、大きな祝祭のおとずれの予感が彼らにはあって、擾乱を共鳴的に拡大する分子的な直接行動に向かって行ったのではないだろうか………。少なくともこれを文化的活動の政治活動への従属とはとらえてはならないと思う。
 まず、「文化・芸術」と「政治」を対立する別のものと考え、その融合をはかろうという発想そのものが、カテゴライズされた「芸術」概念を前提にしているわけで、これではどうあがいても「芸術」の乗り越えを活動の出発点としているシチュアシオニストの活動の意味に迫れるはずがない。「文化的なアバンギャルド(特にシュルレアリスム)」がマルクス主義に突きつけていたのもこの問題だったというのに、肝心の小倉がこのありさまでは、「マルクス主義の重大な限界」なんて突破できるはずがない。逆に、小倉がこのような見解に陥ってしまうところに、シチュアシオニストがもつ前衛精神………常に最前線に立つ戦士でありたい………という欲望や情熱を左翼思想家である小倉が受け止めきれていないということを見ることができる。いや、このへんの事情を理解していないのは小倉だけではなく、左翼思想家の中にけっこういるんじゃないかと思うのだ。シチュアシオニストを理解できるかどうかは、前衛(戦士)であるかどうかをはかるひとつの試金石だといっていいと思う。
 もっとも小倉のこの考察は15年も前になされたものであり、当時シチュアシオニストの情報なんてほとんどなかったし、もし上で述べたように小倉がラジカルな前衛の立場に立つようになったというのであれば、シチュアシオニストの新しい読み方も可能になるはずだ。上で引用した『都市空間に介入する文化のアクティビスト』の中で、まさに小倉利丸は語っているではないか………『文化的なアクティビストたちの行為(パフォーマンス)は、もはやパフォーマンスとはいえないかもしれないし、この作品は現実の都市空間の中で日常生活や政治的社会的な主張として具体的な機能を果たしているものであって、それをあえてアートというカテゴリーに括ることには意味がないという場合もあるからだ。』と……。ここで言われている「文化的なアクティビスト」の活動のあり方は、どう考えても「シチュアシオニスト」のそれと全く同一のものである。どちらも文化=政治という分割不能なひとつの反抗的アクションに自らを賭ける前衛………すなわち「祭りの戦士」なのである。



Comments
管理人のみ閲覧できます 
このコメントは管理人のみ閲覧できます

06 2017 « »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
目次

 前衛芸術研究室
 

 セザンヌ講義1@電子書籍

 セザンヌ講義@ニコニコ静画
 おすすめコラム集
 ギャラリー
 シチュアシオニスト文庫
 garage sale
 オンライン読書会
 After the last sky


カテゴリー 累計
全記事一覧
前衛芸術研究室 28
亡霊退治 64
アート・建築・デザイン 29
思想など 144
旅行・タイなど 60
ニュース・時事など 31
フンデルトワッサー 12
中西夏之 3
日記・その他 115
記憶の底から 15
音楽 6
Category: None 22
反芸術研究室 5
最新のコメント
Twitter
タグcloud
アクセスカウンター
   




プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



Archive

RSS

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。