泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 亡霊退治   Tags: 芸術  思想  亡霊退治  

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亡霊退治5 「文化」とは肯定された生の姿である

 前回のエントリーで僕は、「芸術における表現の自由」と「芸術表現からの自由」という二つの問題のうち、前衛(戦士)にとって課題とすべきは後者であり、もはや前者は冷ややかに突き放さなければならない問題にすぎない……と主張しましたが、美術館(当然、そこは権力に貫かれた空間である)などでタテマエとなっているはずの芸術表現の自由とはすなわち、権力はあらゆる多様な芸術表現を認める、ということです。しかしこの自由とか多様とかいう言葉がくせ者で、あくまでもそれは「芸術」の枠の中での自由であり多様なのです。
 あるアクションが本当に自由であり多様であるのならば、それは現行システムの枠をはみ出すポテンシャルを持っていておかしくない。しかしそれが芸術表現(作品)として生の持続から切り離されたとたん、それは商品化が可能になり、資本の論理の中に取り込むことができるようになります。つまり「芸術」は資本主義の権力にとって反体制的エネルギーを飼いならすための文化装置(媒介・懐柔装置)として機能しているのです。権力はそれが「芸術」である限りどんなアクションも危険視することはないでしょう。
 しかし一見、物わかりのいい顔をしている権力も、その面前に「芸術」の枠を越える何らかのアクションが出現したとなれば、氷のように冷たくて憎しみに満ちた視線をそこに注ぐに違いありません。権力にとって「芸術」をはみ出すアクションは無秩序な反乱・逸脱状態であり、何らかのかたちでそれは排除されなければならない……。
 つまり「文化」の多様性という言葉を使うのであれば、本来この「芸術」のカテゴリーをはみ出す部分を含めて多様だというべきなのですが、権力が「あらゆる多様な芸術表現を認める」というとき問題になっているのは、「芸術」の枠内での差異の戯れ=表層的なニセの多様性なのです。ここに今日の「芸術」………ひいては「文化」という言葉の胡散臭さの原因があります。
 今日の権力による巧妙な人間の管理………自己決定の自由や多様な人間のあり方を称揚するが、実のところその自由や多様性は市場での競争というゲームのルールを受け入れる限りで認められるのであり、ここで行われているのはソフトな管理、すなわち「自由という名の隷属」「多様という名の一様」とでもいうものである………の問題と芸術表現の自由の問題は全く同形の問題です。この二つの問題がシンクロしているのは、前衛(アヴァンギャルド)芸術が行ってきたことが、表現の多様性の追求であったことを考えれば当然のことでしょうが……。

 ふと思い出したのですが、かつて僕は格差社会と管理についておもいを巡らしたことがありました。そもそも僕がそんなことを考え始めたのは、内田樹氏の薄汚いおじさん言説を批判しようとしてのことだったのですが、「芸術表現の自由や多様性」という言葉が今日意味するところは、以下の内田氏の文章に出てくる「かけがえのなさ」「代替不能性」と同様の空々しさを持っています。

 「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか」というのがネオコンの主張であるようだが、私はそんなことはありえないと思う。
自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。
そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。
それは単に希少財に多数の人間が殺到して、そこに競争的暴力が生じるというだけでない。成員たち全員がお互いを代替可能であると考える社会(「オレだって、いつかはトップに・・・」「あたしだってチャンスがあれば、アイドルに・・・」というようなことを全員が幻視する社会)では、個人の「かけがえのなさ」の市場価値がゼロになるからである。
勘違いしている人が多いが、人間の価値は、そのひとにどれほどの能力があるかで査定されているのではない。
その人の「替え」がどれほど得難いかを基準に査定されているのである。
現に、「リストラ」というのは「替えの効く社員」を切り捨て、「替えの効かない」社員を残すというかたちで進行する。どれほど有能な社員であっても、その人の担当している仕事が「もっと給料の安い人間によって代替可能」であれば、逡巡なく棄てられる。
人間の市場価値は、この世に同じことのできる人間がn人いれば、n分の1になる。
そういうものなのである。
だから、人間的な敬意というのは、「この人以外の誰もこの人が担っている社会的機能を代わって担うことができない」という代替不能性の相互承認の上にしか成り立たない。
だが、競争社会というのは、全員の代替可能性を原理にしている社会である(だから「競争社会」は必ず「マニュアル社会」になる)。
そのような社会で、個の多様性やひとりひとりの「かけがえのなさ」への敬意がどうやって根づくだろうか。


 (垂直的には)格差のみが存在する価値観が同一の社会(=競争社会)は生き方の多様性が確保されている社会ではないと、現行を批判するように見せかけて、今度は同じ現行社会を別の面(水平面)から見直しただけの、代替不能な社会的機能(職業)の多様性こそが生き方の多様性であるかのようにすり替えを行う噴飯もののこの議論には、現行社会の枠組みをはみ出るもの(外部)が全く視野に入っておらず、まさに「芸術」のカテゴリーの内部でのみ咲き誇っている差異の戯れのごとき表層的な多様性しか問題にされていません。「かけがえがない」だとか「代替不能性」だとかいう言葉は、最近よく巷で耳にする「命の大切さ、家族の大切さ」とか「美しい日本」みたいな美辞麗句同様、とうに実体を失ったものの虚しさを埋め合わせするために使われる無内容な……すでに新しいものが視野に入ってきているにもかかわらず、そこから目を逸らさせ、過去の遺制につなぎ止めようとする、不気味でイヤらしい言葉です。

 そして、内容のない虚しさを埋め合わせてるとしか思えないという意味では、「芸術(亡霊)」をめぐる言説も内田氏のような保守派の言葉に負けず劣らず、僕にはひどく苛立たしいものです。たとえばネット上から適当に拾ってきた美術評論の文章の一部なのですが………

 母胎からの分離、生を受けるという絶対的な暴力。ベーコンが惹きつけられていた“叫び”とは、私たちが母胎から引きなされたときにあげる「産声」という叫びにも通じているのではないだろうか。私たちは誕生することによって輝かしい未来に包まれるのと同時に、多くの背負いきれない現実を贈与される。そして、思春期をむかえ、生物としての必要不可欠な機能が成熟するとき、私たちは動物的な自分自身を自覚せざるおえない局面を迎える。リピドーに翻弄され、欲情するとき、私たちは動物としての現実に直面する。そして、その存在規定は、私たちを激しく動揺させる。(ちなみに出典はここ


………美術評論のこうした華麗なジャーゴンが、「芸術(亡霊)」のまわりを人魂のように飛び交っています。このような評論家たち、美術ジャーナリズムの働きによって、どうでもいい表層の差異(亡霊の活動)は、何か「かけがえのない」深遠な意味を持つ営みのごとく錯覚させられます。腐臭漂うゾンビが、人魂の青白い光を受けて、まるで生あるもののごとくに動き出すというわけなのです。
 気をつけなければいけないのは、他ならぬ僕らまでがうっかり「芸術(亡霊)」の罠に引きずり込まれてしまうことです。モダンで立派な美術館に威圧され、まず僕らは催眠術にかけられてしまいます。それだけでもう神妙な気分になり、時代の先端の文化に触れたような気になってきます。気がついてみれば亡霊たちのダンスに巻き込まれ、評論家たちとともに、絶叫するひしゃげた人物画の中に「存在論的欲望」やら「芸術と社会をめぐるパラドックスめいた関係」なんてものを垣間見ちゃったり、無造作におかれたオブジェに「芸術の普遍性への批判的視線」とやらを見い出しちゃったりする始末です。
 いいか、みんな! 僕らを死んだはずの「芸術」に引き戻そうとする亡霊たちのおしゃべりには絶対に騙されるんじゃないぞ! そんなところに「文化」はないんだ!

 ようするに権力のお先棒を担いでいる内田樹氏の言葉(これもジャーゴンです)も、「芸術(亡霊)」をめぐる文化機関や言説も、どちらも生を囲い込もうとする働きをしているのです。しかし、生とは規定され尽くしたり、囲い込まれ尽くしたりすることのない、はみ出すものであるはずです(まあ、これもひとつの規定ですが……)。囲い込み、取り込もうとする権力にとってそのような生は、いつだって無秩序で破廉恥な様相を呈します。逆に、僕らが生を肯定し、生そのものであろうとするなら、それら囲い込みを意図した権力の繰り出すさまざまな魔術は、突破しなければならないものとして僕らの前に姿を現すでしょう。熱い血潮が体内を駆け巡っている生ある者には、この魔術や亡霊の正体がはっきりと見えて来るのです。
 前衛(戦士)であるということは、生を肯定する(はみ出し、多様であること)ことに他なりません。資本主義社会において「文化」を創るのは「前衛」だ……と僕は語ってきました。……ということは、「文化」とは生の肯定そのものであるところの、その姿かたちのことであると言えるでしょう。そうであるなら「文化」は必ずしも芸術表現という形をとる必要もない……問題なのは、いまこの瞬間に生を肯定することなのです。
 だから、僕らは巷にあふれるいわゆる「文化」を警戒しなければなりません。権力の行っていることは、過去の文化(の抜け殻)や亡霊たちを活用・組織し、「芸術」という遺制に僕らを引き戻し、「文化」のなんたるかを混乱させることで、現在の生を潰し、一元的な資本主義の商業の論理に解消させてしまうことに他ならないのです。それに対し僕らはブレることなく、「文化」とは肯定された生の姿である、と言い続けなければなりません。そして、生を肯定する僕たちは必然的に、権力に利用されてしまっている過去の「文化」を救い出し、現在を満たしている「亡霊」たちを退治する(反抗する)戦士でもなければならないのです。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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 生年月日 1964年2月15日
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