泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: Thought  

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祭りの戦士とは何か?

 古代メキシコのアステカ族の都ティノチティトランにそびえ立つピラミッドの上では、祭りのたびに数多くの生贄が殺害され、血が流された。アステカの神話では太陽の神に人間の血を捧げ続けなければ太陽はその運行を止め、世界は滅んでしまうと考えられていたのだ。自らの部族の中から生贄を出すだけでは足りず、ピラミッドの上で殺害する人間を獲得するためにアステカ人は近隣の部族と「花の戦争」と呼ばれる戦を繰り返したという。…………私たち近代人には受け入れがたい残酷で身の毛もよだつような罪深い社会。彼らの神話や習俗を気違いじみた妄想の体系だと断罪するのはたやすいことだ。しかし、ジョルジュ・バタイユが『呪われた部分』の中で深い共感とともに分析しているこのアステカの神話の中には、近代社会においてはすでに忘れかけられている……だが今もなお逆らいえない真実がギラギラと輝いている。
 生贄と戦争というアステカの事業は、彼ら自身に悲劇的な緊張を強いるものだ………。アステカの男子が生まれるとき、産婆はへその緒を切りながら赤ん坊にこんなことを語りかけたという。「お前は戦闘の場のために生まれたのです。お前のつとめは太陽がのめるように、敵の血を捧げることです。戦の場で死んで華々しい死を迎えて命を終えるにふさわしいものと見られることは、お前にとって幸ある定めです。 ………」アステカ人の生命は生まれた瞬間から太陽の神に捧げられたものだった。栄光ある戦場での死 ………太陽を輝かせつづけるための犠牲となることこそが誇り高きアステカ戦士の定めであったのだ。
 惜しみのない犠牲………このような生命の浪費こそが太陽のエネルギー源であり、古代メキシコ高原に強烈な陰影をともなった原色のドラマ(悲劇)を花開かせる原動力となっていたのだ。彼らの残した神話、美術、建築物などは、私たちには想像もつかないようなドラマ ……アステカの栄光……が、かの地に踊っていたことをまざまざと想起させるだろう。
 私たちは無尽蔵にも思える太陽のエネルギーを受けて生命を営んでいる。一方的な太陽のプレゼンス………私たちは太陽に負債を負っているのである。借り受けたものを返済しなければならない。さもなければ神々との関係は壊れて、太陽はその運行を止め、宇宙は崩壊してしまうだろう………このような負い目がアステカの民の心を支配していたのかもしれない。贈与と返礼の普遍的 な経済原則が、野蛮だといわれる古代社会をもしっかりと貫いている。随分と乱暴なやり方ではあったが、アステカ人は私たちにこう教えているのだ ………

 太陽の輝き(栄光)は、惜しみなき自己犠牲(浪費)によってしかあがない得ないのだ……… と。

 一方、私たちの近代資本主義社会が追求しているものは、死から可能な限り遠ざかろうとする「生き延び」への意志である。資本の蓄積の根源には不安の解消 ………あらゆる生命の危険への備えという動機があるはずだ。富を蓄えておくことで不測の事態に出合っても快適な生存を維持することができる。………個人の苦痛なき生き延び………これが近代的価値の根源である。
 資本は(私たちの生存の維持のための必要を越えた剰余の)富をさらに増殖させるため、すべて生産力向上へ向けての投資にまわす。その結果資本は無限の増殖サイクルへと突入する。資本とはまさに私たちの中にある「生き延び」の原理が爆発的に暴走してできたモンスターである。
 貪欲に「生き延び」のみを追い求めた報いなのだろうか………近代資本主義社会のもとで人間は利潤の追求という至上の目的のために生産の道具と化してしまった。私たちは働くために生まれ、死んでゆくのだ………。肥大化した生産力が生み出した文明の恩恵を受け、快適な暮らしを享受しているかに見えるが、私たちは道具としての隷属的な生の虚しさを味わい続けているのもまた事実 なのだ。生産工場と化した地球の家畜のように管理された労働者の群れ………、それが私たちの自画像である。 坦々とした生産のリズムを覆い隠すかのようにスペクタキュリーな商品が日常にあふれ、私たちがその書割りのような見せ物に夢中になっているうちに、大空に輝いていた太陽は厚い灰色の雲の向こうへ消えてしまった。

 近代以前、「祭り」(浪費)は至高の価値として社会の中に君臨していた。古代や中世の社会は、祝祭、王権、貴族、宗教といった非生産的、浪費的な価値を 中心に動いていたのだ。人々はそれらの中に「聖なるもの」を見たり体験したりしていた。
 しかし、市民革命、産業革命というヨーロッパの大事件を通じて権力を勝ち取っていったブルジョワジーは、社会にドラスティックな転回をもたらした。それまで至高の価値として社会に君臨していた「祭り」(浪費)にかえて、「生産」をその地位に据えたのだ。非生産的、浪費的な価値は断罪され、祝祭、王権、貴 族、宗教など、かつての「聖なるもの」は、衰退し、形骸化していかざるを得なかった。「俗なるもの」、生産的価値の全面化………それが私たちの近代なのだ。
 資本主義は、その相棒である科学技術と加速度的に向上する生産力でもって、瞬く間に世界を覆い尽くした。もはや地球上を支配するのは生産の論理のみである。その結果、私たちの世界からは、かつて「浪費」によってまかなわれていた「栄光」のドラマが消えていったのは必然である。生命の浪費(犠牲)によって死の濃い影がおちていた強烈なコントラストをもったドラマから影が消え、灰色の雲の覆われた、物理法則のみが掟である茫漠とした散乱光にみたされた無彩色 の空間が私たちの前に広がっている。
 あなたは、毎日大きな不満なくそこそこ楽しく暮らしているはずなのに、何かポッカリと心に大きな穴が開いたような感じを抱いたことはないだろうか。何かが足りないと感じたことはないだろうか。ひょっとするとその足りないものとは、青空にギラギラと輝く「祭り」の太陽なのではないだろうか。

 それにしても太陽はどこへ行ったのだろう。天上に熱く燃えるあの眩しい太陽は………。あの目も眩むような輝きが私たちのところに戻ってくることはないのだろうか?…………もしあなたが太陽を渇望するのなら、いまこそ私たちはアステカの民の教えに立ち返るべきなのだ。

 太陽の輝き(栄光)は、惜しみなき自己犠牲(浪費)によってしかあがない得ないのだ………という教えに。

 いやいや、まさか21世紀の世界に生贄の殺害の儀式を復活させるなんてバカなことは考えちゃいないさ。ただ私は、この索漠とした灰色の近代空間を、新し いドラマで満たさなければならない、という欲求を抱くのだ。色鮮やかで、コントラストの強い、新しい形の「祭り」で満たしたい…………。
 実は、新しい形の「祭り」のオルガナイザーにはすでに先達がいる。それは孤独な思想家や芸術家たちだ。たとえばニーチェやゴッホといった人たち ………。人間性や新しい美を追い求めた彼らの思想や作品は時代のコード(規範)を破るものだった。それゆえ時代は彼らを無視し、排除し、システムの辺境へと追いやった。そこは近代社会の生産主義的理性が理性であるために排除した、もののけやら狂気やらエロスなど が徘徊する闇だった。マイノリティとして闇の中へ消えていった彼ら………しかしながら彼らの死後、時代は彼ら の言葉や芸術が眩しい輝きとともに闇へ通ずる辺境の空に立ちのぼってくるのを驚きとともに見つめるのである。
 私は彼らの言葉や芸術に近代社会に生まれた新しい「聖なるもの」を見る。「俗なるもの」に覆い尽くされた近代社会に彼らは「聖なるもの」の輝きを導き入れた。彼らは「聖なるもの」をつかむために、辺境への孤独な旅を引き受けたのだ。彼らは誤解と嘲笑に満ちた闇への道を、近代的な日常の安逸を捨て突き進んだのだ。彼らの悲劇的な生は、近代社会における孤独な「祭り」だ。そしてこの孤独な「祭り」の輝きは、彼らの自己犠牲的な辺境への歩みによってあがなわれているのだ。

 生産的な価値が支配する私たちの近代社会の辺境の地の彼方に、近代が失った外部(祭り)への脱出口がある。かつて「祭り」は季節ごとに訪れ、神は神殿に 降り立っていた。しかしそのような「聖なるもの」の輝きは、いまやつらい旅を乗り切って闘いとらねばならないものとなった。それが近代人の「祭り」の太陽 とのかかわり方なのだ。
 ニーチェやゴッホたちの後からも、次々と辺境の旅へと出発するものが現れた。アバンギャルド芸術、ダダ・シュルレアリスム………。そしてその流れはいまも途絶えてはいない。シチュアシオニスト、アウトノミアといった反体制的な運動の中にも、ニー チェやゴッホの中に燃えさかっていたのとまったく同じ「祭り」の奪回への意志を私は見るのである。
 芸術家とか哲学者とか革命家なんていう職業的なカテゴリーで彼らを語るのはやめたい。私はここで『祭りの戦士』という言葉を提案する。古代メキシコで太陽にエネルギーを与えるために戦ったアステカ戦士のように、近代の灰色の空に新しい「祭り」の太陽を輝かせるために、果敢にシステムに闘いを挑み、孤独を恐れず辺境への道を歩んでゆく者。それが『祭りの戦士』である。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
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