泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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「逸脱」と「逸脱もどき」

 また、大坂さんが、きはむさんのとこで私への援護射撃をしてくれたようです。久しぶりのこのお題………今でもけっこう議論の成り行きに注目してくれてる人もいるようですし、相変わらず私には奇怪な思考にしか見えないきはむさんの論なのですが、明らかな誤解もあるようなので、その辺り整理してみたいと思います。
 
 私たちの議論における対立の原因を、きはむさんは現状認識の違いにあると考えているようですが、私はまず、「逸脱」という言葉で意味するものの違いに原因があると感じました。実際、きはむさんが、岡本裕一朗氏に託して言っていること………自由な選択と多様性が尊重されながら人間が単一化(モノ化)していく………という現状認識は私も共有するところです。
 つまり私が言いたいのは、この市場における自己決定や選択の多様性に解消され(つまり資本に回収され)てしまった「多様」や「逸脱」とやらは、もはや多様でも逸脱でもないということなんです。むしろ(例えば岡本氏や、きはむさんのしているような)私たちを管理しようとするこのような資本主義権力の巧妙な戦略をあばきだし分析する言説活動………そういうものこそが、私が考えている(権力にとって許しがたい、不届き千万な)「逸脱」行為だということなのです。このような、システムの外部に基点をおいて私たち自身の生きる条件を批判的に分析し、それとは別の社会や人間のあり方を構想することは、それ自体一つの反体制的かつ逸脱的なアクションでなくして何でしょうか。だから私にはきはむさんが熱心にブログに書き綴っていることが逸脱行為にしか見えないし、その意味できはむさんは立派に逸脱者だと思うんです。
 それに、きはむさんは「現代社会は逸脱を許すシステムに向かっている」との現状認識を示していますが、全くそんなことはないと私は思います。なるほど岡本裕一朗氏は画一的でタイトな規律社会から、多様性を許容するソフトな管理社会への移行が現在社会の深層で進行していることだと述べていました。しかしそれが管理である以上、その社会で許されているのは「多様」でも「逸脱」でもないと考えるべきでしょう。権力はその「逸脱」が脱色され、無力化し、回収されてしまっていると認識しているからこそその存在を許しているわけで、それは形骸化した逸脱もどきにすぎません。形態こそ変わったとはいえ、単一化した権力の支配そのものは何も変わっていないというのが岡本氏の認識でしょう。                  
 岡本裕一朗氏はこう語っています。

 管理社会において自由が可能になるのは、管理が消滅するからではない。むしろ、管理社会の深層に光を当て、人々に隠された管理社会の構造を顕在化することによって、「管理社会における自由」が可能になるのだ。「必然を思惟する」こと………管理構造を洞察すること………が、「自由になることを意味している」。したがって、管理からの「逃避」ではなく、隠蔽された管理の解読こそが、何よりも必要なのだ。(『ポストモダンの思想的根拠』206ページ)

                    

 おそらく、きはむさんがイメージしている「多様」や「逸脱」は、すでに消費社会に回収されてしまっている「オレ様」だとか「スキゾ・キッズ」みたいなものじゃないかと思います。が、それは既に形骸化してしまった逸脱もどきに過ぎず、当然ながら私にとっても批判の対象です。
 そうではなく、私が「逸脱」という言葉で表現したいのは、「自由」になること………ここでの岡本氏のように権力の巧妙な支配の戦略を抉り出すアクションであり、(きはむさんもそれを行おうとしているのです)、それが本当に管理や支配の急所を突いているなら、そのような高度に逸脱的なアクションを権力は何一つ認めないはずです。おそらく社会は今でも、そしてこれからも「逸脱」を認めることはないでしょう。認めないからこそそれは社会によって「逸脱」と捉えられるのです。
 もちろんそのようなギリギリの努力から闘いとられたアクションや言葉も、時間とともにいずれ資本に回収されてしまうのでしょう。………例えば、岡本氏の言葉も出版社の利益に還元され、御用学者に都合良く剽窃され、知的なモードとして流通、消費されてゆくだろうといった具合にです。………しかしそれは反権力的な「逸脱」行為そのものが、資本主義の一元性に解消、単一化しているということとは違うはずです。資本の中に飲み込まれてしまわないために、社会を新たに捉え返す反権力的なアクションはその都度、この瞬間に新たにやりなおさなければならない(逸脱し続けなければならない)………私はそのような瞬間のなかにしか多様性(「自由」あるいは「外部」といってもいいでしょう)はありえないのだ、と考えています。

 そんなわけで、私がどうしても理解に苦しむのは、きはむさんはが自らの逸脱性を棚に上げながら「多様」や「逸脱」はダメだダメだといっていることなのです。しかもきはむさんは、ずいぶん熱心に勉強し、社会の現状を批判的に分析しているように見受けられます。このパッションがどこからくるのか知る由もありませんが、(想像なのですが)基本的には管理社会の構造を暴き出す作業(=逸脱)に面白さを感じているからではないのでしょうか? (たぶん)自分では「逸脱」を楽しんでさえいるのに、他の人の逸脱は、新自由主義を強化する反動だなんて言っているのです。そんなこと言うんなら、きはむさんも沈黙すべきだと思う………私の立場からするとそう言いたくなってしまいす。
 確かにきはむさんの思考の筋道を辿ってゆくと、「多様」や「逸脱」はいけないような気すらしてきます。しかし私が思うに、岡本裕一朗氏やきはむさんにような現状認識を有効なものにするためには、単純に「多様」や「逸脱」がダメ、「自己責任」がダメ、という言い方が必要なのではなく、今日の消費社会の市場でこれらの(かつて「自由」や人間の解放と結びついていたはずの)言葉が現在どんな役割で使われ資本主義の権力に奉仕しているかをはっきりさせること………つまり「責任」という言葉同様、「多様」や「逸脱」という言葉に関しても、二通りの使い方………資本主義、消費社会の市場のルールの内部におけるそれと、そのルールそのものを乗り越えるために社会を分析しようという立場を表現しようとしているそれとは、はっきり腑分けするべきだと思うのです。これを前者の文脈のみで断罪されてしまうと、(前にも書きましたが)岡本氏やきはむさん自身の管理社会の巧妙な戦略を告発する「逸脱」的な言葉も、モノ化した、無効な(あるいは反動的な)言葉でしかない……ということになり、そうなると私たちはもう何も発言できなくなってしまうからです。つまり現行の社会の中で、私たちは黙って管理に身を任せて生きるべきだというのでしょうか? それともきはむさんの反体制的(逸脱的な)な言葉だけは、この社会の内部において「多様」であることを逃れうる特権的な位置にあるとでも言うのでしょうか。幽霊か透明人間、あるいは神のごとき存在であればそれも可能でしょうが………。

Comments
 
>島田さん
あー、そういえば、ルーマンの概説書みたいなの昔読んだ気が。コンティンジェンシーっていうのは今、Googleで調べてみました。その程度です。
 
osakaecoさん、はじめまして。もしかしてコンティンジェンシーとか、オートポエティックとかそういった言葉に反応される方ですか? もしそうなら是非話を伺いたいと思いまして。勘違いでしたらすいません。
 
お久し振りです。すごく不毛な気がしますが、読者向けに一応応答します。
幾つか質問です。荒井さんが「権力」という言葉で指している対象は何ですか?「支配層」とか「大企業」とか、特定の個人や法人ですか。「資本」では曖昧で解らない。「許す」「許さない」の判断をする主体がいるんじゃないんですか?
で、結局許されているじゃないですか。まさか牢屋の中から書いていないですよね。それなら、私の言説も荒井さんの言説も、荒井さんの定義では逸脱ではないのでしょう。そうすると、逸脱というのは明白な犯罪行為やテロリズムだけを指すことになりますね。そこに、つまり合法/不法に使い分けの線を引くことには賛成できなくはないです。でも、それだと結局荒井さんは何も逸脱していないことになりますよ。
後は繰り返しになりますので止めます。御機嫌よう。
 
あらいさん、こんばんは。「逸脱」という言葉。この言葉はよく使われるようになりましたが、マーケットにおいて逸脱するということはそんなに簡単なことではないと私なんかは思ってしまう。「システムの外部に基点をおいて私たち自身の生きる条件を批判的に分析し、それとは別の社会や人間のあり方を構想」といってもそもそも自分の立ち位置がシステムの外部に立っているという判断はどこでするのか教えていただきたい。もしそんなことが可能なら、私は明日にでもそこに行きたいです。乱文お許しください。
きはむさん 
いきなり不毛だとか読者のためとか宣言されてしまうと、さすがにショックですね(笑)。上は、あくまでも私の名前がでてくるきはむさんの新しい記事(まとめたもののようですが)やコメントを読んで率直に感じるところを書いたものに過ぎません。別に答えを求めているわけではありませんから、もし不毛だと感じるようでしたら、もちろんレスの必要はありません。が、説明不足だということであれば………自分でも曖昧なまま語っている言葉もありますから、整理してみようと思います。まあ、興味があるようでしたらまたどうぞ。
島田さん 
どもどもです。
もちろん「外部」なんてものは実際には存在しないわけですが、現行を批判することは(島田さんもそうしてると思いますが)、現行以外の社会のあり方や人間のあり方、可能性みたいなものを頭の中に想い描かずにはできないわけですよね。判断するも何もそのとき島田さんは既に「外部」の視点に立ってるのではないでしょうか?
>マーケットにおいて逸脱するということはそんなに簡単なことではない
金目当てのアーティストみたいなものを思い浮かべます………確かに簡単ではないでしょうが、上でも書いたように、マーケットに解消されてしまった逸脱なんて逸脱とは言えませんし、ぶっちゃけ私はそんなものには興味がありません。
援護射撃のつもりではないんですが 
システムの外とか中とかが問題になる場合、イメージなり、モデルなりでなんらかのシステムを想定しているわけですよね。モデルならば、システムの構成要素のふるまいについての仮定なんかがかならずあるわけで、それを逸脱して行動するとき、何が起るかはわからない。島田さんがいうように世界というシステム自体には外部はないのですが、われわれが分析したり、イメージしたりするシステムは外部があるのです。
それときはむさんの「で、結局許されているじゃないですか。」という点に関してですが、逸脱が放置されている=許されているではないと思うのです。逸脱を取り締まったり、なんらかの形で罰を与えるのも、システムにとってコストをともなうわけで、システムの維持にとっては容認できないが、とりあえず放置されている状況というのはあると思います。
それと、荒井さんに関しても感じるんですが、きはむさんとこで書いたんですが、私の逸脱のイメージはいきなり逸脱でなく、とりあえず、ちょっといつもとちがうことしてみようということの積み重ねです。権力の急所をつけるかどうかを最初から問題にしてたら、すくなくとも私のような典型的に日和見な人間はなんにもできません。ただ、プチ逸脱でも、予想外のことは起るし、いい方向にすすむかどうかなんてわからないけど、必ず悪い結末が待っているわけでもないんじゃないのといいたい。それで、島田さんのいわれていることも、いきなり大逸脱→革命みないなのを、逸脱という言葉に期待しているように感じるのですが、どうでしょうか。
大坂さん 
あ、私もプチ逸脱派ですよ。
……というか、「逸脱」って言い方はあくまでもシステム側からするとそう見なされるだろうという話で、主観的には逸脱しようとかってほとんど考えてなかったりします。肝心なのは上でも引用しましたが、システムに没入しないために、「必然を思惟する」こと……そして思惟し続けることだと思っています。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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 職業 アニメーション背景制作
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