泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: Thought  

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半眠状態(まどろみ)について

 図書館にジョルジュ・バタイユの『ランスの大聖堂』(酒井 健訳)という本があった。この本の中に「半睡状態(まどろみ)について」という短い文章が載っていた。これはバタイユがシュルレアリスムについて述べたものである。
 バタイユは反近代的な立場に立つシュルレアリスムと血縁を持った思想を展開していたにもかかわらず、彼らと激しく対立していた。この文章は第二次世界大戦後、シュルレアリスムが運動として低迷し始めた頃に、シュルレアリスムを擁護する目的で書かれたものだ。
 シュルレアリスムの肯定的な意義を強調しながらも、はっきりとバタイユは、僕も指摘してきたシュルレアリスムの作品中心主義について苦言を呈している。おそらくここにシュルレアリスムがまどろみに陥ってしまった原因がある、と見ているわけだ。
 面白かったので、こっそり本からコピーしてファイルをアップしておいた。翻訳でもあり、バタイユに慣れ親しんでいないとこの難解なテクストを理解するのは難しいかもしれないが、間もなくリリースする予定の僕のエッセイ『シュルレアリスムの夢』が、このバタイユのテクストの恰好の解説になると思う。別に解説を意図して書いてるわけじゃないんだけどね。


半眠状態(まどろみ)について   ジョルジュ・バタイユ


 それにしてもどうして人は、絵画や詩が事物に与えている表現を、事物自体と混同するようになってしまったのだろうか。
 シュルレアリスムについて語るのに私は適役ではないかのように見える。実際私は、機会あるごとに、シュルレアリスムに対立してきた。しかし私は今シュルレアリスムを内部から肯定してみたいと思っている。かつて私が味わった欲求として、そして現在の私であるところの不充足として、シュルレアリスムを肯定したいと思っている。むろんこれは、かなり明確な動機に促されてのことなのだ。シュルレアリスムは、私という古くからの内部の敵が持つ可能性、シュルレアリスムを決然と定義しうる可能性によって定義されるのである。
 シュルレアリスムは、容認された限界に対する真に雄々しい(妥協的なものが何もない、神とかかわるものが何もない)異議申し立てであり、不服従への厳格な意志なのだ。
 シュルレアリスムという名が表そうとした擾乱………めったに見られない激流のような擾乱、しかしそれでいて……………は、この擾乱自身に対して十分に自由な形象を与えることがまったくできなかった。たしかにアンドレ・ブルトンがしたように、この擾乱を表現の自由に結びつけるというのは、利点を一つならず持ってはいた……それに自動記述は、躓きの石[思わぬ障害・困難]よりはすぐれていた。というのも、秩序だった言葉や形象は、気づかぬうちに少しずつ自然全体を有益性に従属させている一体系の、私たちの内面における継承者であるのに、その言葉や形象にまで不服従の姿勢が及ばないのだったら、その不服従は、単に外的な諸形態(政府とか警察のような)への拒否ぐらいに留まってしまうからだ。現実の世界への信頼、というよりかむしろ隷属は、これに一点の疑いも持たないのだったら、いっさいの隷属の基底になる。自分の中で言語の絆を断ち切るという欲望を持っていない人を、私は自由な人だとみなすことはできない。だがそうかといって、私たち自身の存在を何ものにも従属させないという配慮をできるだけ遠くへ押し進めるためには、一瞬のあいだ言葉の帝国から逃れるというだけでは不十分なのだ。
 他方、シュルレアリスムが詩と絵画に与えた地位には、最初から、根本的な弱点がともなっていた。シュルレアリスムは、存在(ひと)よりも作品を優越させてしまったのだ。たしかに両者を区別することははっきりとやめなければならなくなってはいた。だから、存在(ひと)の価値は、作品の出来ぐあいに応じて決まることになってしまった。卑劣な人間による素晴らしい詩というのは矛盾であると思われていた。しかしこれはありうることなのだ。そしてこれは、純粋な人間から期待すべき最良のものは詩である、というようにならないことを意味している。
 私が定義した意味での行動はほとんど到達できないものなのだ(経験がこのことを示している……ルネ・シャールを除くのならば、シュルレアリスム出身の人々によってなされた重要な行動のなかで、のっけから彼らの信条を放棄させなかったものなどほとんどなかったのだ)。それにそもそも問題になっているのは行動ではないのである。[注] 私は、極端な異議申し立ての運命を決然と絵画や詩の実践に結びつける理由が見いだせない(人の関心を引いて人の数をふやすという配慮以外に……実際、多くの若者が詩を書いた絵を描いているのだから。轍[=因習化した表現法]も存在しているのだから)。むしろ私は、暴力的な異議申し立ての名のもとのシュルレアリスムの詩や絵画の実践が最終的にシュルレアリスム以前の詩や絵画の実践の後を継いでしまったと見ている。私はこのような継承に関心を持っているが、それはこの継承において極端な混同が極端な異議申し立ての座を占めてしまっているからなのだ。極端な異議申し立ては、さらなる厳密さを要求しているのである。<至高の操作>がなければ私たちの誰もが既成秩序に仕えたままになるのだが、一篇の詩や一枚の絵が<至高の操作>を実行するとどうして確信が持てよ篇うか。この点に関して私は、際限のない異議申し立てだけが、休みなく実行される方法の厳しさだけが、賭けられているものに対応すると了解している。しかし、その際のもっともささやかな弱点でさえ次のようなものなのである。つまり、私たちの作品が、隷属的世界の掟から逃れるどころか逆にこの世界に仕えるようになる、ということだ。真面目なものまでもが、不安げな配慮までもが、私たちから好運を奪ってしまう危険性をいつも持っている。実際のところ、最初から<至高の操作>は、むしろ夢のごとくに出現するものなのかもしれない。
 今日までシュルレアリストたちに最も欠けていたと思われるものは、知的な能力だった。シュルレアリストたちは、知性の体験に対してあからさまに軽蔑を表明してさえいた。しかしながら、あれらの実践を制御することは、おそらく、厳密な解放のための鍵であるのだろう。個人の優秀さはしばしば隷属性のしるしなのであるが、しかし他方、私たちがわずかな知的手段しか持ち合わせていないのならば、私たちは、精神の隷属性を解消することができないのである。そしてまた、よく見てみると、シュルレアリスムは自動記述それ自体に結びついているだけでなく、思考を開示するものとしての自動記述の価値の肯定にも結びついている。ブルトンが教示していたことは、無意識的なものを聞き取りながら書く[=自動記述]ことだけでなく、このような自動性の価値を意識することでもあった。だがこの教えは二つの道を切り開いた。一つの道は、作品の方へ向かう道であり、即刻いかなる原理をも作品のために犠牲にしながら、絵画作品と書物の持つ魅力の価値を強調していた。この道は、シュルレアリスムが進んだ道だった。もう一つの道は、存在の方へ向かう険しい道だった。こちらの道を辿ると、ひとは作品の魅力にわずかな注意しか払うことができなかった。作品の魅力がとるに足らないものだったからではない。この道行きであらわにさらけ出されたもの、その美しさ、醜さはどうでもよかったのだが、ともかくそれは、事物たちの深奥であったのであり、以降夜のなかで存在の葛藤[=異議申し立て]が始まったのだ。すべては、厳密な孤独のなかで、宙づりにされた。作品を<可能なもの>に、美的な快楽に、関係どける手段は消えうせてしまった。(こうして続けられたものは、ランボーの葛藤だった。)
 しかしシュルレアリスムのグループが存在しなくなったとき、その挫折の原因は、作品のシュルレアリスムに[=つまり、作品が超現実的でなくなったことに]最も関係していたと今の私は思っている。作品がグループとともに存在しなくなったからではない。シュルレアリスムの作品は今でもかつてと同じほど豊かに存在している。しかしシュルレアリスムの作品は、孤独を打ち破る希望の肯定と結びつくことをやめてしまった。今日、シュルレアリスムの書物は書架に整然と並んでいるし、絵画作品の方も美術館の壁に飾られている。だが、それだから偉大なるシュルレアリスムが始まると私は言うことができるのだ。 


[注] 私が社会参加の文学の原理にいわば対立しているからというわけではない。今日、社会参加の文学がジャン=ポール・サルトルによって継承されているのを見てどうして喜ばずにいられよう。(含みのある喜び方にしても)。しかしここで私には、二十数年前にブルトンがシュルレアリスムの全活動をこの社会参加の文学の原則に賭けていたことを想起させる必要があるように思えるのだ。同時にまた私は、実存主義派の第二の主張……実存は本質に先行する……はシュルレアリスムにとってなじみのものだった(シュルレアリスムがマルクスにもましてヘーゲルに依拠していたかぎりにおいて)ということも想起させねばならない。シュルレアリストたちの知的能力が、否定されえない転覆の力に見合っていなかったことは、そういってよければ残念なことだった。今日、実存主義者たちの知的な価値はたしかなものだが、しかしこの価値がどんな力を支えているのか定かに見えてこないのだ。が、それよりも、明白なことを確認しておく方がましだろう。シュルレアリスムは死んだように見えはするが、シュルレアリスムが行き着いた諸作品の甘ったるさと惨めさにもかかわらず、人間を人間から強引に引き離すことに関しては、シュルレアリスムがあり、ほかには何もないのだ。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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