泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 旅行・タイなど   Tags: タイ  思想  

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ソンクラーン

 私は「祭りの戦士」というふざけた名前を名乗っているので、私のことをお祭り好きな性格だと想像する人もいるかもしれないが、実際はいわゆる「祭り」とはまったく無縁の男だった。たとえば、地元の夏祭りから学園祭にいたるまで、「祭り」と名のつくものに、ろくすっぽ溶け込んだためしのない、ノリの悪いシラケた男として生きてきた。たとえば高校のの球技大会のときなど私は、盛り上がるクラスメートたちから離れて校舎の裏手でSF小説を友達と二人で読んでいた。女教師に見つかって、「あんたたち暗いわねえ、、、」と言われたことを思い出す。
 祭りの熱狂というものを理解はしている。死者が出るほどの激しい祭りが今でも生き続けているという。諏訪の御柱祭で柱から転げ落ちて大怪我をして半身不随になってしまった男のルポをテレビで見たことがある。一生を棒に振ってしまったと言われても仕方のない結果になってしまったその男気を私はすごいとと思う。
 あるいはリオのカーニバルでもねぶた祭りでもいいが、祭りのときにつくられる「お祭りベビー」が多いという話をよく聞く。とても好きな話で、この話を聞くたび私の股間は疼いてしまう。。。だから祭りの熱狂の感覚をわからないわけではないのだ。

 実際、自分の過去を振り返ると、なんで自分は祭りの中心にいなかったのか、、、何で祭りのノリにまかせていい女を抱き、子を孕ませるような男ではなかったのか、、、という悔恨の情がふつふつと沸いてくる。つまり私は、祭りの輪の中に自分自身を投げ入れることを恐れていた、、、ということに違いない。
 しかし一方で、それら私が体験してきた「祭り」が、近代化の中で形骸化し、伝統社会の中でかつて「祭り」が持っていた機能をすでに失ってしまっている、という事態を、私自身のシラケた気分の中で感じ取っていた、と考えることもできる。伝統的な祭りのディテールが、私たち近代人の祭りへの渇望に応えることができるとはどうしても思えない。御輿を担ぐ男たちの熱狂状態をすごいなあ思う反面、なんであんな恥ずかしい格好をして奇妙なやぐらを担いで興奮してるんだろう? はっきりいってバカなんじゃないの? と思わざるを得ない。。。
 おそらくそのシラケ感覚は正しいはずだ。近代化とともに伝統的な「祭り」の心臓は、血液を送り出すことをやめてしまった。いまだに多くの人々を惹きつけているにしても、まさに「お前はすでに死んでいる」のだ。これからも伝統的な祭りは受け継がれてゆくであろうが、歴史として、そして風変わりなスペクタクルとしてのみ反復され続けるに過ぎない。
 しかしそんな私でもたったひとつ、心を惹きつけられてきた「祭り」がある。アバンギャルド(前衛)芸術という「祭り」だった。驚くべきことに、近代社会において」祭り」の形態はまったく新しく生まれ変わったのだ。それは年ごと、季節ごとに回帰してくるものではなく、(社会の規範に反抗することによって)自らの生を賭けて勝ち取るものになった。。。(ということはこれまで何度もここで書いてきた。)
 さらに付け加えるなら、前衛芸術という新しい「祭り」もとっくに祭りのあとの空しさを味わう段階にあり、今では前衛の青白い亡霊(スペクタクル)のみが世の中を徘徊しているありさまであることも、繰り返し主張してきたことであって、前衛芸術に続くはずの新しい「祭り」の形態を模索しようというのが、このブログの基本テーマであった。
 、、、が、まあそれはいい。ここでのテーマは「ソンクラーン」である。

 毎年4月にタイ周辺で行われる新年を祝う祭りをソンクラーンという。通称「水かけ祭り」として有名だ。もちろんこの祭りもいまだ人をひきつけているものの、他の伝統的な祭りと同様、回帰する屍にすぎない。
 私など「水かけ祭り」という言葉から、善男善女がつつましく水をかけ合う可憐な祭りを想像してしまうのだが、実際にはかなり過激で容赦のない水のかけ合いである。ソンクラーン中にパスポートや電気製品を持ち歩いてはいけない。こちらの都合などお構いなしに水は私たちへと襲いかかる。道端に陣取った水かけ部隊は自動車を攻撃する。スピードを出しているとかなり激しい水圧が自動車や乗客を襲うことになる。一度ソンクラーン中ににオンボロバスに乗っていたのだが、子供たちのバケツの水の攻撃を受け、バックミラーが吹っ飛んだのを見たことがある。
 人々はびしょ濡れになり白い粉を顔に塗りあい酒を飲んで音楽にあわせ踊っている。水に濡れた服がピタリと体に張りついた女の子はちょっとセクシーだ。。。このようなやや常軌を逸した過激さは、なるほど何か心をざわつかせる「祭り」に違いない。
 が、いずれにしろそれはソンクラーンの一面、子供や若者を中心として行われる表向きの一面に過ぎない。いい大人の関心は多分違うところにある。

 タイ人の賭博好きは有名である。あらゆることが賭けの対象になっている。トランプ賭博、サイコロ賭博、闘鶏などなど、、、ムエタイやサッカーのような人気のスポーツも賭けの対象で、スポーツとして興味をもたれているのか、金がかかってるから夢中で観戦されるのかはよくわからないところだ。また、タイの周辺諸国との国境にはタイの金持ち目当てのカジノが立ち並んでいるという。かつてカンボジア難民で有名だったアランヤプラテートも今ではカジノの町になってしまった。
 もちろん賭博行為はタイでも取り締まりの対象のはずだ(事実上ザルだが)。しかし詳しいことは知らないのだが、ソンクラーンの期間中はこの規制が取り除かれ、こそこそと暗い奥まった部屋で営まれていた賭け事をおおっぴらに楽しめるらしいのである。女房の田舎へ行くと、白昼堂々、あるいは夜を徹して村のあちこちに賭博の輪が出来上がり、ときたま歓声や怒号が発せられたりしている。(私の女房ももちろん賭博に参加し、私の懐を過酷なまでに苦しめてくれている。)
 祭りの戦士は浪費行為の肯定的な意義を資本主義社会の中に奪回しようとするのである。賭博は「祭り」と同様、あきらかな浪費、消尽の行為である。なんでもバタイユは賭博にずいぶん入れ込んだことがあると聞く。それだけに私にも賭け事に熱くなる気持ちだけはよくわかる。しかし、私の賭け事への感受性はシラケており、「祭り」へのそれのようにアンビバレントなものだといえる。

 私は子供のころに父親を亡くし、パートタイマーの母に育てられたので、裕福とは程遠い、つつましい生活が身についている。名前を裏切るようだが、この戦士はよく言って堅実、悪く言えばケチである。無駄使いの経験などほとんどなかったと思う。だから、今でも賭け事にはまったく興味がないし、ほとんどやったことがない。(唯一はまった無駄遣いは、アジア放浪だった。)これからもたぶんやらないだろうと思う。パチンコしかり、競馬、麻雀しかり、宝くじですら買わない。
 堅実だということは、裏返せば、失うことを恐れているということである。つまり「祭り」を恐れていたのと同様の臆病さがその感情の根っこにあるにちがいない。私は賭けに負けて一文無しになった自分を想像できない。宵越しの金は持たない、、、なんてことは絶対にできない臆病者なのである。
 そのせいだろうか、たとえば麻雀をやってる場のタバコの煙に満ちた異様な雰囲気が私は苦手である。普段冗談ばかり言ってるタイ人たちの賭博中の静けさ、妙に真剣な面持ちには怒りとも悲しみともつかない複雑な感情を覚える。いい気なもんだ! こんなことだけにマジになりやがって! バカ!
 ソンクラーンごとに、いや、日常的に繰り返されているタイ人の賭け事への熱狂を屈折した思いで私は見つめざるを得ないのである。

 賭け事は、当然だが勝って金が手に入ってこそうれしいし、興奮もする。負けて元手を失うことが嬉しいやつはいない。普通私たちは金が欲しいときには労働するが、賭け事で得られる金は労働によらずに幸運によって手に入ったものである。そのような幸運を喜ぶのは怠惰さゆえともいえるが、同時に労働することを潔しとはしないある種の貴族性ゆえだともいえる。したがって賭けに勝利した無上の喜びを私は理解する。しかし繰り返し賭け事にのめりこむ人の気持ちはやはり私には理解できない。「祭り」に熱くなれる人と同じで理屈で納得のできない不可解な存在だと感じるのだ。
 賭け事にのめりこむ人が求めるものは、たんに金なのではなく、貴族的な至高かつ無上な歓喜の瞬間の(一回限りの、ではなく)再来である。たんに金が欲しいのなら働けばいいのだが、苦痛を伴う労働に至高の輝きなどあるはずもない。賭け事にのめりこむ人にとって、そのような味気ない労苦を味わうことは許されないことなのだろう。
 しかし仮に五分五分の確率で勝てる賭け事であっても、賭けを繰り返してゆけば、半分は負ける計算になる。いわゆるトントンというやつだ。そして賭けに興じているその時間は、労働していないが腹はへってゆく純粋な損失の時間だ。仮に金が欲しいだけにしても、これでは貧乏になる一方だというのは目に見えている。至高な輝きの瞬間を求めてどん底へ落ちてゆくというお馴染みのパターンだ。
 また、ある程度、遊びのテクニックや腕が問題になる賭け事だとしたら、いい腕を持つほど勝つ確率は高くなるだろうが、テクニックを磨く努力は、高度になればなるほど労働の様相を呈してくる。パチンコで食ってるプロがいるという話なのだが、常日頃パチンコ台を研究し、朝から晩まで一日中台にかじりついて玉の動きを追っているありさまは、歓喜というよりかなり過酷な、ほとんど「パチンコ労働者」と呼んでいい存在に成り下がってしまっていると思う。

 いや、たとえありえないぐらいの幸運が続き、賭けに勝ち続けることができたとしても、それは同じゲームに興じる人の敗北と損失の上に成り立った勝利だ。(そういうゲームのルールを受け入れて賭けに負けたのだから、金を失っても文句を言うやつはいないだろうが。。。)その勝利によって得られる至高な輝きも、奴隷や臣民の収奪の上に成り立った貴族の輝きと同じまやかしに満ちたものでしかないだろう。
 女房の賭博癖のせいで懐事情の苦しい私にとって、そのような幸運はうらやましい限りである。。。が、祭りの戦士が情熱を感じるのは、そんなてめえ一人のちっぽけな歓喜のために一万や二万のはした金を賭けることにではない。祭りの戦士は、だれも敗北することのない勝利のために、自分自身の生を賭けるのだ。それはもうこの上なくゾッとするほどおもしろいゲームだと思う。

Comments
 
へー、そういうものですかねえ。
つまり、いざというとき、目の前の女が自分と生物学的に血のつながった女かもしれない、と思って苦悩するってことですよね。
母親って言われると、年食った自分のおふくろを思い出しちゃうんでちょっと勘弁ですけど、姉や妹ならちょっとそそるものがありますが、、、どうでしょう? 韓国ドラマかなんかにありそうな題材じゃないですか。
それに近親相姦って、地球上の動物は多分みな血がつながってるわけだし、人類みな兄弟だと笹川会長も言ってましたよ(笑)。
僕が孤児だったらやはり宮本さんみたいな感じ方するのかなあ。
俺もそうだよ、kenさん 
いやぁ〜、いいなあ、このまんま自分のブログのエントリーにパクってもいいくらいだ。
俺が父も母も知らない孤児だった…ってことだけ変えとけば。
祭りも賭け事もダメダメだよな、ホント、俺たちシラケ世代には…。
でもなんか、もっとでっかい事に、賭けたいんだよな、
全てを…。
でしょう? 宮本さん 
身の回りにあるもの、何もかもダメなんですよね。シラケるどころか、ほとんど絶望って感じで。。。で、結局その絶望のどん底からしか次のものは見えてこない。。。まあ、そこに辿り着くまでがまた大変で。。。
宮本さんが孤児だって話は初耳です。誰でも人知れぬ過去があるのですね。孤児としての暮らしがどのようなものだったのか、想像もつきませんが、宮本さんもこうして立派な大人になって子育てまでしているのですから、この世も捨てたもんじゃありません。
私も今、人知れぬ苦悩を抱く毎日を送っているのですが(笑)、それをこれから少しずつ暴露してゆこうかと思ってます。
 
苦悩の暴露なら話は早いんだけど、孤児ってのはさ、
年頃の女はみんな姉さんかもしれないし、母さんかもしれないっていう…、いや、妹かもしれないし、
性欲の対象を絞り込めないっていうかさ、いざとなってからこいつはひょっとして…、っていう疑念をいつも抱かざるをえない…、ある意味馬鹿げたやつら、なんだよな、うん。
近親相姦、やだろ?

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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