泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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影に怯えるアメリカと「祭り」の精神

 『唐突に二十年近くも昔に読んだ赤坂憲雄の本に思い至ったのにはわけがあるのです。』とテレンス・アライ氏はインターネット上のサイトで出合った文章を読み上げた。

『それでは 報復にならない』

この圧倒的な非対称に驚愕する。

哀れな生贄の首を アラーの神に捧げる行為は
捕虜の性器をあざ笑う行為と 対称ではない。

米軍兵のあっけらかんとした無邪気さを見よ。
上官命令でしたと平気でのたまう想像力の欠如した非人間性を見よ。

米軍兵にとって 捕虜の性器は人間のそれではなく 
自らの貧困な欲望を投影させる悪ふざけの道具にすぎないのだから
イラク人など 今日は100人 明日は200人と まとめて処理つもりの 蟻なのだから
そのうちの10人を 裸にして積み上げたところで 何が悪かろうか、 というわけか。

米軍では首を落とすなんて面倒な真似はしない。
イラク人の首など落とす価値もないからだ。
イラク人を処理したかったら 毒ガスでも射殺でも 簡単な方法はいくらでもある。

この場合 対象は 人間ではなく ものだ。
殺されるのではなく 処理される命。
憎しみからではなく 傲慢さによって 処理される命。
吐き気をもようさせるような アウシュビッツの冷酷さが ここにある。


一方で 血吹雪をあげて切り落とされる 生贄の首は 重く
人間を殺すことの快感と 政治的宗教的意味を担うことが許されている。 

だからこそ あの映像は 
爆撃で死んだ50人のイラク人の映像よりも
恐怖と憎悪を生み出すことができるのだ。

だから アメリカ人の首をいくつ切り落としても 報復にはならない。
はじめから 圧倒的な非対称があるのだから。
相手の命に対する感覚が まるで違うのだから。

だが 全く違うこの二つの行為がもたらすのは 同じ 憎悪の連鎖だ。
まるで 何かに操られているかのように 憎悪の連鎖が 広がっていくのが見える。
私たちを操り 来るべき未来に向け 押し流しているのは 一体何なのか。


たぶん日本人の私は 両方の行為にそれぞれより少しだけ 近い位置にいる。
それぞれの行為の意味を 考えることができる。

だから 唾棄すべきものとして 目をつぶってやり過ごすのではなく
恐怖や嫌悪を排除して これらの出来事を 直視したいと思う。


 『この文章を読んで、『排除の現象学』に赤坂氏が書いていたことを思い出しました。アブグレイブ収容所での事件とそれに対する報復としてのアメリカ人の斬首………。アメリカとイラク(イスラム教徒)との間のやりきれない応報。だが、どうもその応報は非対称なんじゃないかというこの人の指摘がちょっとひっかかったのです。
 かたや追いつめられ、おそらくは自らの生命をかけ傷つけられたプライドを立て直そうとしての犯行。かたや世界最強の軍事力、経済力を背景に、まるで浮浪者狩りを行う子供のようにあっけらかんと、人を人と思わずに行われた犯行。いや、どちらも残酷な暴力であるのは間違いない……どちらの犯行が人間的でどちらが非人間的だなんて言っても意味はないのかもしれません。
 が、やはりアメリカ人はイラク人をアメリカ大陸の先住民であるインディアンと同じような目で見てるんじゃないかと思わざるを得ない………。つまり異文化を野蛮なものとして見下している………どうも私にはアメリカ人の異文化とのコミュニケーションの拒絶といったものが感じられてならなかったのです。

 赤坂憲雄は、ある共同体(社会)が異質なるものに出合ったときにとる反応から、共同体を<異物吸収型>と<異物嘔吐型>の二つに分けて考えています。異質なものというのは、理解しがたく不安や恐怖をもよおすもの、汚いもの、魑魅魍魎、例えば狂気などもそうですが、ここでは異文化ということにしぼって考えてみましょう。
 異文化は当該の共同体にとっては理解しがたく、不安や恐怖すら抱かせる存在です。生活習慣の違い、考え方、感じ方の違い。それがある共同体の日常を支える自明の前提を揺るがすからです。その異文化とふれあうとき<異物吸収型>の社会は、その異文化と何らかのコミュニケーションをとり、(それがたとえ暴力的なコミュニケーションであったとしても)異文化の存在を認め、相互に影響を与えあう関係になるでしょう。それに対して<異物嘔吐型>の社会は、異質な存在とのコミュニケーションを拒絶してしまいます。おそらく暴力的な関係に陥った場合、<異物嘔吐型>の社会は、異質な存在(異文化)を排除、殲滅してしまうことを考えるでしょう。

 決して詳しいわけではないので適切な例になるか自信がないのですが、例えばアメリカ大陸へヨーロッパ人が侵略していったときのことを考えてみます。
 スペイン人、ポルトガル人などラテン系の民族はメキシコ以南へ侵攻し、アステカ、インカなどのインディオの世界を徹底的に破壊し、収奪し、殺戮した。……恐るべき犯罪行為が行われたのは間違いありません。
 だが、今現在のラテンアメリカを見ると、国によって事情が違うものの、白人とインディオ、そして奴隷として連れてこられた黒人たちの混血が進み、メスティソ、ムラートなどといった混血中心の新しいアイデンティティを持った世界が出来上がっているように見えます。
 それに対して、アングロサクソンの侵攻した北アメリカでは、インディアンを殺戮したのは同じですが、彼らと交わることはほとんどなく徹底的に排除し、現在では小さな居留地に押し込めてしまっています。さらに、やはり労働力として連れてこられた黒人との関係も神経質な状態が続いている。アメリカ合衆国は多民族国家ではあるが、内部に分離を抱えていて混血の社会とはいえないということです。
 またアメリカの話ではありませんが、南アフリカの人種隔離政策を思い出してください。あそこでも黒人との対等な関係を拒んでいるのはアングロサクソン系の白人です。
 つまり、ラテン系の民族はどちらかといえば<異物吸収型>の社会であり、アングロサクソンのアメリカは<異物嘔吐型>の社会だとする理解が可能でしょう。これをコミュニケーションという点から眺めてみれば、<異物嘔吐型>の社会は、<異物吸収型>の社会に較べると、異文化(異質なもの)とのコミュニケーションの拒絶の傾向が強く感じられることがわかってもらえると思います。

 冷戦時代からアメリカが外国に対して軍事介入するとき、きまって口にされる大義は、「自由と民主主義」という言葉でした。なるほど、これらは近代市民社会の基本をなす概念であって、私たちが平等に生きる権利………また加えて民主主義こそは、全ての人間が対等にコミュニケーションをするための基礎でもあるのです。
 ところが人間同士のコミュニケーションのための基礎となる原理を世界中に押し広めているはずのアメリカが、その内部にコミュニケーションの拒絶を抱えている………。この矛盾こそが、アメリカという社会が抱える諸問題の源泉なのではないだろうか?
 洗練されたアメリカンライフ……、文明化された豊かな消費生活へのプライドの影に、アメリカ的な生活スタイル以外の文化のあり方への拒絶を、また自由と民主主義のために、アメリカが世界中で行っている警察官的な役回りの影に、異文化を(アメリカ大陸におけるインディアンのように)野蛮で、教化しなくてはならない下等な存在、とみなす排除の視線が隠されている………。イラクのアブグレイブ収容所で行われた凶行とは、そんなアメリカ社会の秘めたる本音が、人権や平等といった表層的な大義をつき破って吹き出したことによって起こった事件だといえるのではないでしょうか。
 
 赤坂憲雄は、先の共同体の<異物吸収型>と<異物嘔吐型>とへの分類のすぐ後に、西欧近代社会についてこんなことを述べています。

 『概して西欧近代は<嘔吐型>に属する。ところが、近代市民社会はその理念の上で、自由・平等・博愛といった<吸収型>社会への志向を導入したために、複雑に屈折した表情をそなえるにいたった。すなわち、<吸収型>であろうとする社会倫理が、現実生活を支配する効率至上主義によって絶えず裏切られ減殺される、特殊な<嘔吐型>社会、それがわたしたちの近代ないしは現代であろうか。』

 ここで語られている西洋近代の効率至上主義というのは、産業社会(資本主義社会)の特徴です。西側の資本主義・自由主義陣営のトップランナーであったアメリカは、もちろん典型的な資本主義社会です。移民により建国された、地域的な伝統と断絶した人工的な国家、プロテスタント・ピューリタンの勤勉な労働倫理(「時は金なり……」ベンジャミン・フランクリン)、合理的、プラグマティックな発想。これらの条件は、アメリカ社会の資本主義との深い親和性を証明していると言っていいでしょう。……というかアメリカは資本主義そのものではないかとすら思ってしまうのですが。(それに対してラテンアメリカを征服したスペイン系民族には勤勉な労働倫理は希薄でした。現在においても、ラテンアメリカ諸国は経済的に危機的な状況が続いていますが、これは彼らの社会が資本主義的な価値観とは縁遠い<異物吸収型>であることの証明になるかもしれません。)
 したがって先の文章はこう読み替えることができます。

 『アメリカ社会は<嘔吐型>に属する。ところが、アメリカ社会はその理念の上で、自由・平等・博愛といった<吸収型>社会への志向を導入したために、複雑に屈折した表情をそなえるにいたった。すなわち、<吸収型>であろうとする社会倫理が、現実生活を支配する西洋近代の資本主義的な価値観によって絶えず裏切られ減殺される、特殊な<嘔吐型>社会、それがアメリカ社会の特徴である。』と。


 ところで、西洋近代の効率至上主義すなわち資本主義的な価値観と<異物嘔吐型>の社会のあり方とはどのように関係しているのでしょうか。
 資本主義の本質は「生き延び」の原理です。私たちは一瞬でも長く生きながらえようとするために富の蓄積を行う。災害、病いなど予測もつかない事態に対処するため労働によって得た富を蓄積するのです。つまり未来の運命に対する不安、死の恐怖からできる限り遠ざかろうとする「生き延び」への配慮から蓄積への志向は生ずるのだと言っていい……。絶えざる利潤の追求として定義される資本主義は、無制限に拡大した蓄積への志向、すなわち無制限に拡大した「生き延び」への意志なのです。
 したがって資本主義的な心性はその原理からして不安や恐怖をもたらす「生き延び」を否定する表象に対してそもそものはじめから背を向けています。つまり、死、狂気、汚れたもの、魑魅魍魎、など異質なものを排除しようとする傾向を宿命的に保持しているのです。西洋近代の資本主義的な価値観が<異物嘔吐型>である所以はここにある……。
 19世紀、西洋近代は、資本主義経済の拡大と手をたずさえて圧倒的な力で世界を植民地化してゆき、西洋以外の異文化と対面することになったわけですが、資本主義を基礎づけている西洋の近代理性は前近代的なこのように異文化を了解し交流しようというチャンネルを持たず、それを野蛮かつ未開の文化と断罪しました。西洋の資本主義近代は、自らを文明的であると考えるとともに、西洋以外の異文化を野蛮/未開として下に見るという視点を携えながら、植民地より富を搾取していったのです。
 このように西洋近代の資本主義的な価値観はそもそも、異文化とのコミュニケーションを拒絶したまま、その異文化を野蛮なものと断罪する暴力的な原理であった、と言えると思います。そして第2次世界大戦以降、相対的に力の低下したヨーロッパ諸国にかわって、純粋に資本主義的な国家アメリカがその経済的な成功を背景に、『西洋近代文明』の代表選手として、西洋近代の価値観の本性を今まさに世界にさらけだしているのです。

 アメリカ社会が示す異文化とのコミュニケーションの拒絶は、このように西洋近代の中に原理的に組み込まれていたのです。西洋近代が勝ち取った自由、平等、民主主義の観念は、その西洋近代が同時に保持している資本主義の価値観によって絶えず裏切られ、複雑に屈折した表情を持つにいたらざるを得ない……。まさにアブグレイブ収容所における凶行が象徴的に語っているのは、アメリカの中に尖鋭的かつ露骨に現れている西洋近代の原理の持つ「屈折」なのです。


 以下は私の想像であり、アメリカ社会の深層で展開される無意識のストーリーであることを断っておきますが、………文明/野蛮の二項対立が西洋近代のよって立つ視点であるなら、西洋近代が自らを「文明」であると自負するためには、異文化を「野蛮」として絶えず下方へ排除する必要があるということでもある。つまりアメリカ社会が、自由で豊かな文明社会であることを自ら納得するために、常に外部に「野蛮」な存在を仕立て上げることが必要であったのです。彼らは、まずアメリカ大陸に移住するにあたって先住民であるインディアンを、また太平洋を越えて日本人やベトナム人を、またキューバ人やコミュニストたちを、そしていまイスラムを、自由と民主主義を否定する「野蛮」な存在へと仕立て上げ、その強大な軍事力でもって屈服させようとしています。
 しかし西洋近代は原理的に資本主義とセットになっているため、自由と民主主義を守るという美しい大義は、アメリカの国益への配慮と不可分である。アメリカの外部に生きる私たちにとっては、立派なことを言っているようだけど、本当はアメリカは甘い汁を吸いたいだけなんじゃないのか? という不審感を持たざるを得ません。と同時に、自由と民主主義のためと称するアメリカの異文化への侵攻は、その異文化を下方へ排除するとともになされているため、当の異文化のプライドを傷つける面が常にあるのです。
 したがってアメリカ人のやることは(アメリカ人自身はそうは思ってないかもしれませんが)、外部の存在にとっては常にうさんくさい傲慢なものに感じられるのです。このような事態がリアクションとしての民族主義の発生を呼び、常にアメリカと異文化を対立へ導いているのですが、アメリカはそれを軍事力で押さえ込むという「力による浄化」を繰り返してきました。しかしフロイト流に分析するなら、力で無理矢理押さえ込んだ「野蛮」すなわち「異質なるもの」は、アメリカ社会の表層からは姿を消しても、影のように社会の深層、無意識の中でその存在を増大させているのかもしれません。
 アメリカは自らが排除してきた「異質なるもの」の巨大な影に常に怯えているのではないだろうか………。9・11の同時テロは、何千人が死亡したという惨事である以上に、アメリカ社会が排除してきた「異質なもの」の影が突如恐るべき光景となって襲いかかってきたように彼らの目には映ったのかもしれません。私たちが想像する以上に、あの世界貿易センタービルの崩落の光景はアメリカ人の意識を動揺させるものだったのではないだろうか……。おそらくアメリカ社会はその心理的なパニックを終息させるために、まつろわぬ影であるテロリストの息の根を止めるための戦争を起こさざるを得なかった、ということではないだろうか………。アメリカ社会の秩序を取り戻すための生け贄としてのイスラム原理主義、という構図がここに誕生したわけです。
 しかし、圧政者タリバーンを、独裁者フセインを、またテロ集団アル・カイーダを打ち倒したところで、アメリカ社会がもつ排除の構造ゆえに、次から次へと「野蛮」な敵は彼らの前に現れ、またそうでなくともアメリカ自身が仕立て上げなければならないでしょう(次はキム・ジョンイルの番だろうか?)。そうしなければ、アメリカ文明が自由で豊かな人間的な社会であることを証明できないからです。

 しかし一体、そうまでしなければ維持できないアメリカ文明の人間性とはなんなのでしょうか。ひょっとするとアメリカ社会は経済的な繁栄とは裏腹に、人間的には非常に貧しいものなんじゃないでしょうか? おそらく本当の意味での人間的な豊かさとは、消費社会における経済的なそれとは違うのです。なぜならその豊かな人間性へのカギは、まさにアメリカが拒絶している「コミュニケーション」にこそあるからです。

 電子テクノロジーや通信技術の発展の影響もあって、コミュニケーションという言葉は単なる情報のやり取りということに還元されがちですが、本来コミュニケーションというものは人間臭く、血なまぐさいものですらあります。こう言ってよければ、コミュニケーションとは<異質なるもの>との対話(ダイアローグ)のことです。例えば、ある共同体(文化)内部での、日常的なやりとりや会話などはむしろ独り言(モノローグ)として理解すべきだと思うのです。
 普段私たちは日常の秩序のうちに安住していますが、それは人間存在全体の半分しか表現していない……。慣れ親しんだ日常であるがゆえくつろげもするが、正直私たちは自らの日常性には飽き飽きしている。モノローグと硬直したルーチンワーク………そんな日常の閉塞感を打ち破るのは非日常的な<異質なるもの>との対話なのです。
 <異質なるもの>との対話は、日常の秩序を揺さぶりにかけるために、私たちを不安にさせ、また時には恐怖すら感じさせます(私たち人間にとって最も異質なるものとは『死』であろう)。しかしながらそれは私たちを硬直した日常性から解放し、人間存在全体の残された一面をかいま見せてもくれるものです。そのような時空の例としてとして「祭り」というものを私たちは知っています。つまり、<異質なるもの>との対話は、不安や危険であるとともに、私たちの生活の中に思いもよらぬ豊穣さをもたらしてくれるものでもあるのです。
 日常性を司る秩序とはそもそも「労働」の秩序です。それゆえ人間の気まぐれな欲望や熱狂、暴力といったものは日常においては抑圧され禁止されている。だからこそ日常は私たちにとって退屈なわけなのだが、近代以前の社会においては「祭り」という非日常的な時間が社会の内部に周期的に組み込まれていて、そこでは退屈な日常の秩序は反転され、禁止されていた欲望………飲酒、性、熱狂や暴力が全面的に解放されて、労働によって蓄積された富は無目的に浪費されたのです。
 しかし西洋で生まれた近代社会だけが、そのような「祭り」への、非日常的な<異質なるもの>へのチャンネルを欠いているのです。というのも、上で述べた通り西洋近代が資本主義を原理としているからなのです。
 
 このように考えてくると、アメリカの抱える問題の解決に必要なのは、<異質なるもの>とのコミュニケーション、すなわち資本主義の精神の根本にある「生き延び」の原理に対抗する「祭り」の原理の復権ということになるでしょう。それによってアメリカ人が自らのもつ西洋近代の資本主義の精神に揺さぶりをかけないことには、アメリカ社会の外部に常に自らの自由と民主主義を脅かす巨大な「影」を分泌し続けなければならないでしょう。このような社会はいくら物質的な繁栄を誇ってはいても、貧しく不幸であると言わざるを得ません……。アメリカ社会の日常は「影」に怯え続けています。炭疽菌事件はいまだ記憶に新しいし、入国審査、航空機の搭乗手続きにおけるほとんど強迫的とも言えるセキュリティ強化を見るにつけ、アメリカ社会は自らの行ってきた<異質なるもの>の排除とその力による浄化行為のツケをこのようにして支払っているのだと思わざるを得ないのです。
 戦争を引き起こした原因がどこにあるのか、テロリストがいけない、いや、ブッシュ大統領こそがテロリストなのだ、などと言っても何の問題解決にはつながらないでしょう。戦争終結への処方箋は、根本的には「祭り」の精神による資本主義社会のシステムの揺さぶり、つまり<異質なるもの>との対話という「コミュニケーション」の原理を、資本主義の「生き延び」の原理に対抗させることで、資本主義社会に組み込まれた排除の視線を無力化する以外にはないと思います。(「祭り」の精神による資本主義社会のシステムの揺さぶりについての詳細は、いま私が書き進めているエッセイ『タコ部屋の青春』を参照していただきたい。)それなくしてどのような平和運動も、戦場での危険なボランティア活動も徒労に終わりかねないと思うのです。


 私はここまでアメリカについて語ってきましたが、アメリカを攻撃することが私の目的ではありません。アメリカ社会の中に尖鋭的に現れている西洋近代(資本主義)のはらむ矛盾こそが問題であり、それが今日のやりきれない紛争の遠い、しかしながら根本的な原因となっているということが言いたいのです。さらには、世界中が資本主義と西洋近代によって覆われた今では、ここで私が描き出したアメリカ社会の深層で展開されるストーリーは世界中の国々にとって他人事ではないのです。もちろん日本も例外ではない。どころか、アメリカをしのぐほどの高度資本主義国家に成長した日本であれば、また、長年の鎖国、島国根性という日本社会のもつ閉鎖性を考えても、コミュニケーションの拒絶という病理はアメリカ以上に深刻なものであると言えるかもしれません。おそらくはアメリカには存在するグローバルな権力が日本にはないため、日本社会のもつ排除の構造は、内向きの引きこもり的な閉鎖性としてのみ現れていて、外部に大々的に露呈する機会がないだけなのだと思われます。むしろ、アメリカが僕ら日本人のもつ排除の構造を肩代わりして、世界各地で噴出させている、なんていううがった見かたもできるかもしれません。………日本社会の持つ独特の閉鎖性についてはまた書くこともあると思いますが……。

 以上、イラクにおける戦争にかいま見られた「非対称」、私はこれを資本主義社会アメリカがもつ排除の構造、コミュニケーションの拒絶という点から解釈してみました。例えば、世界中にあるアメリカ軍基地。基地をめぐらす柵の中に暮らす兵士たちのために、あの中にはアメリカ本土におけるのと同じような生活が再現されています。そして柵の外部には異文化がある………。もちろん軍事基地なのだから解放するわけにはいかないのは当然だとしても、何か象徴的な光景です。あの柵が取り払われ、外部と交流し、溶け合うことはこれから先あり得るのだろうか?
 資本主義は地球上を席巻し、その西洋近代の原理で私たちを圧し潰そうとしています。国粋主義、民族主義、原理主義と言われるもの、それらは襲いかかろうとする西洋近代に対する危機感の表現です。資本主義によって極大化された物質的な力が、その排除的で貧困な人間性とともに私たちに襲いかかろうとしているのです。
 それに対して同じような物質的な力で立ち向かったり、テロ行為に訴えてもダメなのです。西洋近代の原理、資本主義は私たち一人一人の精神に内面化しています。まず自らの内面に「祭り」の精神を復活させ、私たち一人一人がコミュニケーションの荒海に乗り出してゆかない限り、悲惨な事態に終わりは来ないのです。』

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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