泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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傍流の価値

 単純なことだと思うんです。歴史を俯瞰して通時的なモデルを立てると、主流と傍流が恣意的にコロコロと入れ替わったりするイメージで事態が見えてきて、このようなけちのつけ方も出てくるわけでしょうが、でもそのような図式的なモデルは現状を分析するために立てられるものであって、実際に私たちが直面しているのは今、目の前にある現在のこの瞬間の社会です。
 ひとつの権力にしろ、一人の人間にしろ、複数の価値がその内部に混在していて、似た価値同士が溶け合ったり、くっつきそうにないような価値が奇妙なかたちで同居していたり、あるいは葛藤状態にあったり、というのはまあ、ごく普通にあることだと思います。しかし権力がどのように編成され、時間とともに形を変えたとしても、とにかく現在のこの瞬間に、ひとつの力として作動していて、何らかの力を揮っているということが問題なのです。今この現在に、制度やメディア、また人間の言説を通して力を及ぼしている権力(を支える諸価値)を「内部」と呼ぶなら、それ以外の傍流や周縁の価値は「外部」と呼んではっきり分けることができると思います。
 このような意味で「外部」という言葉を使うことに私はそれほど不都合は感じませんが、たしかに別の言い方、例えば、「権力の外部」とか「権力化していない周縁の諸価値」とでも言ったほうがより適切だったのかもしれません。お望みとあらば「傍流の価値」という言い方をしてもいいと思います。もし「外部」という言葉が誤解を招いたのであれば、私の舌足らずをご容赦願うしかありません。

 結局、神のように歴史を俯瞰するようなモデルだけで考え出すと、いつの時代にも傍流や周縁があるはずだから、主流に対抗するにはどんな傍流をもってしてもいいとか、むしろ現状を変える必要すらないじゃないか、という結論に陥ってしまいがちです。しかし、主流や傍流の価値は好き勝手にヒャラヒャラと流れているわけではありません。フーコーは「抵抗は権力に先立つ」と言っていましたが、権力がその形態や編成を変えるのは、ひとえに権力に対する抵抗があったからです(経済やテクノロジーの変化という要因も絡まっているわけでしょうが)。それが抵抗する人たちの望ましい形に変わったのか、あるいは、抵抗を回収しより巧妙な形態に変化したのかはともかくとしても、抵抗こそが権力に変化をもたらすのです。
 それと同じように傍流の価値だって、気まぐれに流れているのではなく、瞬間瞬間、主体が意識的、無意識的に、主流の権力に抵抗することによって絶えず更新され、流れを維持しているのです。ときには血の流れるような激しい、しかしほとんどは本当にミクロな、個々人の内面で営まれているような小さな抵抗が、傍流の価値に血液を送り込んでいるのです。
 主流から離れればば離れるほど、その価値の維持は困難になり、主体にはさまざまな精神的、経済的なプレッシャーがかかってくるでしょう。例えば密告のような制度が残る独裁国家では、そうした傍流の価値を抱いているだけで、生命が危険にさらされます。いまだかつて傍流の価値(抵抗)を完全に窒息させてしまった社会体制はなかったでしょうが、そのような抵抗が弱まれば、傍流の価値へのアクセスそのものが難しくなってしまうでしょう。
 また逆に、抵抗が強まり傍流が増幅し、社会への異議申し立ての声が溢れてくるということもあるでしょう。そのときは制度面を含めて社会が大きく変わるチャンスだといえます。
 おそらく現在の抵抗も、新たな権力の編成や形態を生み出すのでしょうが、それに対して私たちは新たな戦略をもって抵抗しなければならない。だからこそ抵抗の拠点を新たに創出することを迫られるのです。つまり歴史を俯瞰したモデルで言いうるのは、この対立によって、主流も傍流の価値も変化し、編成や位置取りを変えてゆかざるを得ないだろう、ということなのであって、別に依拠する傍流の価値はなんでもいいなんてことはありません。私たちが生きているのは、いつの時代でも権力との対立の緊張を孕んだ現在のこの瞬間だけなのです。つまりこのような単純化した図式から結論されたけちのつけ方からは、現在の重みがすっぽり抜け落ちてしまっているのだと思います。

 どうもこのような「外部」の概念にガッカリされているようですが、私はずっと「外部」という言い方でこうした「意識」の問題を語ってきました。私はこの意識の問題が、無視することが出来る小さいものでも、弛緩したものでも、射程が短いものではなく、むしろ必要不可欠な小さな巨人だということを言い続けてきたつもりです。実際に制度を変革する作業もこのような「外部」(傍流と言ってもいいですが)の価値(意識)の存在に依存し、それによって可能になっているのです。もちろん価値や意識は制度によって作られる面もあるわけですから、制度と意識はお互いに支えあっていると考えられるべきでしょうが。
 まあ、大胆な外部の構想をぶち上げて、叩きがいのあるサンドバックになってあげられないのは申し訳ないですが、私の強調したい「外部」は、そのような構想をも下支えし、可能にしているベクトル、つまり「権力化していない周縁の価値」だということです。

Comments
夢幻の敵! 
初めまして今晩は、荒井さん。
オタクな私は、「逸脱」と「外部」についてオタク文化に照らし合わせて考えると非常に納得がいきました。
今までは明らかにオタクは「逸脱」した「外部」でしたが、今や完全な「内部」となっています。文字通り裾野が広がった事でオタク山に道路が通り、実際にはそこを登る事は「逸脱」でも何でもなくなってしまったわけですが、しかし、「オタク」という「名」に受ける感覚質は今までと変わらない「逸脱感」と「外部感」を秘めているままなのです。
ここらへんが色々誤解を生んでいる一因なのかなと、考えます。
「外」という語には「開けている」「新しい」「未知」という感覚と同時に「端っこ」「我々以外」「清潔ではない」という感覚を同時に抱けます。どちらよりに「外部」を認識するのかという、案外単純な部分に問題があるのではないでしょうか。
そもそも私は、荒井さんの語る「外部」「傍流」「逸脱」に対して、非常に内発的な印象を受けました。内側にこそ外部があるというか……どうなんでしょう。
それにしても、「叩きがいのあるサンドバック」は傑作です。
>個人的には私が虚像として(買い被って?)作り上げた荒井さんの方が叩きがいがあるなぁ
なんて、はきむさんの分かり合う気もないしそれを隠す気もない態度には、傍から見てても脱力感を覚えますよ。
「叩きがい」のある虚像(というか仮想敵?)に相手を押し込めてやり合う、というのはあまり健全じゃないと思うのですよ、ホント。
「あらがう」と「あらそう」は一字違いでも全然意味は違う。
どうも失礼しました。
etteさん 
はじめまして、コメントありがとうございます、
オタク文化についてはよく知らないのですが、etteさんのおっしゃってることはよくわかります。
もちろん現実には「外部」は存在しないものですが、ある人が思考モデルとしてなら存在するといってくれて、その言葉を使ってきましたが、そうなると今度は仰々しい社会モデルを思い浮かべてしまうようなので、そのようなモデルに先行する「価値」という言葉を使おうと思いました。
そのような価値の存在は一見小さいもののようで、しかし、具体的な社会モデルを設計したり、社会そのものを変えることを可能にする前提でもあるはずです。そうした「端っこ」「我々以外」「清潔ではない」外部の価値に貫かれていなければ、人は現状に没入したまま社会を変えたいとも思わないでしょう。
オタク文化は内部化してしまった、ということですが、そのような文化の頽廃化は運命なのかもしれません。しかしそのような外部の価値の流れは、何らかの抵抗によって、形を変えてどこかに息づいているはずですよね。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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