泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

Response: Comment: 0  Trackback: 0  

おばあちゃんが言っていた、、、その2

 20世紀を通じて左翼(共産主義)の運動も、党によって組織された力の政治によって変革を担ってきたわけだが、そのような流れの中にシュルレアリスムという異色の運動が存在した。シュルレアリストたちも共産主義にシンパシーを感じていて、自分たちの仕事を革命に奉仕するものだと位置づけようとしていた。実際シュルレアリスムの主要メンバーはある時期共産党員だった。もっとも党の側といえば、シュルレアリストたちを終始胡散臭い存在とみなしていたようだが。
 それもそのはずで、シュルレアリスムの運動が左翼として異彩を放っているのは、それが本質的に「無力」を意志するものであると思うからだ。彼らの活動はオートマティスムという概念を廻るものであり、理性の検閲を受けぬ、自動性、偶然性の価値を積極的に生の中へ溢れさせようとするものであった。しかしこれらが、理性的に効果を計算し、冷徹に結果を求める党の社会変革の方針(力の政治)と相容れないのは明らかだ。未開の文化や狂気の生み出した妄想チックなイメージに大喜びするシュルレアリストたちを、真剣に力の政治を追求している党の人たちが見たなら、きっと「こいつらは何を遊んでいるのだ」と思うに違いない。
 もちろん「無力」だといっても、シュルレアリストたちがまったく力を行使しなかったということを意味するわけではない。党の政治活動に参加するためにはもちろん、シュルレアリスティックな詩や絵を創り上げることにすらきわめて理性的な力の行使を要求される。それどころか力の行使がなければ日々の食い扶持を求めることさえできなくなってしまうだろう。つまりシュルレアリストは高度に理性的であり、力を行使する存在でありながら、同時に戦略的に「無力」を意志すべきだと考えていたに違いない。シュルレアリストが考える全的な人間のビジョンは、革命後の未来の社会で実現されるものであると同時に、現在の社会の内部においても(十全な形ではないとしても)実現されるべきだと、そのために力の行使である生を同時に可能な限り「無力」で満たすべきだ、と考えていたのではなかと思うのである。
 無力であるということは、力が現在を手段化し、享受の瞬間を繰り延べてしまうものであるのに対して、現在の瞬間そのものを目的とすることであり、瞬間の中で多様な価値に向かって開かれることである。党主導の力の政治が現在を手段化し、この繰り延べを行うことによって排除し、社会の周辺に追いやられ歴史の彼方に埋もれようとする周縁部の多様な諸価値を、「無力」を意志する精神(=シュルレアリスト)は現在の瞬間の中に更新することで発掘する。二つの世界大戦の狭間、帝国主義と全体主義が全盛の時代の空気の中にシュルレアリスムは奇蹟的な「無力」の美を妖しく花開かせ、無視され、顧みようとすらされない価値に、劇的な形で新たな血液を送り込んだのである。

 、、、と、言い切ってしまいたいところだが、実際のシュルレアリスムは、指導者ブルトンその人が組織の中で絶対的な権力を振るっていたらしいことや、その画期的な運動のヴィジョンを幻惑的な芸術作品の生産という「力」の方向へのみ振り向けるしか能がなかったらしいことで、そのポテンシャルを汲み尽くさないまま、戦争という荒れ狂う時代の暴力の中で四散してしまった。戦後に運動は再結成されたが、運動が抱えていたこうした矛盾や甘さゆえ、もはや「無力」の痙攣的な驚異で現在を満たすことが出来なくなっていた。結局シュルレアリスムは「無力」を意志する運動という意味では不徹底であり、(シュルレアリスムの乗り越えを図った)シチュアシオニストたちが言ったようにそれは「端緒」でしかなかった、というのが結論なのかもしれない。

 シチュアシオニストが「新しい美は状況の美としてしかありえない」と語って作品に価値を置くことを捨てた背景には、限りなく「力」へと転換してしまったシュルレアリスムの堕落に対して、より徹底して「無力」であろうとする意志があったに違いない。
 「作品」は現行体制によって、ひとつの商品として、また、ある個人(アーティスト)のタレント(能力)の発露へと、すなわち財や力へと容易に解釈されてしまう。そのような解釈の権力から逃れるためにシチュアシオニストはアンダーグランドな集団的、匿名的な「状況」の創造という無形の活動に取り組んだのだ。
 また、運動におけるシチュアシオニストのスタイルはマルクスの影響を受けた左翼の運動としては異色である。「どこにおいても彼らは大衆運動の組織者として振る舞いはしなかった。SI(シチュアシオニスト・インターナシオナル) は、運動のないところでは批判的介入という直接行動によって状況の構築をめざし、運動が拡大し、状況が構築されたところでは自分たちの理論を伝達することに徹し、それを指導することはしなかった」(「転用」としての闘争………シチュアシオニストと68年 by木下誠)というのだ。すなわち、彼らは力で上から大衆を動かそうとはせず、水平的な、横のコミュニケートに徹したということだ。このことから想像できるのだが、68年のパリにおいても彼らの果たした役割も、運動を仕切ったり、はたまた背後から操ったりするようなことではなく、虐げられた欲望を噴出させ、擾乱をさらに推し進め、いわば超現実的な痙攣を現行体制の力の政治が支配する日常生活の中に引き込むこと、また彼ら自身その擾乱の中に引き込まれることであっただろう。シチュアシオニストは、アーティストとしての成功に無関心であったと同様、力によって世の中を動かしたいという欲望とも無縁であったのだ。

 「疎外された現実によって押しつけられているあらゆる条件とあらゆる価値を根底的に批判し、それらを自由に再構築することは、その[=現代のプロレタリアートの]最大限の綱領である。そして、生のあらゆる瞬間とあらゆる出来事の構築において何からも自由になった創造性を発揮することが、それにとって認めうる唯一の詩である。その詩は、万人によって作られる詩であり、革命の祝祭の始まりである、プロレタリアートの革命は祝祭となろだろう、さもなくば存在しないだろう、なぜなら、それらの革命が告げ知らす生そのものが祝祭のしるしの下に創造されるからだ。遊びこそがこの祝祭の究極の理性である。死んだ時間なしに生きること、制限なしに楽しむことが、この遊びが認めうる唯一の規則である。」(『学生生活の貧困』ムスタファ・ハヤティ)


 これを読めばもうシチュアシオニストの関心は明らかだろう。ここで表現されているのは、生が資本主義の維持、再生産の手段であることを強制してくる体制権力に抵抗すること、すなわち現在の瞬間を繰り延べることなく燃焼し享受すること=瞬間そのものを目的とし「無力」で満たそうとする意志以外のなんであろうか。と同時に現行体制によって虐げられ排除された多様な(傍流の)価値の再構築/更新でもあるという意味で、シチュアシオニストの運動の戦略はシュルレアリスムの延長線上にあるのだ。

 思うのだが、私たちは生き抜くため、また、より良い世界を作るためにも力を用いる。一人の個人にしても、運動のようなひとつの共同体であってもそうだ。仮に「運動」ということから離れて考えてみた場合でも、私たちが現在の瞬間そのものを目的として享受しようとするなら、力を用いるその分だけ、同時的に、あたかもその力を覆い尽くし、打ち消すかのように「無力」を意志せざるを得ないのではないだろうか。
 自ら力を求めなくても手に入ってしまうということがある。たとえば仕事場などで、年を食いキャリアが蓄積されるだけで、その人には権威という妙な力が備わってくる。たいして偉いわけじゃないのに先輩面して、いじわるや横暴な振る舞いをすることも容易にできるようになってくるものだ。親になれば私たちは子供に対する権力者である。
 仕事をし、子育てをする役割にある以上、私たちはその権力を当然使っているし、使わざるを得ない。生きるということはそもそもが権力的であり、排除する暴力なのだ。私たちはそのことを認めながら生き、世界を変えることしかできない。
 しかし、そうでありながら仕事場の同僚や自分の子供との間に、社会的な生産や再生産の都合で結ばれている上下の権力関係をはずれた結びつきを同時に求めることもできる。つまり私たちは生きてゆく必要上従わなければならない(現行社会から押し付けられている)役割とは違った形(上下ではなく水平的な交流関係)において他人と関係を取り結ぶことも出来るわけである。
 もし私たちが完全に権力関係に服し、力のパースペクティヴの中にのみ生きるとすれば、現在の瞬間は生き延びるためへの配慮や、役割関係=目的への従属へと解消し、人間的な交流、そこに息づく多様性、その奥深い可能性を汲み尽くすことなく、享受は未来へと繰り延べられてしまうだろう。だからこそ私たちは日常生活の中に、また変革の過程の中に、可能な限り多様なな横の関係=「無力」を同時的に挿入し、この瞬間を満たそうと思うのではないか。私たちの生が手段化してしまうことへの空しさから逃れ、現在の瞬間を固有の彩りで満たそうとするなら(運動家や実存主義者ならずとも)そうするのだ。そうでないと私たちの日常は味気なく痩せ細ってしまう。
 私たちは学校の先生との生徒の間に、教え教えられるという役割関係と同時に、人間的な交流を築けるし、コンビニの店員と客でしかなかった二人が恋に落ちることもできる。はっきり意識していないかもしれないが、そのとき私たちは明らかに日常を貫く(体制の権力が押し付けている)役割関係に抵抗し始めているのである。

 つまり、シュルレアリストやシチュアシオニストたちのラジカルな活動は、われわれ誰もが無意識のうちにやっていること(すなわち「無力」の追求を)を、意識的に極限まで加速させようとする試みだといえる。
 資本主義社会が本質的に繰り延べの社会であり、それを転覆すべき左翼の運動すら繰り延べを行うものであったという絶望的な事態、体制による力の専制に対するに反体制の運動も力のみをもってするという近代政治の痩せ衰えた不毛さを見据えていたからこそ、シュルレアリストは夢や狂気など、非合理的で力が見向きもしなき価値へと接近し、また、シチュアシオニストは現行体制の支配的な価値へと日常を囲い込み、交流関係へのアクセスをさえぎろうとする「消費」を徹底的に批判することで、「無力」を志向し、現在を彩り、瞬間を燃焼させたのである。「無力」であることが彼らの闘いであった。そしてそれが彼らの運動の貴重な(他には容易に見出しがたい)意義であり、わくわくするような面白さの理由なのである。(つづく)

   

Comments

08 2017 « »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
目次

カテゴリー 累計
全記事一覧
前衛芸術研究室 28
亡霊退治 65
アート・建築・デザイン 29
思想など 144
旅行・タイなど 60
ニュース・時事など 31
フンデルトワッサー 12
中西夏之 3
日記・その他 116
記憶の底から 15
音楽 6
Category: None 22
反芸術研究室 6
最新のコメント
Twitter
タグcloud
アクセスカウンター
   




プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



Archive

RSS