泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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おばあちゃんが言っていた、、、(その3)

 仮面ライダーカブトのストーリーは、侵略者ワームから地球を守る秘密組織ZECTをめぐって展開される。(マスクドライダーシステムを開発したこのZECTが、最初からネイティヴの息のかかった胡散臭い組織であることは徐々に明らかになってゆく。)
 カブトの他にもザビーというライダーが開発されていて、ZECTの組織員である矢車や影山という男が変身するのだが、おかしなことに彼らは侵略者を倒すというかなり切迫したシリアスな使命を負っているにもかかわらず、仮面ライダーのパワーをその使命から微妙にずれたところで使っている。
 矢車はワームを倒す実動部隊のリーダとして自らの戦闘の哲学(パーフェクトハーモニーなる組織・行動論)を実現すべく隊員たちを率いて戦い、成果を挙げていた。ZECTに加わることなくワームと戦うカブトを、矢車は仲間になって一緒に戦うよう勧誘するが、カブトはそれを拒絶する。しかし矢車は自らの戦闘の哲学が実戦において破綻し、逆にスタンドプレーに徹し孤独に戦うカブトが首尾よく敵を倒してしまったとき、カブトを激しく憎悪し始める。組織に従って動こうとしないカブトを処分せよ、とのZECTの命令に我が意を得たりと、カブトに戦いを挑む。「お前を倒さなければ、俺が俺でなくなってしまう!」………カブトの存在が、ZECTという組織における自分と自分の哲学を無価値なものにしてしまいかねないという不安が、わなわなと手を震わせるほど激しいカブトへの憎しみを燃え上がらたのだ。矢車を戦闘へと突き動かしていたのは、痛ましいほどの承認への欲求であって、侵略者から人類を守るという大義は、内奥に潜むプライベートな(エゴイスティックな)欲求を実現する口実になってしまっているかのようだ。
 また影山のほうはもっとストレートに、ZECTという組織の中で認められ出世したいという欲望を前面に露出させながらワームと戦っている。自分より「出来る」組織のスタッフに激しい嫉妬心を抱いたり、はたまた上層部(権力)に取り入ったりする影山のありさまは、何か見苦しい政治組織内部の権力闘争(というより、企業内部の出世競争)を見ているかのようだ。

 ようするにザビーに変身するこの二人は、ZECTという組織の権力に同一化し、従属してしまっているのだ。そんなわけだから、「(共に侵略者と戦わなければならないはずの)カブトを倒せ!」という理不尽な組織による命令に何の葛藤もなく従うことができてしまう。この二人と、ZECTという組織と常に距離を置いて一人ワームと戦うカブトとの対比は極めて印象的だ。
 天道総司はZECTからしきりに組織の下でワームと戦うように誘われ(強制され)るのだが、ZECTとはつかず離れずの関係を最後まで維持し続ける。一匹狼を気取りたいのかと責められると、オレは組織に収まらないほど器が大きいのだ、と彼独特のオレ様ぶりでやり返す。彼は端から組織の権力に興味を持っていないのである。

 さて、こうしたカブトの挙動を前提にして、エントリーの一番初めに紹介した「他者のために自分を変えることのできるのが人間だ。自分のために世界を変えるんじゃない。自分が変われば世界も変わる。」という台詞について考えてみたい。
 私にはこの「自分のために世界を変えるんじゃない。」という言葉が(ネイティヴの根岸による陰謀の事を指しているのはは当然として)、組織のライダー(矢車や影山)たちのように権力を求め(上に付き従うにせよ、人を率いるにせよ)、力によってのみ世界を変えようとする人間をも指して言ってるように思えてならない。
 自分の(エゴイスティックな)欲望を実現するために世界(他者)を手段として利用する、というニュアンスがこの言葉には感じられる。なるほど彼ら(矢車や影山)は熱く、命がけで侵略者と戦っている。しかしその情熱を動機付けているのは、侵略者から地球を守りたいという(アクションヒーローなら当たり前の)他者を慮る正義感であるというよりむしろ、組織のヒエラルキーに従属した、プライベートな内面の奥底に潜む「自分を認めさせたいという欲望(エゴイズム)」なのであって、実は他者など眼中にないのである。つまり、文字通り彼らは自分のために世界を変えようとしているのである。(この二人の名誉のために言っておくと、ドラマの終盤には、彼らの内にもやはり少なからず正義感が燃えていたのだということを垣間見ることができる。)

 世界を変えなければならない。そのためには力(組織立った巨大な権力)が必要だ。しかし力は新たな排除を生み出してしまう。権力は、その前に立ちはだかり遂行を妨げるものを、(矢車=ZECTがカブトに対してそうしたように)同質化し内部に回収するか、でなければ排除し抹殺しようとする。
 このあたりに私は、権力を求める者のきな臭さ、グロテスクさを感じてしまう。それが表向きどんなに正義や公正への情熱に基づいていたとしても、力の追求の背後には、案外プライベートでエゴイスティックな動機が、さらに力を求めずにはいられない人間的な「弱さ」が付きまとうような気がしてならないのだ。仮に力の行使が正義感に基づいていたとしても、権力者個人や権力を持つ組織の中で、その力が残酷な暴力へと横滑りしてゆく可能性は否定できない。いや現実の社会のなかでそのような混乱や横滑りは常に起こっているのではないか。逆に、もしある人が暴力や他者の存在に敏感であるならば、その人は現在のこの瞬間の多様性に開かれ、自然と「無力」であることに導かれるのではないか。「無力」は力の横暴を告発する。そのように「無力」が視野に入ってくることなしに、力を行使することは危険なのだ。
 「自分が変われば世界も変わる」という言葉は、けっして神秘主義的な物言いではない。ここで天道総司の言葉に込められているのは、力によって世界を動かすのではなく、「無力」を意志する力であること………それは未来の目的への手段と化した現在を、まったく新しい相貌のもとに(瞬間そのものを目的として)出現させる(=変える)ことであるとともに、力が排除し、抹殺しようとする傍流の価値を更新することによって未来へと送り届けることだ。それは絶え間なく続けられるであろう未来における変革の栄養となるはずである………なのだ。
 
 岡本太郎がどこかで「人生積み重ねだというが、私はむしろ積み減らすべきだと思う」という意味のことを言っていた(彼は明らかに「無力」への意志を語っている)。私たちは力を持っていることを「強さ」だと考えることに慣れているが、力のみを求めるということは力によって自分を支えるということをも意味する。そのような力のみの追求は、むしろその人の人間的な「弱さ」に起因するものであるかもしれない。権力者は「弱い」からこそ力を欲したのではないか。むしろこの「積み減らし」=「無力を意志する力」であることが人間の「強さ」なのではないだろうか。私たちが求めるのは「力」のみなのではなく、「強さ」なのであり、世界を変えるのは結局「強さ」なのだ………仮面ライダーカブトの物語にはそんなメッセージが込められているように思うのである。


  仮面ライダーカブト天道総司は、最終的に狡猾なネイティヴに勝利する。戦いの後のラストシーンで、彼は仮面ライダーガタック、加賀美新とこんな会話をする。

  • 天道  :『一度しか言わないぞ………』
  • 加賀美:『?』
  • 天道  :『同じ道を往くのはただの仲間に過ぎない。別々の道を共に立っていけるのが………』
  • 加賀美:『友だちだ。………それはおばあちゃんの言葉か?』
  • 天道  :『………いや、俺の言葉だ』

 「おばあちゃんが言っていた、、、」というのは天道の口癖なのだが、まったく、最近のアクションヒーローは、ただ暴れているだけでなく、こんな意味深な言葉を語らなくてはいけなくなったらしい。

 少し話を戻すが、「無力」を志向しているはずのシチュアシオニストという組織の中にも、ひとつの権力が貫いていた。それはシチュアシオニストという組織を維持するために使われた権力だ。シチュアシオニストはその主張の純粋さを維持するため、「芸術作品」を指向して「芸術」の領域での個人的名声を求めたり、体制側のプロジェクトに協力した者を除名処分にした。そうすることで組織の主張の純粋さは維持されたわけだが、それは、組織の中に、そのような形でシチュアシオニストの主張からの逸脱分子を判断し、処分を下せる権力が存在したと言うことをも意味する。それがよく噂されるようなドゥボールの独裁的な権力なのかどうか私は知らないが、もしシチュアシオニストが真に徹底して「無力」を求めるというのなら、シチュアシオニストという組織はひとつの矛盾だといえる。
 しかし、シチュアシオニストの意思決定機関である「評議会」も、木下誠氏によると、「ロシア革命の初期の評議会、ドイツの20年代と30年代の評議会などを自由に転用し、それらを全く新たに組み替えて用いた」ものであったらしく、大真面目な顔をしながら、実は髭を生やしたモナリザみたいなものだったのではないかと思えてならない。それは除名やら粛清という言葉から想像されるおどろおどろしい権力とは一線を化した、私たちが生きていくのに必要な力と同様の力の行使であったのではないかと思う。まあ、結局はドゥボール自身によってシチュアシオニストという組織は解体されるのだが、それはこの組織が「無力」を志向するものであるなら、(集団や組織だから出来ることもあるとはいえ)テンポラルなものでしかありえないという当然の運命だったのかもしれない。
 しかしシチュアシオニストという組織が消滅しても、「無力」への意志は潰えてはならない。(ことに近代が、私たちの用いることの出来「力」を(破滅に至るほど)飛躍的に増大させた時代であれば、また今現在、現行社会がナントカ能力だとか人間だとかを私たちに押し付けてきているのであれば、逆に、より激しく「無力」を意志すべきなのではないかと思う。)シチュアシオニストなき後、私たちは一人一人で歩いて行かなければならない。組織として同じ道を往くのではなく、孤独なシチュアシオニスト(=無力の戦士)となって、(ときには交わり大きな共同体になるという僥倖に巡り合うこともあるだろうが基本的には)別々の道を共に立っていかなければならないのだ。おそらくそれは仮面ライダーのヒーローのようにはカッコイイものにはならないだろうが。。。(おわり)

 仮面ライダーカブトについて書くにあたってこちらのブログの記事を参考にさせてもらいました。漫然とドラマを眺めていた私などには目に入らないディテールや矛盾を拾い出し、一つのドラマをこれだけ情熱を持って分析することが出来るとはまったくもって驚きでした。感謝します。


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荒井賢 (Ken Arai)

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