泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: フンデルトワッサー   Tags: 芸術  フンデルトワッサー  

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フンデルトワッサー宣言集2

子供のためのデイセンター
フランクフルト・へッデルンハイムのためのフンデルトヴァッサー建築プロジェクト(1987)


1、景観とちぐはぐな居住地に応じた自然の増加
2、自然と調和のとれた生活
3、都市の空気にかわる田舎の空
4、ロマンティスズムを現実にしようとする憧れ
5、散歩や散策をするために全面草でおおわれた屋根
6、夏は涼しく冬は暖かい省エネハウス
7、隣人や非居住者の生活の質の改善
8、世界的に慣例となっている都市計画の行き詰まりから抜け出すための創造的方法

 こうした革新は決して新しいものではない。目的はむしろ建築において人間の尊厳を再び取り戻すことである。あるいはただ人間性を取り戻すことだといっていい。直線が危険で、心地よい幻想を生み出すだけであり、廃墟していく危険性を誰もが知りながら、なぜむやみに定現を使うのだろうか。数十年前、バウハウスのメンタリティが袋小路に入ってしまったことを身をもって証明しているにもかかわらず、建物がいまだに非人間的で自然不在であり続けているのは、信じられないことである。
 居住建築の背後にあるバウハウスのメンタリティは、無感覚、無感情、尊大、冷酷、攻撃的、平坦さ、無菌、無装飾、冷たさ、非詩的、非ロマンティック、匿名的、空虚、といった冒葉で表現することができる。概能性があるという幻想。
 人の住む家を、国際的な建築マイフィアに明け渡すわけにはいかない。彼らは文化の政治学に突き動かされ、また人々と虚無的な美学ゲームを行おうとしているのである。
 美術マフィアが美術館や美術雑誌を使って、当世流行の絵画の好ましくない醜い様式を一般大衆に押し付けようとするのは、別段悪いことではない。現代美術の流行は年々変わっていくもので、そうした作品を購入したり鑑賞しなけれぱいいのであるから。
 しかし、人と自然の敵であるこの知的マフィアが、正道から逸脱した流行のデザインで、魂のこもっていない建造物に家を仕立て上げ、何世代にもわたって人々を住まわせることは、終身犯罪を犯すのと同じである。
 この独善的な家に我慢して住まざるをえないことこそが、我々の西洋文明や国家や自然、そして、我々自身が苦しむ精神的かつ肉体的な一般的不自由さに直結するのである。今日の建築家や都市計画者はかつてないほど、非良心的なクライアントの意気地のない操り人形になりさがっている。
 建築家は、大量生産をもくろむ圧力団体や金目当てのマフィア、また権力争いの政治に、卑屈に従属する立場になりさがっている。戦争犯罪と同様、普通は良心に反して(もし良心があるとすればの話だが)、建築家は命令におとなしく従って、自然や生活また人間の魂を組級的に破壊する強制収容所を建ててしまうのだ。
 臆病心からであり、愚かにも幾何学的直線をやみくもに使うようになり、それは、美学や精神衛生やエコロジーの見地から見れば、我々の都市をみじめに荒廃させている。
 直線が生み出すものは、都市計画や肉体的な健康に等しく害を及ぼす癌のような潰瘍である。我々の都市は、建築の『ピボクラテスの誓約」をしなかった犯罪者的建築家が具体化した、常軌を逸した気まぐれの産物である。私は自然や人間に害を与える家を建てることを断固拒否する。
 バウハウスのメンタリティをもった2世代にわたる建築家達は、我々の生活環境を破壊してきた。
 都市計画者がやってくると都市は醜くなった。
 人は大地とのふれあいを失った。
 人は、大地や自然環境から切り離されて生活している。
 我々はコンクリートとプラスチックを用いて自らを卑しめているのである。
 雨でさえ都会の土の中にしみ込んでいくことはもはやないので、導管を使ってどこかに排水しなければならない。
 我々が死んだときでさえ、腐葉土から12フィート下の所に、機密され防水された棺で埋葬され、植物と接するどころか腐葉土になることもできないのだ。
 そうしたことに代わるヘッデルンハイムの複合施設が全体としてもつ利点は、巨大であることである。この複合施設のコスト効率の計算に関して、ぜひ注意すべきことがある。エコロジーや創造面における必要事項や人々の願望、精神面での必須事項をコンピュータに蓄積し、何をおいても最初に考慮しなければならないということである。このように、近代的道具であるコンピュータは、建築や都市計画、経済、交通、エネルギー、農業について、何が安く何が高いのか、何が意味があって何が害になるのかを、あらゆる文脈の中で計算することに利用させる。
 エコロジーや他のデータを含む利用可能なあらゆるデータの活用を、全ての計算の絶対的な前提条件としなければならない。
 例えば、プランナーと建築家がただ資材や土地や労力のコストをやりくりしたために安価な家が建ち、その家のために我々は大きな被害をこうむる。これは何を意味しているかである。その価格には、後で負担しなければならない諸費用が、(最初の計画段階で容易に考慮できるにもかかわらず)含まれていない。段々増えていく冷暖房費、ほこりや騒音や空気汚染の防止装置の費用など、これらは単に最初から草屋根を計画していなかったからである。芸術の破壊、犯罪、不満、ノイローゼ、失業、医療費の高騰、都市からの離脱、自尊心や尊厳が傷つけられること、個人の創造性が抑圧されること………このようなことが生じる原因は、誤った計画のため、および、エコロジーや創造的要素をその豊かな相互作用と全体像において考えなかったがらである。そしてその結果、諸費用はどんどん膨れ上がることになるだろう。
 このつけは間違いなくまわってくる。しかし、時間がたてば、プランナーにとって、関わりや因果関係を無視すること、すなわち、責任をとらないことなど、たやすいことなのである。
 それゆえ、この複合施設の建設に対する私の創造的貢献は、ただ、個人の創造性に向けて一歩前進を果たしただけだとみなすべきである。
 自然、芸術、創造は、一つの統一体である。我々はそれらを単に分けてしまったのである。もし我々が自然の創造を犯し、自己の内なる創造を捨て去ってしまえば、そのときは、自分自身を破滅させることになる。自然だけが、我々に創造や創造性を教えることができるのであり、真の無教養とは、創造的に活動する能力がないということである。
 我々は、人間が依存している唯一の創造的に卓越した力である自然を、平和的に扱う方法を模索しなければならない。自然の平和的な扱いは、以下のポイントを含んでいる。

 1、自然とコミュニケーションをとるために、自然の言語を学ばなければならない。
 2、不当に利用し荒廃させてきた自然の領域に立ち返らなければならない。例えば、空の下にある水平的なもの(屋根や道など)は全て、自然に属しているという原理。
 3、植物の自然な成長を受け入れること。
 4、人間の創造と自然の創造を再び統合しなければならない。これらの創造が分割されることによって、人間や自然にとって破局的な結果がもたらされてきた。 
 5、自然の法則と調和した生活。
 6、我々は自然の客人なのであり、自然の法に従って行動するべきである。人間は、地球を略奪した危険な寄生生物である。人間は、地球を再生するために、エコロジーを配慮した場所へ自ら戻るべきだ。
 7、人間社会はもう一度、廃棄物のない社会になるべきだ。そのような社会で廃棄物に敬意を払い、再活用する者だけが、死を生に換え、そして、地球に存続する資格がある。なぜなら、そのような人々は万物の循環に敬意を払い、生命を再生させるからである。

 自然と調和した家を求める人間の願いや人間の創造性は大きなものである。しかし、この最もわかりやすい欲求が、居住者や、持に子供達や生徒達に与えられていないのである。人々は依然として・強制収容所のようなプレハブや魂のぬけた冷たい無感情の建物に住み、学ぶことが要求されているのである。
 もし都市に自然を取り戻すために新しい建材を使わないとしたら、それらの建材は重要だと言えるだろうか。
 我々は、夕一ルやレンガや木やゴムなどの伝統的な材料の他に、セメント、鉄筋コンクリート、プラスチック、アスファルト、合成ゴム、ステンレス鋼、発泡粘土や、これらをミックスした様々な材料がある。
 全ての建築家にとって、人が住む家を建てることだけではなく、特に都市で自生する野草のための住処をつくることは、やりがいのある挑戦になるだろう。
 自然との調和、個々の人間の創造との調和一一この双方を満足させ統合するのが、よい建築である。
 あまりにも長く地球を奴隷にしていたために、それゆえ起きる破局的な結果に我々は慣れてしまった。今やその役割を代え、我々は大地の下に我が身を置き、大地を上に抱くべきときである。これは決して暗い洞窟で暮らすことでもなけれぱ、湿気の多い地下室で暮らすことでもない。全くその逆なのだ。
 我々は頭上に大地と樹木をもつことができる。そのようにしても、同時に光も得ることができる。白然の賜物の下に身を置くことは、泉徴的な意味でも、文字通りの意味でも、自然を抱いた家で暮らすことになるのだ。
 我々には、世界を再び大きくするために、美のパリアが必要である。我々が代わりにしていることは、自分がいる場所に、あるいは、自然がまだ蝕まれていない場所に、あらゆるものを捨てているのである。更に・その場所に行くために醜い道路を作り、途中であらゆるものを捨てているのである。
 このように、世界は至るところで小さくなり、醜くなっている。早急に必要とされるのが美のバリアである。このような美のバリアは、規格化されていない不規則なもので成り立っている。つまり、自然な植生あるいは個人の創造によって成り立っているのである。
 両者はお互いを補い合う創造である。もし個人が自分の空間で、「窓に関する権利を主張して環境をデザインすれば、もし各人が自分の空間で、植物に自然に成長する機会を与えてやれば、次代の王国はすぐにも実現するだろう。と言うのも、パラダイスはまさにちょっと角をまがった近隣にあるのであり、自分が今いるまさにその場所にあるのだから。
 パラダイスは探したり見つけたりすることはできない。パラダイスは権威によって調達したり工場生産できるものではない。ヘッデルンハイムの複合施設は、世界に対して一つの実例を提示することになるだろう。適正な状況下で自然に接して暮らし、働くことは、あらゆる人にとって、達成し実現することが可能であるだけでなく、より経済的でもある。すでに述べたように、複合施設全体が与える利点は無限である。それは、我々か高い金額を払わねばならない非人間的で自然不在の建物を建てる通常の方法と変わらない。

 1、上から見ると、ヘッデルンハイムの複合施設は、自然林のある野原や公園のように、完全に緑で覆われている。家を草と樹木で全面的に覆うことで、最適な断熟作用が生み出される。夏は涼しく、冬は暖かい。ウィーンにあるレーヴェン通りの私の家は、アパート全館を暖房するのに、利用可能な暖房器3台のうち1台を使用すれば十分である。(冷暖房の節約=エネルギーコストの節約)
 2、休日に外出する代わりに人々は家にいるようになる。結局、家にいるのが快適で、完全にくつろげるからだ。
 3、空気もよくなり、酸素も豊富になり、湿度が保たれ、ほこりも激減する。気候自体もよくなる。そして、騒音公害は大幅に減少する。
 4、福利全般も比較にならないほど改善される。人々は健康になり、頭痛が減り、うつ病は少なくなり、病気も減る(薬、医者、病院や療養所への入院、心理カウンセラーに対する、費用を大きく節約できる。長期的に見れば、この節約された金額は、初期の建設コストを上回る)。
 5、非人間的、自然不在の建物に住むことによる恐ろしい結末………芸術の破壊、テロリズム、精神病、自殺………も、大部分避けられる。

 ウィーンのフンデルトヴァッサーハウスと同様に、フランクフルト…ヘッデルンハイムの複合施設の唯一の短所といえぱ、こうした調和のとれた環境で暮らしたいと思う人があまりにも多くて、この複合施設を見ようと世界中から訪問者が日々殺到することである。
 解決策は、先ず、この複合施設の利用者を守るために境界を設け、次に、同じような家をもっと建てることである。需要は底なしである。
 散歩と散策のための屋根は草で一面覆われ、誰でも利用できる。この家には容易にたどりつけないような場所はない。屋根の草の上や木の下でリラックスできる。子供だけが夢見るような、未来のユートピア的でおとぎ話のようなビジョンは、実現が本当に可能であるという意味で、ここでは明々白々な事実なのである。
 草や自然を用いて家の屋根を作ることで、余暇活動に使える空間は2倍近くになるだろう。と言うのは、そうでなければ不毛で死んでいた屋根が、草いっぱいの野原になり、森になり、丘になり、見晴台になり、公園になり、庭になるからである。
 利用者は自然と向き合う心を誇りに思うだろう。
 空の下に水平であるものはみな、自然に属するものである。それがここでは実現される。
 我々は自然の客人なのであり、自然の法に従って行動するべきでる。それがここでは実現される。
 屋上にいる人は、家を建てたときに不当に奪ってしまった自然に立ち帰らなければならない。それをここでは実現させる。
 これは自然との共生に対する積極的な貢献である。ただ口にするのではなく、行勘に移し、生きた実例を示すのである。
 草屋根の複合施設は、我々の都市の無計画な膨張に対する、前向きな解決策なのである。一つずつ上に積み重ねられたサイロのような集合住宅に住む人間の匿名性は、間違ったことである。
 自然の広大な地域に、単調な郊外団地を際限なく築いて自然を破壊することも、やはり間違っている。ロサンゼルスは最悪の例である。垂直的に高層に人間を積み上げていくことは、自然の中に水平的に膨張していくと同様に間違った行為である。一方、草と樹木の屋根をもつ住宅地では、自然はだんだん豊かになる。
 と言うのは、人々のための生活空間を造っているのにもかかわらず、自然のためのより大きな生活空間が創られているからである。新しい風景が創られるのである。
 フンデルトヴァッサー・ヘッデルンハイム複合施設は、今日の人間が望んでいる安全やロマンティシズム、自然と調和したコミュニティヘのあこがれを現実化したものである。若い頃から染みついた創造的不能状態に悩む大人にとって、残された唯一の可能性は、自分の子供時代を振り返ってみることであり、夢に破れた時点まで戻って再びスタートすることである。それは、まったく夢物語ではないばかりか、現実的な土台なのである。それなしでは真に一人の人間であることができない、人間存在の根なのである。
 過去、若者のための建築の分野、すなわち、学校や幼稚園などで、恐ろしい罪が犯されてきた。子供の心を冷たく杓子定規に抑圧し、成長しつつある創造性を抑制することが、何十年もの間、まさに圧迫的で均一的な建築によって実践されてきた。子供達はその建物の中で、人生で最も重要な年月を過ごすのである。
 強制収容所的スタイルで建てられたこのような学校の中での精神的虐待は、代表的な罰である体罰をもはるかに凌ぐものである。
 この数十年の間に、自然や創造性に敵意をもった教育機関や保育園ですごすことを余儀なくされた若い世代の人々にとって、持続的に受けた精神的ダメージはとてつもなく大きい。子供たちは、大人とは違って、あらかじめ決められ心や命を破壊する環境に対して、身を守ることはできない。
 ヘッデルンハイムでは、若者たちは邪魔されず、生き生きと、積極的に自然や美や創造性と触れ合うことになるだろう。
 それは彼らの人生に刻印され、この家で過ごした子供時代は、美しいものとして彼らの記憶に永遠に残り、彼らの人生に明白な影響を及ぼすだろう。
 彼らはまた、個人的に経験したことを好ましくて美しいものとして他の人々と分かち合い、それを世界に向かって実行していくのである。
 ヘッデルンハイムの人間は真に自由である。また、理知的で理論的な建物に落胆させられることもない。
 パラダイスは、我々が自分自身の創造性によって、自然の白由な創造性との調和の中で創るものなのである。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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