泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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マジシャン

 じつは最近、レヴィナスなどを読みかじり始めているせいで、しばらく見ないようにしていた内田樹先生の名前に再会する機会が多くなった。で、ついこの古いエントリー に行き着いて、(よせばいいのに)読んでしまった。怒り爆発のブックマーク などもくっついていて、相変わらずなんですね。反論は懐かしの同志kingさん の書いたもので言い尽くされているので(もう、痛快!)必要もないのだろうが、なんとも言えぬ居心地悪い読後感が残っている。というのは、「わからないね」をはじめとする哀れむべき言葉を読まされたからという理由だけではなく、この先生の言ってることが私がしてきた主張に妙に似ているからなのだ。私の書いたものを批判する人なんかに、「ほら、お前などウチダと同じポストモダン系保守なんだよ」とでも言われてしまいそうな内容なのである。だから厄払いだけはしておこうと思う。

 好意的にとれば先生の言ってることは、人の意識(拝金主義)が制度(格差社会)の維持に共犯的に加担しているという事実の指摘だと考えることができる。確かに社会を構成する人々の意識が「カネのものさし」を支えることがなければ、カネによる一元的な格差の社会は自壊するはずであって、その点、このエントリーにも頷けなくはない。しかし一方、格差、貧困解消のためのあらゆる政策提言を、ナンセンスだとして斬って捨てるその理屈は、とんでもない戯言である。つまりこの先生は、現行社会は何ら変える必要のないものだ、と(事実上)現状肯定の宣言をなさっているわけなのだが、その論拠を示すやり口はマジシャンのそれである。

 全ての人が衣食住に困ることのない社会、というのがとりあえず近代社会の理想であり、目標にするところである。そうするために、あるところから、ないところへの財の移動(再配分)がともなうとするなら、格差、貧困解消の政策提言を「もっと金を」という言い方で表現できないこともないだろう。だが内田先生のこの強引なまとめは、財の再配分に最初から不道徳な臭いをまとわりつかせているところにまず問題がある。すぐあとでこの「もっと金を」という表現は、あらゆる不幸を「金の全能性」によって解決するという言い方に改められ、ほとんど「愛を金で買う」とでもいうがごとき不倫行為のように語られている。この理屈で先生は格差、貧困解消のための改革の提言を「火に油を注ぐ」ナンセンスなものであると断罪するとともに、専ら私たちの意識(拝金主義)の現行体制との共犯性を責めることのみに行き着くわけである。

 私たちは資本主義社会の商品経済の中で生きている以上、何をするにも「金」という一般等価物のお世話にならずにはいられない。社会的分配もそうだし、飯を食うためにも金がなければどうしようもないだろう。そういう意味で金は全能であるといえるかもしれないが、それと「拝金主義」のような個人の内面の価値観の問題は全く別物だ。つまり金さえあればとりあえずすべての問題は解決できるのではなくて、金がなければ何もできないのが刻下の社会なのだ。
 先生も含めて私たちは日々、空腹という不幸な状態を金によって解決している。先生の言葉に従えば、そうすることは「金の全能性」を強化し、拝金主義の瀰漫につながるはずであるが、そんな状況にあっても年収なんか人間の価値とはぜんぜん関係ないということを深く、魂の底から、「確信」していられる人がいるらしいのである。
 お分かりかと思うが、こういうのをすり替えと言うのであって、マジシャンにとっては立派なスキルだが、思想家がこの手口を平然と使っているのは大いに困りものだ。

 内田先生は、拝金主義イデオロギーがあまりにひろく瀰漫したことが、住みにくい世の中になった一つの原因であるとおしゃっている。仮にそうだとして、ではなぜそのようなイデオロギーが瀰漫するに至ったというのだろう? 当然、社会が変化した、という解答が考えられる。人間の内面性はその条件(社会環境)によって作られる面があるわけで、おそらくは人々を経済的な競争状態に置き、一元的な経済的な格差のものさしを内面化させるような仕掛けの、社会への埋め込みが強化された結果、拝金主義が蔓延することになった、と解釈することができる(よく言われる福祉社会から新自由主義的な社会への変化のことだ)。だとすれば処方は(理屈の上では)単純な話で、そのような仕掛けを骨抜きにする政策が打てれば、拝金主義は消滅してゆく、というシナリオが描ける。たとえばマルクスなんかを引き合いに出すまでもなく、このように社会の条件を変るという発想で人類は長いこと意識(人間性)を変えようと試みてきたわけだ。
 が、少なくとも先生はここで「金の全能性」が強化されてきた原因について何も述べていない。理由もなく拝金主義が人々の内面に広がってきたとでも言わんばかりだ。そのうえ内田先生は、上述の奇怪なすり替えのマジックを使って、このごく正当な変革の提言にダメ出ししてしまうのだ。一体こんな手品師まがいの手管で、いったいこの思想家先生は何をしたいのだろう、、、と思ってしまう。

 多分このエントリーで表現されていることは、先生のいわゆる「拝金主義者(=金のものさしにとらわれた人)への軽蔑」である。格差社会の犠牲者(不幸だとされる低所得者、ホームレス)であっても事情は一緒で、「もっと金を」と叫ぶ以上は、不道徳な拝金主義者として軽蔑される対象なのである。もし先生のように年収なんか人間の価値とはぜんぜん関係ないということを深く、魂の底から、「確信」し、人間の価値について、それぞれ自分なりの度量衡をもち、それにもとづいて他者を評価し、自己を律している人であれば、不満も言わず、どんなに貧しくとも気楽でニコニコ陽気に過ごせるはずだなのだから。
 多くの人の指摘する通り、内田先生の貧困観は相当に貧困である。自分の過去のある時期に体験した「貧困らしきもの」を武勇伝のように語っているが、その生ぬるさはフォローのしようがない。この先生は、あらゆるものを剥奪された状態を想像したことがあるのだろうか。麻雀を楽しむどころか、文化(音楽や本)に接する機会もない状態、生きるだけで精一杯の状態。、、、ウチダは貧困を知らない、というよりもぶっちゃけ貧困に関心などないのだろう。格差なんてなくなる必要を感じてるかどうかもアヤシイ。現行のシステムで問題なし! それもそのはず、貧困など気の持ちようでなんとでもなるのだし、金のことをつねに最優先に配慮せざるを得ない不道徳な貧乏人は、世の中を住みにくいものにしている犯人であり、もう人間的に遇する必要もないクズだろうからだ。
 もちろん、年収なんか人間の価値とはぜんぜん関係ないということを深く、魂の底から、「確信」している先生自身は、モルデカイ・シュシャーニ師と同様に十分な知的敬意を以て遇されるべき存在だ、ということなのだろうが。

 実際、内田先生はさまざまな豊かさや幸運を享受して生きてきたはずなのである。人並みにいろいろ苦労はあったのかもしれないが、大学や大学院に進学できるだけの経済的余裕のある家庭に生まれ、フランス語やフランス思想を学ぶ機会を得ることができ、知的な影響を受ける師や友人に出会いという幸運があって、今日のウチダもあるわけだろう。そのような幸運が一つでも欠けていたら、自分なりの度量衡がどうのなんてこと言える人になっていたかどうかわからないのである。ましてや貧しい、学問などとは縁のない両親の元に生まれていたとしたら、、、金のことをつねに最優先に配慮せざるを得ない貧乏人になっていたのは、先生のほうかもしれない。
 つまり人が何らかの支配的なイデオロギーにとらわれず、自律的な価値を求めるようなことは、精神論以前に、それなりの条件が整わない限り、おいそれと誰にでもできることではないのだ。

 繰り返すが、社会を構成する人々の意識が「金のものさし」を支えることがなければ、格差社会は存在しなくなるだろうという先生の主張自体は間違いではない。ただ、これを社会を変える戦略として考えた場合、相当な長いスパンで考えなければならない無力な戦略であることも事実だ。今現在、衣食住に事欠く人の前で、金にとらわれるなとか、自分なりの価値だの度量衡がどうのなんて言ったところで、貧困問題が消えてなくなるとはいくらなんでも信じていないだろう。第一、私たちは生まれてくる条件を選べるわけではないのだから、意識が共犯的に社会を支えている事実のみをあげつらい責め立てるのは正当ではない。

 当然、格差や貧困に対する即効性のある政策的解決が必要であり、また長期的には教育などの文化的条件を整えることを、まず考えるべきなのだ。

 そのような解決への意志を前提とした上で、(他人に求めるのではなく)自分の生き方の問題として、上の先生のポリシー(=人間の価値について、それぞれ自分なりの度量衡をもち、それにもとづいて他者を評価し、自己を律する)は口にされなければならない。つまりそれは、自らの情熱や欲望を、自らの責任において解放し、それを生きること以外のなんであろうか。

 格差なき社会、それは私たちの夢であり、理想である。だが、現実に私達が生きているのは、まさに「金のものさし」が支配的イデオロギーとして中心を貫いている社会なのである。が、そのような社会の中でも支配的価値に従属することなく、人間の価値について、それぞれ自分なりの度量衡をもち、それにもとづいて他者を評価し、自己を律することは、もちろん可能である。ただそれは精神的にも経済的にもかなりしんどいものであり、まさに生は闘争へと変貌する。そのような闘争の生であってこそ、現在の瞬間を情熱で満たし、来るべき未来へ向けて自律的な価値や欲望、抵抗の精神を送り届けることができ、戦略としても機能し始めるのである。
 
 多くの機会と幸運を得てきた先生が、持たざるものを軽蔑してどうするのか。先生のすべきは、このような闘争の生を、持てる者として引き受けることではないのだろうか。エリートとして、知識人として、意識が現行体制を支えているというからくりを見抜くことができた目醒めた精神として。しかも自らの資源を差し出し、自らの生を実験台として供することによって、つまり贈与としてそうすべき立場なのではないのか。

 ところが先生のなさっていることは、不可解な詭弁(トリック)を操り、社会の条件な不正を放置し、相も変わらず何者かを貶めることによって、自己を浄化すること。しかも持たざるものを前にして、「金のことをつねに最優先に配慮する人間」は私の定義によれば「貧乏人」であるなどと、上からの目線で説教するだけ。先生が思想を学んだのはこんなことのためなのでしょうか。これを思想家の怠慢と言わないで何というのでしょう。あるときは若者が、またあるときは女性がつるし上げられる。今回は金にとらわれた人間が生贄です。社会問題や社会の居心地の悪さの原因(不浄)は、生贄にすべて背負わせて、批判するそぶりだけ見せて現行社会とその支配的価値に無罪を言い渡し、先生自身は身も心も清く麗しい十分な知的敬意を以て遇されるべき存在になりましたとさ。メデタシメデタシ。
 たしか、内田先生の師匠のレヴィナスさんは、他者との対面が倫理である、と言っていたと思いますが、先生が対面して何かを学ばなければならないのは、裕福そうなご友人ではなく、まさに先生が軽蔑している貧乏人のほうなんじゃないでしょうか?
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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