泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: Thought  

Response: Comment: 2  Trackback: 0  

新・異人論序説 3

-3-


 コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』という本がある。アウトサイダー………外部者。もちろん空間的な外部ではない。ここでいう外部とは、ある共同体の秩序の外部という意味である。つまり、近代社会のコード(規範)を逸脱するもの………、コリン・ウィルソンが問題にしているのはまさに近代社会における異人(ストレンジャー)である。ドストエフスキーやサルトル、カミュといった人たちの創り出した文学上の人物とともに、画家のゴッホ、そして哲学者のキルケゴールやニーチェなど実在の人物像がこの本で話題にのぼっている。しかしながら彼らはかつての<異人>とは明らかに違う………異民族やマイノリティではないし、乞食やジプシーのような非差別的な民でもない。おそらくはブルジョワジーに属する知識人である。つまり知識人や芸術家のうちある種のタイプの人間を、近代社会における「アウトサイダー」すなわち新しい<異人>としてとらえようとコリン・ウィルソンがしているのは間違いない。
 (『アウトサイダー』というタイトルには惹かれるが、この本の内容は私が進めようとしている論点からすると正直言って失望させるものだ。実はざっと本に目を通しただけでこんな批判をしていることを白状しておかねばならないが、コリン・ウィルソン自身はあくまでインサイドにどっかり腰を落ちつけながら、アウトサイダーについて語っているように思われる。アウトサイダーを理解し分析する権利は、自らアウトサイドに位置していなければ持ちえないと思うのだが、どうもコリン・ウィルソンの言葉にはインサイダーのモノローグのにおいがまとわりついている。もちろんアウトサイダーへのなんらかの共感なしにこのような本は書かれようもなかっただろうが、少なくとも私とコリン・ウィルソンのアウトサイダーに対する視線は、まったく別のものだ、ということは言っておかねばならない。)
 では、どんなタイプの人間がアウトサイダーとして問題にされているのだろうか。せっかくなので私はここでコリン・ウィルソンの本の中から気になった言葉をその文脈をある程度無視しつつ引用しながら、アウトサイダーつまり新しい<異人>がどのような存在であるかを考察するとしよう。もちろん私が問題にしたいのはフィクションではなく実在の「アウトサイダー」である。

 ゴッホの生は救いのないあがきの連続のように思える。若い頃ゴッホはキリスト教の伝道師として貧しい民衆の中で生きたいと願っていた。過剰に献身的な活動ゆえに伝道師への道に挫折してしまい、彼は絵画にすべてを託すようになる。印象派や象徴派の画家たちと交流をもち、日本の浮世絵に大きな影響を受けたゴッホの絵画は、何事も徹底的に突き詰めてゆく性格の持ち主ゆえか、前例のない独特な激しい表現をもつにいたった。
 しかし、そんなゴッホの絵を認めるものはいなかった。その頃の絵画はあくまでも色彩と形態のハーモニーを重んじた構成的なものであるという限界を超えることはなく、のちのフォービズムや表現主義の絵画を先取りするようなゴッホの、情念をダイレクトにカンバスにぬり込めたような原色の絵は、当時の前衛であった印象派にとっても掟破りな絵であったのだ。(色彩とタッチがのたくり回るゴッホの絵画はセザンヌにすら「狂人」の絵だと評されたという。)
 そのようなブルジョワ的な美のコード(規範)の枠の中にあった19世紀末は、ゴッホを理解せず、黙殺した。時代はゴッホのコード破りの芸術をを許さなかったのだ。もちろん彼の絵は売れず、弟の援助にたよりながら心の中に負債を抱えて細々と仕事を続けていた。度重なる失恋、新しい芸術のための試みとしてはじめたゴーガンとの共同生活の失敗………。ある日ゴッホは自分の耳を切り落とし、ある女性に送りつけるという血なまぐさい事件を引き起こし、精神病院へ入ることになり、その2年後、37歳で自分の胸にピストルの弾丸を撃ち込み、孤独の中で死んでいった。
 世の中のためにと為したこと、新しい美と芸術のための試み、全てが彼を裏切り、時代は彼をアウトサイダーの絶望と孤独の中に追い込んでいったのだ。死後になって、時代はゴッホの生み出した美や彼の生の意味に気づきはじめた。生前1枚しか売れなかったというゴッホの絵は、いまやご存知のように高額で取引される至宝である。
 
 おそらくゴッホは、自分の活動の意味合いを自分でもわからないまま、傷ましいことに絶望と孤独のうちに自ら命を絶ってしまった。時代や社会と自らの実存の間に横たわるズレ、そしてそのズレのために陥ってゆかざるを得なかった孤独な闇、これこそが「アウトサイダー」という現代の<異人>の歩む道なのである。
 もちろんキルケゴールやニーチェも同じような孤独な闇に生きたのである。しかし彼らは自らの立場と使命をよりはっきり意識していた。反時代的であろうとすれば、社会から孤立し、「アウトサイダー」になってゆかざるを得ないという運命を自覚し、あえて闇の中に進路をとり、自ら<異人>たろうとする新しい使命をはっきり見据えていたのだ。
 誠実な思想家であれば、真理を愛し自らつかんだその真理に殉ずることができなければならない。自らの教説とその生き方の間に矛盾があってはならないのだ。実存哲学の先駆者といわれるキルケゴールとニーチェは、徹底した近代社会の批判者であった。彼らはヘーゲル流の近代主義と、その帰結である人間の大衆化、画一化といった現象に我慢ならなかった。人間性の回復という課題、それは結局、彼らの生きる時代と対立してゆくことにつながった。彼らは自らの思想を深めてゆく過程で絶望的な孤独の中に陥ってゆくのだ。時代に迎合することのない仮借なき真実の言葉は過酷な運命をともなって自分自身に還ってくる。友人たちは彼らの研ぎすまされた思想を恐れ、またその仮借なき生き方を理解することができずにひとりまたひとりと彼らのもとを去ったゆく。もはや時代は彼らを理解することができない。彼らは奇怪な警句を吐きつづける変人………「アウトサイダー」として、すなわち<異人>として理解されざるを得ないのである。反時代的であることは、彼らが生きる社会の秩序を否定することであり、共同体が共有するコード(規範)を破ろうとすることにほかならないからだ。
 先ほど私は、彼ら「アウトサイダー」はもともとブルジョワジーに属する知識人であり、伝統的な<異人>とは違うと述べたが、実際には「狂人」と同様の扱いを時代から受けたと言っていいだろう。近代社会という共同体のコード(規範)を逸脱する彼らの言動は、規範を共有する民衆にとってはきわめて狂気に近いものとして理解されざるを得ない。実際、ニーチェやゴッホは「狂気」への道を突き進んでしまった。『彼は、欲望の充足に失敗した神経病患者であるがゆえに「アウトサイダー」なのであろうか? それとも、彼を孤独に押しやるある深い本能ゆえに神経病の兆候を呈するのか?』(コリン・ウィルソン『アウトサイダー』)

 しかし、自らを絶望的な孤独や狂気の淵にまで追い込んでまで彼らが為さねばならなかったこととは何であろうか。
 『………それはただ世間の見栄を思いきり侮蔑してやりたいという気持からだけではなく、どんな犠牲を払っても真理を述べなければならぬ、そうする以外に究極的な秩序の回復は望みえない、というぬきさしならぬ気持から発しているのだ。たとえ前途に望みをかける余地がまったくないとしても、真理は述べられねばならない。………』
 『………少なくとも幾人かの少数者が新しい意識を芽ばえさせ、自分にどんな変化が起きているか理解せずとも、その新しい意識を徐々に、骨身惜しまず、本能的に成長させることが必要となっている。このような人こそ、完全な「アウトサイダー」といえるのではあるまいか。人はみな眠っている。…………なんとしても、早急に目覚めねばならぬことを人間に痛感させる必要があるのだ。』
(同上)
 つまり彼らはそのような使命をもっていた少数者であったのであり、そのような生を選択せざるを得なかったのだ。
 『キルケゴールもニーチェもともに修練を積んだ思想家であり、しかも、自分は「アウトサイダー」であると明言することをいわば誇りとしていた人である。』(同上)
 さらに、そこに私たちはある積極的なチャレンジの姿勢を見抜かなければならない。近代資本主義のシステムが急速に広まり、世界を覆い尽くそうとしていた19世紀末という時代に、その時代の非人間性を少数の者は意識的、無意識的に感じ取っていた………。

 近代がいかなる時代であるかは前節で述べてきたとおりであるが、「祭り」すなわち「非生産的消費」の喪失ということがその近代社会の大きな特徴である。近代資本主義社会の日常は徹頭徹尾、生産的な労働の規範に貫かれている。労働の中で私たち人間は生産のための道具となっており、そのために気まぐれで暴力的でさえある自らの欲望を抑圧しているのだ。私たちは危うい生存を確かなものにするために労働するのであるが、それはなんらかの欲望を満足させることで得られる快楽を犠牲にしてなされている。逆に、欲望の開放は労働ではなく富の浪費、すなわち非生産的な消費において行われるのだ。
 近代以前の社会においてはさまざまな局面で非生産的な消費が行われてきた。季節ごとに巡りくる「祭り」は、まさに非生産的消費であり、生命の絶頂期の様相を呈する欲望の解放の瞬間であった。
 が、「祭り」は同時に生命の危機でもある。生存への配慮を踏みにじることでしか行われえない非生産的消費は、極限的には人間の生命すら惜しみなく浪費し焼き尽くしてしまうのだ。「祭り」に死はつきものであり、歓喜と危険の両面を持ち合わせた「祭り」とは「聖なるもの」のあり方を体現していると言っていいだろう。

 しかし近代社会は「祭り」を喪失した。近代以前の社会がそれを中心に組織されていたところの「聖なるもの」へのチャンネル(通路)を私たちは失ってしまったのである。その結果、私たちのもとにあるのは生産へ向けて組織された灰色の日常………キルケゴールやニーチェが告発していた画一化した大衆社会であり、赤坂憲雄も語っていた均質的でのっぺりとした近代の空間なのである。
 19世紀末に現れた彼ら少数の「アウトサイダー」たちが、その絶望的な孤独の中で告発し奪回しようとしていたものは、近代という時代が喪失してしまった「聖なるもの」である。彼らの生の軌跡、残された芸術作品やテクストは現在に至るまで異彩を放っている。ゴッホの同時代にも数多くの画家がいて、おそらく絵を売ることで生計を立て、中には官展で評判を博し、金持ちになった人もいるだろう。だが時代が移ってみれば、そのような官展画家は忘れ去られ、今も問題になっているのは掟破りな絵を描いた不器用で、挫折の連続であったゴッホの絵であり生き様なのだ。私たちの前に提出されている「アウトサイダー」たちの生の軌跡とは異様な明るさで輝く孤独で神聖な「祭り」のかたちである。
 ゴッホにしろキルケゴールやニーチェにしろ「アウトサイダー」として生きた人たちには、かつての<異人>同様、共同体の秩序とその外部を媒介するものとして「聖なるもの」のオーラがまとわりついている。外部との交流を遮断された近代において、彼らはまったく新しい形で外部への、そして「祭り」への通路を切り開いたのだ。つまり、コード(規範)の破壊、システムへの反抗という形で彼らは「祭り」を近代社会に導入したのだ。彼らの生は闘いであり、賭けであった。おそらくは勝ち目のない賭け………したがって彼らの生は惨憺たるものにならざるを得なかったわけだが………。誇りをもって「祭り」の奪回のために格闘した「アウトサイダー」たち………しかしそれは彼らの絶望的な孤独や貧困、社会からの排除という残酷な運命をもってあがなわれければならなかったのだ。

 こんな想像をしてみたくなる………現代の<異人>である「アウトサイダー」たちは、自らを生贄に捧げたのではないだろうか?……と。
 古代メキシコのアステカ人の供儀………神に捧げられる生贄はピラミッドの上で殺害され、脈打つ心臓を抉り出し、太陽に差し向けられた………。この身の毛もよだつような残酷で罪深いアステカの習俗には、しかしながられっきとした意味があった。彼らは太陽を輝かせつづけるために、太陽の神に人間の血を捧げなければならないという神話の中に生きていたのだ。生贄にする捕虜を得るためにアステカの戦士たちは近隣の部族と「花の戦争」と呼ばれる戦に明け暮れたという。
 「アウトサイダー」たちの残酷な運命を考えると、近代社会に「祭り」の太陽を輝かせつづけるために、彼らは自らの生を供儀へと投げ出したのではないかという思いにとらわれるのだ………。

 とにかく私たちはここに近代社会が失ったはずの共同体の「外部」へのチャンネルのまったく新しい形を見いだすことができる。それは「アウトサイダー」という現代の<異人>によってもたらされるものだ。近代以前の社会においては、システム的に「聖なるもの」が例えば「祭り」というかたちで組み込まれていた。しかし近代資本主義社会において「外部」への通路、そして「聖なるもの」は、私たちにとって常に奪回しなければならないものへと変化したということだ。近代化以前の伝統的な社会おいてのような内部/外部、日常/非日常の分割は、すでに衰退し無効になりつつあるのであって、社会のシステムや規範を反抗的に否定する闘いとしてしか、「外部」とのコミュニケーションはあり得なくなってしまっているということである。
 「アウトサイダー」という現代の<異人>は近代に「祭り」の太陽を輝かせるための「花の戦争」に赴く戦士である。また、時代と自らの実存の間を引き裂き、そこに生まれたズレによって傷つき、また血を流し、その血を自ら太陽に捧げる生贄であり祭司でもある。そのように自らの生を危険な賭けに投じること、生を一つの実験と考えること(ニーチェ)、すなわち月並みな言葉でいえば、チャレンジすることが、近代社会の秩序とその「外部」との間に交通を再開させ、近代に「祭り」を復活させる条件なのである。「アウトサイダー」は近代社会の秩序とその「外部」を媒介する。だからこそ彼らは時代から排除されるとともに「神聖」な存在でもあるのだ。

 「アウトサイダー」の近代社会に対するこのような新しい役割は、その後さまざまな機会を通じて理解されるようになってきたといえよう。いわゆる実存主義哲学や構造主義といったアカデミズムの思潮は、「アウトサイダー」の立場を徹底的に肯定するというモチーフに貫かれている。それゆえハイデガーの存在論、レヴィ=ストロースの構造人類学、またフーコーの歴史の分析がすぐれた近代批判となっているのは偶然ではない。
 また同様なことが芸術や文化運動、社会運動の領域においてもあらわれているが、むしろこちらでは「アウトサイダー」の意義を肯定するだけにとどまらず、活動の主体自らが「アウトサイダー」たらんとし、近代社会に「祭り」を導き入れる「戦士」の役割を積極的に選択している。
 ダダ・シュルレアリスムのスキャンダラスなアクションの数々は、明らかに近代社会の秩序の「外部」に属する「異質なもの」のもつエネルギーを、硬直化した近代の日常に介入させて祝祭性を導き入れようというものである。アンドレ・ブルトンはフロイトの精神分析学の「無意識」の概念に注目していたが、「無意識」とはまさに近代の秩序が排除したものの溜まり場であり、不気味で豊穣な闇のエネルギーの源である。
 第2次世界大戦後に展開しているシチュアシオニストやアウトノミアといった左翼の運動は、革命を目指す運動ではもはやない、と言っていいだろう。生産の秩序の支配する日常に、「遊び」の要素を持ち込み、「日常生活をワクワクさせるものにする」というシチュアシオニストの戦略は、革命家ではなく「祭り」の戦士のそれである。


 さて、私たちは赤坂憲雄の異人論を補足・拡張するかたちで論を進めてきた。私は赤坂の仕事に深いリスペクトをいだくものであるが、彼のアカデミズム(民俗学者)への転身には正直がっかりさせられた。民俗学者のフィールドワークが無意味だなどと言うつもりは毛頭ないが、それよりも異人論という分析装置を用いて、近代社会に潜む排除の構造をえぐり出す彼の手腕と、近代に対する彼の批判的な視線が、初期の赤坂の仕事の中で妖しい輝きを放っていたように思うからである。
 「私自身が異人(ストレンジャー)となり、近代社会の硬直化した日常を活性化させなければならない。」というマニュフェストを第1節の終わりでも述べておいたが、赤坂憲雄のテクストの中に、芸術家でありたいと考えていたあの頃の私が発見ようとしていたのは、私自身の未来………つまり「アウトサイダー」として近代社会の日常に「祭り」を導入するという自分自身の更新された課題だったのである。そしてそれは闇へと向かう孤独な旅であるに違いない、という予感でもあった。
 その後、私は絵を描くのをやめ、仕事を変え、アジアをぶらぶらと放浪するようになったが、そのきっかけの幾分かは、赤坂憲雄の近代批判の視線を共有したことによるものだ。「外部」を、そして「異質なるもの」を私は常に求めるような道をたどりはじめたのだ。つまり赤坂憲雄の異人論のテクストは私にとっては「祭り」への道しるべであったのであり、少なくともそこに民俗学や歴史学という「学問」を見たのではなかった、ということは間違いないのだ。

 時代は流れ、すでに21世紀である。ゴッホの掟破りもニーチェの孤独も時代はとっくに咀嚼してしまい(理解したというわけではないであろうが………)、その作品やテクストはすでに商品として資本主義社会に取り込まれている。今では芸術家や哲学者は彼ら「アウトサイダー」のように孤独の影をもち、エキセントリックな風情であるほうがそれっぽかったりする時代になっている。だがもちろん問題なのはそんな商品やポーズなんかではなく、「祭り」の神聖さで時代を満たそうという意志なのである。
 何度でも繰り返すが、そのためには大きな代償が必要である。何かを得るためには、それと等価の何かを失わなければならない。私たちが「祭り」の戦士であるために犠牲にしなければならないこと………それはぬるま湯のような日常生活の安逸である。19世紀末の「アウトサイダー」たちが教えてくれたことは、近代において「祭り」は季節ごとに巡りくるものではなく、闘いとらねばならないものになったということ、そして「祭り」の太陽の輝きは、古代メキシコだけではなく近代社会においてもやはり、自らの傷口から流された血を捧げることでしか維持することができない、ということだった。そのために私たちは時代と私たちの実存の間を引き裂き、冷徹に己を精神的な苦悩の試練の中に追い込むことができなければならない。「祭り」の太陽を夢見るもの………近代社会における「花の戦争」を遂行する戦士たちは、そのような危険なチャレンジに常に、そして新たに、自分を投げ入れるのである。



Comments
 
どうも、お久しぶりです。ちょくちょくと覗かせてもらってますが
「アウトサイダー」について書いてあるので・・・。 というのは最近読んだ本が「対話コリン・ウィルソンX佐川一政 饗(カニバル)」というものだったのです。で、次は「アウトサイダー」でも読んでみようかと思っていたわけです。コリン・ウィルソンはその手の著作はいっぱいありますがどうなんでしょう?言ってること、ちょっと変な時があります。あと以前の「会社を辞めるとき」は興味深く読めました。では。
 
 ごぶさたです。
コリン・ウィルソンのものはあまり読んでいないので偉そうなことは言えませんが、だいぶ前に『至高体験』という本を読んだことがあります。ですが、正直言って(過激な本を書く印象があるわりには)ずいぶん保守的な人だな、と思ったことを覚えています。『アウトサイダー』に関してもそうでした。題名から期待できるような内容ではなくて少々失望しました。もっとアウトサイドの人間を持ち上げてくれていると思ったのですが………。確かに博識であるのは認めますが、要するにコリン・ウィルソンはたんに「不思議大好き」な人なんじゃないですかね。
 P.S.梶原さんとは同業者ですので、具体的にどこの会社かも想像つくと思います(笑)。今度は「会社がつぶれるとき」というのを書いてみますか!

10 2017 « »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
目次

カテゴリー 累計
全記事一覧
前衛芸術研究室 28
亡霊退治 67
アート・建築・デザイン 29
思想など 144
旅行・タイなど 60
ニュース・時事など 31
フンデルトワッサー 12
中西夏之 3
日記・その他 117
記憶の底から 15
音楽 6
Category: None 23
反芸術研究室 6
最新のコメント
Twitter
タグcloud
アクセスカウンター
   




プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



Archive

RSS