泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  タイ  

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タイのハーバーマスと貧困の文化

 ずいぶん以前のことだが、今村仁司の『タイで考える』という本を読んだことがある。ぶっちゃけタイに関しては私のほうがよっぽど通なのではと思ったし、今村さんの本はもっと硬いもののほうが面白いなという感じで、内容についてはあんまり印象に残ってないのだが、いまだにひとつのエピソードだけが記憶を離れずにいる。
 今村さんがタイの大学で現代思想の講義をしたとき、通訳をしてくれた学生が、あとで今村さんに「なぜ今日はハーバーマスについてお話にならなかったのですか?」と質問したというのである。
 おお!そうなんだ……タイにもインテリの学生がいるんだ……、と私はちょっと驚いた。その学生がハーバーマスにどんな問題意識を持っていたのかはどうでもいい。とにかく英語での哲学の講義をタイ語に通訳し、私も読んだことのない思想家について語れるインテリ学生がタイにもいるということらしいのだ。。。
 考えてみると、私がいままでタイで知りあった人たちは、女房(やその家族)も含めて、ほとんど学のない人たちだった。学のない、、、というのはつまり、一般的に言って「貧しい」人たちのことだ。生活レベルが平準化している日本において「学歴のあるなし」は、かなりの部分、どれだけ進学(勉強)する気があるかという「やる気」すなわち「努力する気になるかどうか」の問題であって、教育費用のほうは無理すれば何とか都合がつく場合が多い。経済的理由で進学を断念得ざるを得ないという事態は、全くないわけではないだろうが、特殊な例であるように思う(最近では経済的「格差」の広がりが問題になってきていて、必ずしも特殊な例とは言えなくなってきたという面はあるだろうが)。
 しかしタイでは上のハーバーマス君たち(インテリを生み出せる富裕層)と、低収入の庶民(おもに地方の農民)の間には「やる気」や「努力」以前の問題が横たわっており、その距離感は私たち日本人の想像を絶するものがある。とりあえずそれは経済的な格差だと言って間違いないのだが、そのような数字の問題に絡まる形で、二つの階層間には、少なからぬ精神文化的な差もまた横たわっていて、それがまた階層間の経済格差を再生産する働きをしている。これをある人は貧困の文化 と呼んだらしい(オスカー・ルイスの本 はまだ読んでいないが)。

 バンコクで今勤めている会社でタイ人と働いてみて意外に感じたのは、みんななかなか勤勉であることだった。タイ人は働かない、とよく言われるし、私もそう思ってきた。もちろん南国特有のタイ人気質は一般的に勤勉であるとは言いがたい。が、一口にタイ人といっても、いわゆる階層によってずいぶんメンタリティが違うということらしい。「バンコクはタイではない」という言葉があるが、それは都市部の住民と、農村部あるいは農村から都市に流入した貧困層との間のメンタリティの差を表現している。
 今の職場のタイ人スタッフはコンピューターを使いこなさねばならないが、それがすんなりできるためには、ある程度の高等教育や専門教育を受けていなければならない。実際一緒に働いているスタッフは専門学校や大学を出ている子たちで、エリートとは言わないまでも、タイでそれができるのは実家がちょっとした小金持ちでなければならないはずだ。いわゆる中産階級、地主、成功している農家などの世帯の子弟ではないかと想像する。少なくともタクシン元首相の支持基盤であったタイ北部、東北部の貧しい農民には、経済的に専門教育を受けるという道が開けているとは思えない。そして、そのような階層間の経済的な距離を、さらに拡大再生産するかのごとく振舞っているのが、精神文化、、、すなわち貧困の文化だということになる。

 貧しくても努力次第で貧困から脱出できるはずだ、と、私たちはそう考えがちである。努力は自分の条件を変えることが出来る。貧しいことは恥ではない、努力しないことこそ恥辱なのだ、と。、、、そう言われると、思わず頷いてしまいそうだが、このような言葉は、かなり先進国的な、資本主義的秩序における勝ち組的な価値観を体現していることを私たちは自覚しなければならない。
 現実にタイの低所得層(農民)と付き合ってみて気がつくのは、彼らがあまり努力しているようには見えないことだ。金がない、と言ってるわりには、こっちがうらやましくなるほど暇な人たちが多い。貧乏、というと、働いても働いても生活が楽にならない状況を想像するが、どうもここでは事情(貧困の意味)が違うらしいのである。いつ働いてるんだろう? いや、それだけ時間があるならちょっとでも何か仕事をしたほうがいいのでは? いい仕事がないとも聞くが、そうであるならたとえば職業訓練をしておくとか、本を読んで教養を高めるとか、何かないの? 、、、などと言いたくなってしまう。人の集まるところ、あちらからこちらへぶらぶら移動してだべったり、酒盛りや賭け事に参加したりと彼らはヒマネス(ビジネスの反対語?)に余念がないのである。
 こんな話も聞く。かつて日本各地にリトルバンコクというタイ女性の水商売の街が生まれたことがあったが、そこに(売春婦として)働きに来ていた若いタイの女は、だいたいチェンラーイ県などタイ北部の貧しい農家の娘だというのが通説だ。彼女らが日本で得た収入は、タイの家族に送金されるのだが、聞くところによるとタイの家族達はそのお金を不人情なことに随分と無駄使いしてしまうらしいのだ。せっかく娘が慣れない異国で身と心をすり減らして稼いだ金なのだから、(土地を手に入れたり、家畜や農業用機器を買ったり、他の子供達の教育費に当てたり)実家の経済的向上のため役立てればいいと思うのだが、親父が酒と賭博につぎ込んでしまったり、必要もない贅沢品を購入して浪費してしまったりで、先のことを考えない刹那的な使い方をしてしまうことが多いという。確かに田舎の呆けた顔をした農家の親父を見てると、また自分の女房の悪辣な金の使い方を見ると、さもありなんと思わずにはいられない(トホホ)。
 ようするに、タイの貧農には、先進国の農家が持っているような、近代的な農業経営者的な感性がかなり希薄なのであって、(事業や家族の)将来のことを勘定に入れて現在の行動がなされていないことが多い。だから貴重な空き時間は有効利用されることなく、せっかくの臨時収入も事業を安定、拡大させるチャンスと考えられることなく、非生産的に浪費されてしまう。
 厳しい冬がなく食うには困ることがなかった南国の楽天性、地方の学校教育の未整備なども、そのような行動が生まれる理由のひとつだろうが、一番大きな理由は、タイの農民のメンタリティがいまだ伝統的な共同体の秩序の中にかなり埋没したままになっているからだろうと想像する。彼らの日常は、親族、村落などの漠然とした共同体との経済的な相互依存(相互扶助)の中で動いており、共同体全体が食えていればOKであって、先進国の住人のように、個人や一つの家計を営む家族が独立した(競争関係にある)経済主体になっていないのである。
 先進資本主義諸国の個人は、労働力商品として子供のころから絶えず競争状態に置かれてきており、人生のあらゆる瞬間が、市場における自らの商品価値を高めるための、すなわち他人を蹴落とし勝ち上がるための「努力」の時間なのである。一方、タイの農民たちの間にそのような緊張を見出すのは難しい。彼らが羨ましいほどのんびりしているように感じる理由はここにある。彼らの間に伝統的な共同体の秩序が力を持っている限り、「努力」や「競争」への動機付けが行われることがないのだろう。まあ、「やる気」にならないとか「努力」する気にならないというよりも、「やる気」そのものが存在しない、あるいは(私たちが使う意味での)「努力」という言葉の意味もわからない、といったところだろうか。
 もっとも資本主義的メンタリティは別方向から確実にタイの農村にも浸透しつつあり、伝統的共同体は急速に崩壊してゆくだろうことは間違いがない。ことにマスメディアの創り出すスペクタキュリーな仕掛けによって、消費の面から伝統社会に侵入してゆくのは、資本主義のいつものやり方であり、農村内部にさまざまな悲喜劇(見栄の張り合い=競争)を生み出しつつあるが、それは日本を含めた先進諸国も近代化の課程で経験してきたところである。

 一方、都市部に住むタイの中間層(華人が多かったりするのだが)は、明らかに先進国型のメンタリティを持っている。それゆえ彼らの行動は日本人の私にも理解しやすい。以前私は会社の若い子に、女房の賭博癖に困り果てていることを愚痴ったことがある。すると彼は、「賭博は全てを壊します(失わせます)。、、、そう母に言われています。」とつぶやいていた。なるほど都市中間層には、このような浪費を忌避する倫理が根付いているらしく、私の女房や兄弟たちの家族全員で賭博に入れあげている姿とは対照的だ。

 だが、祭りの戦士を名乗っていることからも想像できることだろうが、私はタイ中間層に見られるような、現行の支配的な価値(先進国型の「努力」と「競争」のメンタリティ)を持ち上げたいわけではないし、階層間の経済格差を再生産する働きをしているこうしたマイナーな貧困の文化を攻撃したいのでもない。私が、あえてタイの貧乏人と所帯を持とうなどと思った背景には、タイ農村の人たちの間に未だ流れ続けている前近代的な時間(ヒマネス)に羨望を抱いていた、ということも一つあったに違いない。私たちにとっては闘いとらねばならないものが、ここには南国の日差しに晒されたまま当たり前のようにして、ある。意図的にではないにしろ(その内部にさまざまな非論理、不条理、不潔さを抱えながらも)、貧困の文化は、現行のメジャーな文化に対して、独特のリズムをもって対抗している。そのままでは使えないが、何か学ばねばならないものがあり、その姿に私は救いすら感じていたりするのである。
 しかし、(そのようなタイ農民と利害関係に入るなりして)その甘ったるい夢から目を醒ましてみれば、目の前にあるのは単なるタイ農村の貧困であり、苛立たしい貧困の文化なのである。現実問題として、タイ農民の「努力」メンタリティのなさ、というのは、市場経済が農村部へ急速に浸透しつつある現在、明らかに貧困を加速させる要因にしかならないだろう。現行体制が今すぐ大きく変わる見込みがない以上、この事態を変えるための現実的方法と考えられ、実際タイ政府によって進められているはずなのは「教育」である。つまりそれは、(大げさに言えば)ヒマネスなタイ農民を教育によって市場で生き抜けるビジネス戦士へ改造するということである。
 だが、教育の効果というものはすぐに現れてくるわけではない。おそらく何らかの結果が出てくるまで少なくとも数世代を要するのではないだろうか。文化(あるいは人々の価値観と言ってもいいが)というものは、おいそれとは変わらない粘着性を持ってシステムを下支えしているのである。同じ国に暮していながら、タイのハーバーマス君と貧困層の間にはそれくらい分厚い距離があるわけである。

 最近実感しているのは、こうした異なる文化(価値)間の距離と、その粘着性である。今まで何気なく使っていた「他者」という言葉が、いま私の中で妙にずっしり重いのである。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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