泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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現象学的還元についてのメモ

 以前、内田樹氏の批判をしたとき、「外部」への視線を欠いている、というポイントから攻めたところ、何人かの人に「外部なんて存在しない」とクレームをつけられたことがある。そのことに対しては何度も真意を説明 してきた。私の書き方も悪かったのだろうが、文字通りの誤解だ。で、今年の春、バンコクの紀伊国屋書店でレヴィナスの『全体性と無限』を手に入れて以来、現象学がマイブーム(いまだ現象学が何なのか説明できない)なのだが、こないだフッサールの現象学的還元のメルロ=ポンティ流の解釈に出会って「おお!」と思った。

 彼(フッサール)は本当に徹底した反省によって、つまり、環境や外的諸条件によってわれわれのうちに作り上げられた先入見を露呈してくれるような反省によって、この<負わされた条件づけ>を<意識された条件づけ>に変えようと努めるのですが、しかし彼は、そうした条件づけが存在するということ、そしてそれが抜きがたいものだということを、一度も否定したことがありません。彼が、哲学でさえわれわれの経験の流れのなかに属し、そこに<流れこむ>に違いないということに着目したそのやり方は、まことに際立ったものです。時間の流れを無視し、それを支配しようとする思考でさえも、ひとたびそれが組み立てられるや、時間の流れのなかに位置を占め、そこへ落ち込むというのです。ですが、哲学者は哲学者としてあるかぎりでは、外的人間のあり方で、つまり物が箱の中にあるように時間のなか・空間の中・社会の中にあるといった心理・物理的主体としてのあり方で、ものを考えてはなりません。哲学者というものは単に存在しようと望むだけではなく、おのれのなすことを理解しながら存在しようと望むわけですが、ただそれだけのためにも、哲学者は、その生活の事実的与件のうちにひとりでに含まれているすべての断定を一旦停止しなくてはなりません。しかし、さまざまな断定を停止するということはそうした断定の存することを否定することではありませんし、ましてやわれわれを物理的・社会的・文化的世界に結びつけている鎖を否認することではなく、逆にそうした結びつきを見ること、意識することです。これが「現象学的勧還元」というものであり、そしてこの現象学的還元だけが、そうした絶えざる暗黙の断定、各瞬間のわれわれの思考の裏にかくれている「世界の定立」を露呈してくれるのです。
 確かに、哲学者の特性は、個性をもった・時間的な・条件づけられた自分自身の生活を、他の多くの生活のうちのありうる一つとして考察するところにあります。そのかぎり彼は、<自分が現にあるところのもの>を通して<自分がありうるであろうもの>を捉えるべく、<現にあるところのもの>から身を引き、また、自分の経験的人格をも、開拓されるべきもっとはるかに広い世界の諸可能性の一つとして見ているわけです。しかし、こうした努力は、われわれが物理的・人間的世界とのあいだに持っている結びつきをそれっきり解き去ってしまうわけではありません。言いかえれば、われわれはこの<おのずからなる〔世界の〕定立>を、「それに加わることなく」、つまりその同じ瞬間に自分としてはその定立を行わずに、眺めるわけですが、これは真であろうと望むどんな思想にも必要な条件なのです。その生涯の終わりにあたってフッサールも、反省なるものの第一の成果は、われわれが反省に先立って生きているがままの世界(生活世界)の現前をふたたび取りもどしてくれることだ、ということを認めていました。確かに、〔現実世界とのあいだに交わされた〕契約の現象学的還元は、われわれの思考とわれわれの個性的な物理的・社会的状況とのあいだの、生によって設定された裂け目ではありますが、だからと言ってわれわれは、いわば時間に割れ目を作ったり時間を超えたり、純粋論理や純粋思考の領域に移ったりさせてもらえるわけではないのです。われわれは決して時間を超えるわけにはいきません。フッサールが認めているのは、ただ、時間を生きるにもいろいろな生き方があるということです。時間を生きる受動的な仕方があり、そのときわれわれは時間の内部に属し、時間を押しつけられます。これが<内時間性>と呼ばれるものです。また、反対に、われわれは時間を捉えなおし、自分で時間を展開させることもできるわけです。が、いずれにしても、われわれは時間的に存在するのであって、時間のかなたに移れるわけではありません。伝統が教えるとおりに、なるほど哲学は永遠の真理の学問だと言ってよいかも知れませんが、むしろ正確には、フッサールがその生涯の最後の時期に言ったように、哲学は時間の秩序をまったく脱してしまうような真理の学というより、「遍時間的」なものについてのがく、つまり、つねに〔=すべての時間に〕妥当するものについての学だと言うべきでしょう。時間性を深めることはあっても、時間性の超出ということはありえないのです。

メルロ=ポンティ 『人間の科学と現象学』より


 そうそう、これこれ、、、こう書けば誤解もされなかったのだろう。<負わされた条件づけ>すなわち現行(支配的価値)への没入状態から身を引き剥がし、それを<意識された条件づけ>に変えるため、自明と化したさまざまな確信を保留すること(エポケー)。こういう還元の手続きについて私は語っていたわけなのだ。上でメルロ=ポンティの使っている「時間」という言葉を「内部」へ、「時間を超える」とか、「時間のかなた」という表現を「外部」という表現へと入れ替えれば、もうそのまま自分の言葉として使えそうだ。
 ただ、メルロ=ポンティは触れていないが、そうした(先入見を露呈させる)還元行為は、(実在ではないが)価値というかたちで<自分がありうるであろうもの=外部>のパースペクティヴを持つことと同時的に行われるのではないかと私は思う。そのような外部のパースペクティヴ(価値)がなければ、<負わされた条件づけ>への没入から距離を取れるとは思えない。つまりそうした外部の価値(傍流の価値、すなわち他者性 )との対面こそが、還元そのもなんだと私は理解している。したがって現象学的還元は、未知なる未来=他者との出会いであるところの時間性によって可能になっているということか。でも、これフッサールの言う意味の現象学的還元とはずいぶん違うことになっちゃってるんだろうな、きっと。
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