泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

Response: Comment: 0  Trackback: 0  

現象学的還元についてのメモ その2

 インターネットというものはありがたいもので、読みたい本が手に入らない環境でも探せば面白いものを引っ張り出してこれるものだ。前回、現象学的還元について、『(先入見を露呈させる)還元行為は、<自分がありうるであろうもの=外部>のパースペクティヴを持つことと同時的に行われるのではないかと私は思う。そのような外部のパースペクティヴ(価値)がなければ、<負わされた条件づけ>への没入から距離を取れるとは思えない。』と書いた。つまりこれは「還元の動機」の問題として、レヴィナスが、フッサールら現象学の先輩方においてほとんど考究されていないと指摘し、批判するところである。
 そこらへんの事情を、ネットで釣れた以下のありがたいテクストに学ばせてもらった。とくに読んで唸った部分をメモっておく。

3、c 自由の出処

 自然的態度が一つの完全に自足した態度であったことに鑑みるなら、還元とはこうした自足の根底的な問い直しとして理解されうる。より厳密に言えば、還元とは、懐疑を試みることができるという自由がいかなる目的や制限にも縛られることなく徹底的に遂行されることで、その過程に充足し切ってしまうことなく自由の出処へと目を向け変えさせられてしまう(あるいはむしろ、目を向け変えさせられて初めて自足していた状態(自然的態度)が問題化される)という事態を意味している。フッサール自身による無前提性の要求の徹底化を通じて開かれた、この自由の出処という問題次元こそ、一切の動機をもたないように見える還元の「出処」として問題化されるべきものであったはずだ。ただしフッサールにおいては、還元の成果である超越論的次元と還元の出処とが同一視されていたため、還元の無動機性が矛盾となって残り続けた。これに対してレヴィナスは、フッサールの無前提性の要求を更に推し進め、懐疑を試み続ける理論の自由それ自体が問い直される地点として還元の出処を問題化することで、還元の無動機性の構造を解明しようとする。
 「〈同〉の問い直しが〈同〉の自我中心的自発性においてなされることはありえない。それは〈他〉によってなされる。〈他者〉の現前によって私の自発性がこのように問い直されること、われわれはこれを倫理と呼ぶ」。自由・自足は、〈他者〉との直接的な出会いによってのみ問い直されうる。ここで「直接的」というのは、いかなる地平や了解も媒介とせずに、直面しているという事態を意味している。 先行了解や認識地平を通じた主題化に供することなく出会ってしまうがゆえに、われわれの自由・自足を根底的に問い直すもの、それがレヴィナスの言う〈他者〉なのである。理論の自由に対する〈他者〉のこの絶対的先行性ゆえに、還元においては、思考はすでに〈他者〉へと根本的に方向づけられている。それゆえ、思考する自我は自由によってではなく、〈他者〉によって思考させられていることになる。このような必然性をレヴィナスは、「実存は自由を余儀なくされているのではなく、自由として任命される」、「注意(~へと向かうことattention)は〔…〕本質的に〈他者〉の呼びかけ(appel)に応答するものである」といった言い方で表現しようとする。還元においては、思考は他者からの呼びかけに「応答する」という形でしかなされえず、この〈他者〉への唯一的な応答(réponse)に私が私たる所以、「ほかならぬ私」が思考せねばならないという「責任」(résponsabilité)が見出される。誰も私の代わりに思考することはできないし、誰もこの責任から私を赦免しえない。この「回避することができない」責任が、「ほかならぬ私」という思考の担い手の「特異性」(singularité)をなす。こうした責任や「ほかならぬ私」という特異性を必然的に伴う〈他者〉との関係は、その都度達成・解消される享受の連関とは根底的に異なる。というのも、ここで出会われる〈他者〉は、思考の担い手たる〈私〉の自由に対して絶対的に先行しており、それゆえ享受の対象として内在化されることが決してないからだ。
 こうして還元の出処が、思考の自由に絶対的に先行する〈他者〉という形で問題化される。「思考ならびに自由は、〔…〕〈他者〉に対する顧慮からわれわれに到来する」。「還元」は〈他者〉への唯一的な「応答可能性」(応答しないことができないという責任)を担った〈私〉において思考が始まってしまうこと、「始まらねばならない」こととして解釈される。フッサールの還元が還元をなす自由それ自体を問題化しなかったのに対して、レヴィナスはまさにそれを問題化し、〈他者〉による私の自由の根底的な「問い直し」とそれによる「ほかならぬ私」の召喚(appel)に還元の真の意味を見出したのである。

4、還元と隔時性

 還元の出処を問うということは、現象学的還元それ自体に孕まれたより徹底した還元の可能性であった。レヴィナスは、フッサールにおいてさえも無批判的に前提とされているもの(理論の自由、哲学の自律性)の条件をさらに問うことで、フッサールの還元をより徹底的に還元したのだと言えよう。こうした徹底化を通じて、具体的には、あらゆる有意味性の基盤に「何かが何かとして現出していること」(「意味」)を置き、理性による直観(「直接的に見ること」)において対象が「原的にありありと与えられていること」に、その明証性を見出すフッサールの合理主義の更なる掘り下げが試みられる。それは、「ありありと与えられる」(leibhaft gegeben)というフッサールの表現の内に、何かが何か同定可能なものとして(志向的統一として)与えられているというフッサール的な「意味」に先行する「強迫」 (obsession)を見出すことでなされる。
 フッサール的な理論の自由は、何かを何かとして「引き受ける」(assumer)。「引き受ける」という様態においては、あらゆる経験が前もって「~として」という現出構造のうちで何らか予見され承諾されている。逆に言えば、「引き受ける」ことにおいては、「与えられなくてもよい」可能性が常に確保されている。「与えられる」(それを対象とする)かどうかは、思考の自由に任されているというわけだ。しかし、leibhaft gegebenの受動性を文字通り受け取るのなら、このような「与えられなくてもよい」という可能性は二次的な可能性にとどまる。レヴィナスは「与えられる」(gegeben)の受動性を「引き受ける」ことに先行する、「与えられざるをえない」という極度の受動性、「被る」(subir)こととして捉える。引き受けるに先立って、一方的に被ること、これが現出としての意味に先行する、意味の「意味性」(signifiance)であり、有無を言わさず思考を目覚めさせる「強迫」なのである。「強迫」は、現出としての「意味」に先立つという点で「志向性よりもいっそう切迫した関係の直線性」(rectitude)として位置づけられる。
 なにものかが「何かあるもの」として引き受けられるよりも前に、つまり所与が所与として与えられるよりも前に、思考はなにものかを被ってしまっていたと考えなくてはならない。思考はそれが自由に思考しているときには、つねになにものかを被ってしまっており、このなにものかに絶対的に遅れている。それゆえ、思考は、思考している「今」と連続した時間を遡ってこのなにものかを一つの起源として探究するという可能性を原理的に欠いている。それゆえこのなにものかは起源に先立つ起源ならざるもの、「無起源」(anarchie)としてしか思考しえないわけだが、しかしこうした「起源に先立つもの」、「無起源」としてしか思考しえない「何か」という表現もまた「言葉の乱用」(abus du langage)と言わざるをえない。なぜなら「何か」(quelque chose)とは、すでに何か存在するもの、何か現出するもの、つまり「引き受けうる」(assumable)ものを意味しているのだから。これに対して、「被る」とは逆説的にも「引き受けることのできない受動性」(passivité inassumable)を、一度も「意味」として現出したことのない「現象ならざるもの」との何らかの接触を意味している。このようにしてレヴィナスは、フッサールにおける「意味」よりも、より近く先行している事態をフッサール自身のleibhaft gegeben という表現に見出すことで、フッサール的な「意味」に先行する「無起源」の「意味性」(signifiance)という問題次元を提起する。そしてこの「意味性」こそが、フッサール的な「意味」を可能にし、それを方向づける(方向/意味sens を与える)のだと言う。
 重要なのは、このような「無起源」なるものが、その定義上、思考との連続性・同時間性を欠いているということである。思考が自らを起動させたものに本質的に遅れており、〈他者〉と〈私〉との間には乗り越え不可能なずれが、つまり思考している今ないし同時間性に回収できない隔たりが孕まれているというこのような事態をレヴィナスは「隔時性」(diachronie)と呼ぶ。これは、自然的態度における超越論的還元の生起についてのよりよい表現となりうる。自然的態度に没入している者にとって、自然的態度はその本質上、自然的態度として現れることはない。自然的態度を自然的態度として意識し思考するのは、何らか超越論的態度に移行した後にのみ可能だからである。自らの態度を自然的態度として意識するのは、それゆえつねに還元の後であり、この事後性は本質的に埋めがたいものだ。この事後性は還元の出処が思考との連続性を根本的に欠いていることに由来する。人が能動的に還元を行おうとするとき、根底的に受動的な次元ですでに還元はなされてしまっているのであり、そのような還元の動機は自然的態度においても、超越論的問題構成のうちにも現れることはない。というのも自然的世界のうちには、それを超克するようなものが現れることはありえないし、超越論的態度は、まさに還元によってのみ可能となるからだ。こうして、還元の真の動機は一度も現出したことのない「無起源」、被ることしかできない〈他者〉の「強迫」という形でしか問題化しえないことが明らかとなる。

小手川 正二郎 『レヴィナスにおける還元の問い 』 より


 そうそう、これこれ、、、『全体性と無限』の文庫本を本屋で立ち読みしていて、外部、他者、多様性、みたいな言葉が並んでいたのでレヴィナスに興味をひかれたのだが、実際読んでみるとひどくとっつき難くて、いまだに苦労しているのだが、たぶんこの人の思想の肝の部分は↑このへんなのだろう。その言葉を待っていた、じゃないけど、久々にテクストを読んでときめいたぞ。
 時間(未知)の体験とは、まさに他者性を強迫的に「被る」ものだ。他者性を恋人のように受け入れること、可能な限り未知の時間に自らを開くこと、これはようするに戦士の倫理である。
 繰り返すが、私が「外部」なんて言い出したのは、内田樹氏を批判しようとしてのことだった。ウチダージュには「外部」への視線がない、と。すくなくとも彼の書いたものにそのような「外部」への裂け目すら見つけることができない。師匠のほうは、「外部」によって<同>すなわち「内部」が問い直されることを倫理だと言っているってのに、この不肖の弟子は、<同>へと自然的態度のように没入しまくりだ。以後、迷惑だから弟子を名乗るのはいい加減やめるように!

Comments

05 2017 « »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
目次

 前衛芸術研究室
 

 セザンヌ講義1@電子書籍

 セザンヌ講義@ニコニコ静画
 おすすめコラム集
 ギャラリー
 シチュアシオニスト文庫
 garage sale
 オンライン読書会
 After the last sky


カテゴリー 累計
全記事一覧
前衛芸術研究室 28
亡霊退治 64
アート・建築・デザイン 29
思想など 144
旅行・タイなど 60
ニュース・時事など 31
フンデルトワッサー 12
中西夏之 3
日記・その他 115
記憶の底から 15
音楽 6
Category: None 22
反芸術研究室 5
最新のコメント
Twitter
タグcloud
アクセスカウンター
   




プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



Archive

RSS