泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  芸術  亡霊退治  

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無冠の帝王

 二十代のはじめ頃、私はアバンギャルド的問題意識の中で、かなりマジ芸術していた (抽象画を描いていた)ことがあった。しかし瞬く間に芸術の枠組みに飽き足らなくなり、絵筆を捨ててしまった。ようするに平井玄氏が言うところの「シュルレアリスムの屍体処理 」の問題に私もぶち当たっていのだ。そんなわけだからシチュアシオニストのこのような言葉に共感したし、いまだにその通りだと思う。


 新たな文化の主要な性格はいかなるものであるべきか。まず何より、旧い芸術と比較して、それはいかなるものであるべきか。

 スペクタクルに抗し、実現されたシチュアシオニスト的文化は全面的な参加へに道を開く。

 保存された芸術に抗し、シチュアシオニスト的文化は、直接的に生きられる時間の組織化である。

 細分化された芸術に抗し、シチュアシオニスト的文化は、利用可能なあらゆるる要素に同時に向けられたグローバルな実践である。それは集合的で、匿名的な生産へと向かってゆく(少なくとも作品が商品のかたちでストックされない以上、この文化は足跡を残そうとする欲求によって支配されることはあるまい)。最小限に見積もっても、この文化の実験は、行動の革命とダイナミックな統一的都市計画――それは地球全体に拡がり、ついで居住可能なすべての惑星にまで拡大されうるだろう――へとその行動を見定めている。

 一方向的な芸術に抗し、シチュアシオニスト的文化は対話の芸術、相互作用の芸術である。今日、芸術家たちは――目に見える一切の文化において――ついに社会から完全に切り離され、また競争によって相互に切り離されるにいたっている。資本主義の袋小路にはまり込む以前に芸術はすでに本質的に一方向的なものになっていた。芸術は、完全なコミュニケーションへと向かって、その原始におけるこの閉じられた時代を乗り越えることになろう。

 万人が上位段階の芸術家になる、すなわち文化の全体的創造における、相互に切り離しえぬ生産者‐消費者となることによって、新しさの直線的な基準は急速に解消されることになろう。いわば万人がシチュアシオニストになることによって、相互に根本的に異なった――しかも、もはや継起的にではなく同時的に異なった――さまざまな傾向の、実験の、「流派」の多次元的な膨張が見られることになろう。

『マニフェスト』 アンテルナシオナル・シチュアシオニスト第4号より)




 新しい文化は、集合的で、匿名的な生産であり、一方向的な、つまり生産者(表現者)と消費者(観客)への分離を解消するものである、とシチュアシオニストは主張する。この表現者と観客への分離こそ「芸術」という制度の虚しさの根源である。美術館が芸術の墓場であるのはもう常識で、アートは街路へと飛び出した! しかしながらそれが芸術の概念を宇宙服のように着込んでいるのなら、結局のところミュージアムという名の霊園に眠っているものと何が違うのだろう。表現者と観客への分離は、生の資本による回収(商品化)へのアタッチメントであり、生々しい生の異物性はこの分離を通じて浄化され、咀嚼される。このような芸術の枠組みを前提としなければ成り立たないアクションは不毛である。
 また、古臭い芸術は、いまだ個人の名前を中心に動いている。才能ある「アーティスト」という資本の用意した冠が、生をせせこましいエゴイスティックな承認の欲望(足跡を残そうとする欲求=成功をめぐる競争)へと誘惑し続けている。これに対しシチュアシオニストは、大胆にも新しい文化の形を、集合的で、匿名的な生産だと言ってのける。ここでも資本は、反システム的な要素を持つ生の異物性を、突出した個人のタレント(才能)性へと解釈し、スペクタキュリーな表現者へと担ぎ上げ、前出の分離を達成、強化するとともに、生の異物性を骨抜きにし浄化してしまう。こうしてわれわれの許から生が遠のき、受動的なスペクタクルの観客というポジションが代わりに与えられる。
 ぶっちゃけ私たちは、もう個人のアートには飽き飽きしているのだ。たとえば、コリン・コバヤシ氏の論考(『新たな状況を構築するアクティヴなアートは可能なのか』 )に登場する数多くのアーティストやグループが、どれほど消費社会や管理社会への批判の視線をもっているにしても、結局のところそれは上述の分離を維持した「アート」に過ぎないじゃないか、と、げんなりしてしまう。(コリン氏の目的は、これらのアーティストを持ち上げることにあるのではないだろうが。)
 私たち新しい文化の生産者が望むものは、「類まれな才能をもつ」「一流の」などという個人の名前につく冠や格付けではない。そうではなく、「芸術」の枠、すなわちこの分離を解消し、生の異物性を噴出させることなのだ。そして人々の生活全体の二項(表現者/観客)への分離へ向けて解釈を行う権力を踏み潰し、無効にしてしまう実践なのだ。

 余談だが、学問(知の生産)の領域でも同じようなことが言えるのではないだろうか。大学で講義する講師と、受動的に講義を消費する学生(高卒の私は大学にはほとんど足を踏み入れたことはないが、、、)。書物を書く思想家と、それを消費する読者。このような一方向的な知の生産をめぐるシステムがあって、反システム的な言説やアクション、すなわち噴出した生の異物性を、資本はアカデミズム内部での個人のタレントとその格付けへと解釈し、浄化している、、、。
 「一流の」大学教授(ビックネームたらんとする欲求)、「一流の」著述家。そんな権力に由来するつまらぬ格付けに私たちは興味がない。人類の未来を見据える新しい文化の生産者はみな、そのようなものさしを踏みつける(システムに安住した人々の誤解にさらされた)無冠の帝王であるべきだろう。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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 生年月日 1964年2月15日
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