泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
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メディアとしての身体 1

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 みんな映画が好きなんだな、と思う。テレビを見てもラジオを聴いても、インターネット上でも、友達と話してても映画の話題花盛りという感じだ。私の職業 はアニメーション製作ということで、一応映像関係者のはしくれである。世界に冠たるジャパニメーションの底辺を支えるひとりであるはずなのだ ……が、私自身は映画はおろか自分が制作に携わったアニメーション作品すらほとんど観ていない。映像にさっぱり関心がないの である。それじゃあどうして映像関係の仕事なんかしてるんだよ、と言いたくもなるだろうが、そこはまあいろんな事情や成り行きがあるのであって、説明する と長くなってしまう。とにかく、自動車工場の期間労働者が、自分が製造に携わった自動車に対して持っている程度の思い入れしか、私は映像に対して関心を 持っていないということなのだ。
 どういうわけだか私は映画にはまらなかった。けっして嫌いだったわけではないのだが………。だから俳優はお ろか映画監督の名前もろくすっぽ知らない。友達と映画の話になっても、私があまりに無知なので話にならないと呆れられてしまった。だが、映画にはまらない というドライな自分の感性は、誇ってもいいのではないかと思っている。
 けっこう有名な(反体制的な)知識人なんかもよく映画を見ていて、評論のようなものを書いてたりする。映画のコンテンツに何か問題を見いだすからそうい うものを書くんだろう。だが、むしろ私は映画のシステムそのものが高度に体制的であると思うし、そのようなコンテンツにひっかかっている知識人を見るとま ずその人のインテリジェンスを疑ってしまう。本当のインテリなら映画なんてものに拘泥していてはダメだよ。淀川長治氏が亡くなる前に「もっと映画を見なさ い。」と言い残したそうだが、私は「もういい加減に映画なんて卒業しろ!」と言いたい。
 だって映画なんかスペクタクル(見せ物)に過ぎないじゃないか………。野球やサッカー、プロレスなんかと同 じで見せ物でしかないのだ。いや、映画は面白い………私もそう思う。しかしそれはプロ・スポーツなんかを見て いて感じる面白さと同質のものだろう。映像芸術なんて言い方をするけど、映画は基本的にアートたりえないと思う。映画はスタートからして商品であり産業で ある。映画の公開をプロレスなんかと同様に「興行」という言い方をしているのはけっして偶然ではない。映画鑑賞だなんて言い方をすると神妙な気持にもなる けど、私たちは代金を支払ってチケットを購入し映画というスペクタクルを消費しているのである。
 そう、映画はスペクタクル商品である。私は映画を商品として、例えばトヨタや日産が作り出す自動車と同じような割り切りかたで見て行くべきだと、とりあ えずは言っておく。そうであるにもかかわらず、映画を芸術や文化として問題にしているところに大きな混乱が生まれる原因があると思うからだ。

 映画はメディアであり、表現の媒体なのだ、したがってそれがアートであるか、エンターテイメントのスペクタクル的な商品であるかは、製作する側の意図に 左右されるわけで、映像即商品ということにはならないだろう………という声が聞こえてきそうだ。
 確かにその通りだ。可能性としてはあらゆる表現メディアがアートたりうるだろう。絵画、彫刻、文学、音楽などと同じ権利で映画が芸術であっておかしくな いし、絵画や文学だってエンターテイメントの商品にもなるのだ。というか、現実には私たちがアートだと思っているもののほとんど、 99.9…%は、商品であると言っていいかもしれない。はっきりいって、私自身が関わってきた絵画だって今現在、芸術や文化として問題にす ることは………残念ながら難しいだろう。
 私たちは資本主義社会に生きているのだ。確かなことは、この社会の中ではすべてが商品だということだ。時間や空間のなかに存在するあらゆるモノが、そし て私たち人間までもが労働力という商品であり、資本によって交換価値として売買されているのだから……。
 そんな条件の中、数少ない芸術が生き延び、輝き続けているのは奇跡であるといっていいかもしれない。映画だってそのような奇跡を起こす可能性は間違いな く持っているはずだ。しかし、それでも私が映画を特に産業としてクールにとらえるべきだと思うのは、その製作コストを考えるからだ。

 映画を作るにはとにかく金がかかる。制作費何百億ドルだかを出資するのは資本であるわけだが、何のためにそんな大金を出資するかといえば、もちろん作っ た映画を公開し制作費以上の興行収入を得るためである。制作費以上の売り上げがなければ赤字、儲けはないことになる。それでは資本は大金をドブに捨てたも 同然である。資本は慈善事業をしているわけではないのであって、製作サイドに求められるのは、「売れる」映画(商品)を作ること、でなければならない。
 製作スタッフはしたがって「売れる」商品を作るために心を砕かなければならない。演出家はそのためにあらゆる方法を使って努力するのだ。人を惹き付ける 面白いストーリーを練り、芸術性や社会性を盛り込んでみたり、ときにはスキャンダラスで前衛的な技法を取り入れるという冒険をも試みる。映画監督は冷徹に 結果を求められる。ヒットすれば良し、売れなければ作った映画がどんなに芸術性が高い革新的な作品であろうとも、業界から消えて行かなければならない運命 にある。
 難しいのは観客の受けを狙った演出が必ずしも計算通りの結果につながるわけではないことだ。あえて観客の希望を裏切り、自分の持ち味を暴力的に押し通し た結果が逆に話題作になってしまう、なんてこともある。まったく、ヒットを飛ばすということは生半可な努力ではなし得ないことなのだ。… …とにかく映画監督は資本が出資した大金を抱えて、プロデュースした人たちとともに「売れる」商品を作るためのプレッシャーを引き受けなけ ればならない。このようなプレッシャーは芸術家が背負うそれとは異質なものだ。むしろ経営者や、プロのスポーツ選手が背負うプレッシャーと同じである。確 かに下っ端の労働者が担っているそれとは重要性や注目度がまるで違うにせよ、映画監督が担っているのは過酷で心身をすり減らす「労働」なのだ。
 
 最近では電子テクノロジーの発達が状況を変えつつあるようにも見える。デジタル技術を駆使すれば、莫大な制作費を使い、何百人もの制作スタッフを動員す ることもなく映像作家のもっているイメージを表現することが可能になる。とりわけコンピューター・グラフィックスの登場は画期的であった。要するに、原理 的にはどのような画面であってもコンピューターで生成できるということだ。
 自宅録音のミュージシャンというのはすでに存在するが、映像もアーティストの孤独な作業で創ることができる日が近いのかもしれない。が、それにしてもそ のためにはどうしてもそれなりの設備投資が必要になってくる。どうしたって資金の問題はついて回るだろう。結局、アーティストが満足するような映像を作り 出すためにはポケットマネーでは不足なのであって、金のあるやつ(資本)が最新の技術を独占しつづけるという構図はそうそう変わりそうにもない。

 たとえば、絵画や文学、あるいは音楽などは、はるかに経済的で安上がりな表現のメディアであると言っていいだろう。絵の具、紙、ペン、楽器などがありさ えすれば、もうそれで表現のための条件はそろったようなものである。アカペラ歌手やパントマイムなどの一人芝居にいたっては、表現のために自分の身体以外 必要はなものはない、とすら言える。
 確かに表現上のイノベーションは、このような安上がりな表現の手続き(メディア)を舞台に行われてきたといっていいだろう。アバンギャルド芸術が主に絵 画と文学の領域で活発に展開されたのは、それらが小回りのきく手軽なメディアであったことが理由として大きい。誰にも受け入れられることのない前衛的な表 現の作品を発表しつづけるためには、不屈の意志や幸運とともに、このメディアの経済性が条件として不可欠であった。セザンヌやゴッホがあのような当時ほと んど売れることのない絵を描きつづけることができたのは、絵画がコンパクトな表現媒体であったため、彼らの表現上の冒険の結果を自分自身だけで引き受ける ことができたからだと思う。孤独な変革者は生活には苦しむものである。セザンヌは金融業者であった父親の遺産を食いつぶすことで、またゴッホは画商である 弟の援助によって生計を立て、絵を描き続けた。それでも彼らは安上がりな絵画というメディアを通じて自分の表現を突き詰めてゆくことができたのだ。これが 映画ののような金のかかる重たいメディアだったら貧困にあえぐ孤独な変革者の自己表現は至難のわざとなったことだろう。

 映画のようなテクノロジーの発展の上に花開いたヘビーなメディアはブルジョワ向けの表現媒体であって、ポップ(民衆的)なものではないということになる かもしれない。実際のところ映画を創っているのは権力である、と言っていい。権力が創り出す映画は自らの社会体制を肯定し美化する。近隣にある某独裁国家 で創られている映画は私たちにとってはお笑いぐさであるが、自由であるはずの私たちの側でも結局のところ映画はその某国においてと全く同じ役割を果たして いる。資本主義的な権力が、私たちの資本主義社会を肯定し、美化しているのだ。『………スペクタクル は、情報やプロパガンダ、広告や娯楽の直接消費といった個々の形式のどれもの下で、この社会に支配的な生の現前的モデルとなる。それは生産と、その必然的 帰結としての消費において、すでになされてしまっている選択を、あらゆる場所で肯定する。スペクタクルとは、その形式も内容も完全に同じように、ともに現 システムの諸条件と目的を完全に正当化するのである。』(『スペクタクルの社会』ギー・ドゥボール)
 近年、国際的な映画祭などの舞台で、日本映画が賞を取ったり、ノミネートを受けたりしている。わがアニメ業界からも宮崎駿や押井守といったカリスマが国 際的に注目を浴びている。彼らは良い仕事をしている………そのことが世界に認められるのは、一業界人として素 直に喜ぶべきことかもしれない。が、私は正直、複雑な気持になってしまう。彼らの仕事が認められたといってもそれは日本の映画が商品として国際的に通用す ることが認められたのであって、日本人が芸術や文化の領域で何かを成し遂げたなどとはゆめゆめ思ってはならない。(アニメやマンガを日本の世界に誇るべき 文化だ、なんてことは悲しくなるから言わないで欲しい。)むしろ情熱を傾けて出来の良い作品を創れば創るほど、いわゆるクリエイターたちは自分でも気づか ないうちに資本主義の論理に隷属し、結果的に彼らの素晴らしい才能は権力に奉仕するという立場に陥ってしまっているのだ。(だいたい映画祭に満ちあふれる ブルジョワ趣味を見よ……蝶ネクタイの映画監督とイブニングドレスの女優……… あの虚飾に満ちたショーのどこにアートを見いだせるのだろう。ようするに映画祭は新作映画の国際見本市なわけで、私たちが問題にしてきた芸術とは全く別世 界の出来事なのだ。)
 カルト宗教教団が映像を信者の洗脳手段として用いていたことがあったが、私たちの社会において映画の果たしている役割を極端に押し進めれば同じ場所に至 りつくだろう。映画は視覚と聴覚を同時に刺激しバーチャルな体験を志向するため、権力が観る者をコントロールする民衆支配のテクノロジーに適している。映 画というメディアが大掛かりで重たいために、この表現媒体は私たちの願うものとはかけ離れた使われ方をしてしまうのである。

 いや、もちろん映画だけではなくあらゆる表現メディアが今日、権力のためのイデオロギー装置と化している。映画だけの問題なのではない… ……美術、文学、音楽、演劇などあらゆる表現手段がスペクタクル装置である…… …というか身の回りにあふれる道具やモノそして社会制度などすべては資本主義体制を肯定しているわけで、映画だけにとやかくケチをつけるの はおかしいじゃないか。あくまでもメディアを使う使い方こそが問題なのだ………と言いたい人もいるだろう。
 いずれ電子テクノロジーの進歩は誰でも気軽に映像を作り出せる時代をもたらすに違いない。そのときこそ映画は本当にポップな表現のための手段になるはず だ。それに、映像でしか表現できないイメージといったものも存在するんじゃないか? 色や形、音や言葉といったバラバラな要素だけでなく、それらすべてが 渾然一体となった総合芸術としての美がイメージとしてある場合、映像という表現手段は自然なものではないだろうか?
 ………確かにそう言われてしまっては、まったくその通りだとしか答えようがないだろう。私たちは近代資本主 義社会に生まれたのだ。どんな時代に生まれた人間でもその時代に利用できる手段を用いて自己表現をおこなってきた。私たちが映像という近代技術によっての み可能になった表現手段を利用するというのは理にかなった行動であるに違いない。
 白状すると私がこんなにも長々と映像表現にケチをつけているのは、そもそも私自身がかつて映像表現を夢見ていたことがあるからである。自分の抱くイメー ジはけっして小さな油絵のカンバスにおさまってしまうものだとは思えなかった。色であり形であり音でもあり、しかも動きでもあるような五感に働きかけるよ うなイメージは、映像でしか表現できない………そう思った。だから映像制作を志す人の気持はよくわかるつもり だ。けっして他人事には思えないのだ……その夢、そしてその表現手段を手にするためにしなければならない努力と忍耐、焦りさ えも………。
 しかし電子テクノロジーが私たちに手軽に納得のゆくかたちで映像を制作する手段を与えてくれるとして、それはいつなのだろうか… ……5年後なのか、10年後なのか、それとも50年先なのか………、だがその日 を待っている間に短い人生は終わってしまうのではないだろうか。あるいは思いもかけない幸運によって映像制作のチャンスが巡ってくるというのだろうか ………。

 それにしても、これほどまで人間が表現のための「メディア」の条件に振り回されなければならないというのはどういうことだろう。人間が内なる多形的なイ メージを外部に表現し、また場所や時間の限界を超えてそれをなるべく多くの人に伝達するために、さまざまな表現媒体を利用しているはずであったにもかかわ らず、逆にメディア(表現媒体)が表現の主体であるアーティストの活動を拘束してしまう。表現の自由どころか、メディアによってアーティストが踊らされて いる。
 このような事態を私は『祭りのあと』というエッセイ(とくに第5節)で分析し たことがある。あのエッセイでは近代美術の制度がいかにアーティストをしばり続けているかという問題が分析の対象だったが、映画のような重たいメディアに はよりあからさまにその問題が現れているのだ。映画を創るクリエイターたち(たとえば映画監督)は、頭のてっぺんからつま先までどっぷりと資本の論理に浸 かっている………というか、先程述べたように「売れる」作品を創らざるを得ないというスタンスは、映像クリエ イターたちをそう仕向けずにはいられないだろう。映画の制作に莫大な金がかかる以上それは宿命なのだ。
 絵画は芸術(祭り)であったことがある。しかし、映画はそのメディア的条件によってはじめから芸術(祭り)であることが難しかったということだ。

 だが、このように映画を含めたあらゆる表現のメディアが逆に表現の主体を拘束するという問題を持っている背景には、「表現」ということに関してひとつの 誤解……というか観念の転倒があるということを「表現」という行為についてもっと深く分析することではっきりさせておかねば ならないと思う。そうすれば、私たちは自己表現のための媒体であったはずのメディアに逆に縛られ踊らされてしまったり、またその結果、支配的な権力に表現 者であるはずのアーティストが、かえってその権力を強化するために利用されてしまう、という事態をさける道筋も見えてくるはずだ。
 タイトルによってすでに結論は予想できると思うが、私は一つの提案をしたいと思っている。それは『表現のためのさまざまなメディア、絵画、彫刻、 文学、音楽、映像などを二次的なメディアと見なし、その基礎である私たち自身の身体を根源的な表現メディアとして再発見すること。そしてメディアとしての 身体に立ち帰った地点から、二次的な諸表現メディアを捉え直す。』という方法をみなさんにお勧めしたい。



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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。


 

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