泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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流転するハイデガー

 最初に言っておく。俺はか~な~りハイデガーを知らない。いや、ほとんど読んだことがない。だから、これはレビューの類ではない。謝る。

 私にとって、最も哲学者らしい哲学者は誰か? と問われると、ハイデガーかな、と思う。二十歳前後の頃、『存在と時間』を初めの数ページ読んだだけでダウンした。本も難しいが、なにより顔がさまざまな哲学者たちのなかで一番難しい顔をしているような気がした。難しいことが良き哲学の条件というわけじゃないが、髭を生やし眼光鋭くこちらを睨みつけている写真が印象的で、まるで猛禽類のように鋭く、どんな真理を見抜いてやるぞという気配を感じたものだ。その猛禽類のような鋭い爪で、うら若きアーレントの乳房を鷲掴みにしていたのかと想像すると、嫉妬に燃える私の股間もなぜか熱くなっ
 、、、ところで、当時(80年代初め)の私の哲学の資料は、高校の倫理社会の教科書だった。ヘーゲルやマルクスにはさっぱり興味がなく、生の哲学や実存主義に憧れを感じていて、キルケゴールやニーチェから始まって、実存主義へと連なる思想の流れについての紹介を何度も読んだ。取りを務めていたのはサルトルで、ハイデガーも実存主義哲学の一人として紹介されていた。ただ、政治性の強いサルトルより、存在の神秘へと錘を降ろしてゆくような雰囲気のハイデガーの方が私の趣味に合っていた。しかし、ハイデガーへの挑戦は、私の未熟さゆえにあえなく挫折してしまったわけだ。

 数年後、別冊宝島の『現代思想入門』が出て、ハイデガーは私の前に「現象学」という括りで新たに姿を現した。ハイデガーのイメージは実存の哲学から現象学という厳密な学へと変化を遂げたのだ。まあ、括りが変わったからといって、理解が進んだというわけではないのだが。
 ただ、実存主義の王様は言うまでもなくサルトルであり、その意味でハイデガーはサルトルの前座にすぎなかったのに、この『現代思想入門』でのサルトルは、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティと並ぶ現象学者の一人として扱われていた。むしろ、その後の現代思想との関係で言えは、デリダやフーコーに影響を与えたハイデガーや構造主義との親和性を持つメルロ=ポンティの哲学のほう」が重要で現代的だというニュアンスがこの本にはあったように思う。そのため私のハイデガーへのリスペクトはその後も続いた。

 今村仁司によるハイデガーの読みは、私にとって決定的だった。ハイデガーの哲学(とりわけ中・後期のそれ)は、制作的理性、近代社会を貫く生産中心主義を根源的に批判する営みだというのである。もうこれも20年前の話なので、恥ずかしながら何冊か読んだ今村さんの本のディテールもすっとんでしまったのだが、ハイデガーの仕事がマルクス主義の資本主義社会への批判と響き合うようなアクチャルなものだということを教えられ、いたく感心したことを覚えている。
 だが、何がマズかったって、今村さんのおかげで、読みもしていないハイデガーをすっかり読んだ気になって、結果的にリスペクトしたままハイデガーから遠ざかってしまったことだ。

 『暴力のオントロギー』という今村さんの本の最後にバタイユ論があって、ハイデガーと同じ問題意識のもとに読み解かれていた。バタイユというと、『エロチシズム』といくつかのポルノ小説しか読んでいなかったのだが(笑)、この小論から視野が広がり、『呪われた部分』や『宗教の理論』など堅い内容のものを読むようになった。しかしご存じのようにバタイユはハイデガーを批判している。正確な表現は調べないとわからないが、「体験の鋭さを持たない」、「ハイデガーの本は酒というより酒の製造法みたいなものだ」という言い方で批判していた。自分のことを哲学者と呼ばれるのを嫌い、聖人または狂人であると称したバタイユらしい言葉であるが、私もバタイユの立場への共感が膨らむにつれ、書斎や研究室がお似合いな「学者」のハイデガーに、狭さを感じるようになっていった。なんということか、、、いまだに読んでいないというのに、リスペクトしてきた哲学にミソがついてしまったのだ。

 去年、レヴィナスの『全体性と無限』を松田優作のごとく「なんじゃこりゃあ~!」と(心の中で)叫びながら読んだ。訳は平明だと思うが、とにかくとっつきにくかった。今では共感できる部分も増え、半分ぐらいは理解できたんじゃないかと思っているのだが、本の中に「近年のハイデガーの哲学は、恥辱に満ちた権力の哲学と化している」という厳しい批判の言葉が書き込まれてあった。ありゃりゃりゃりゃ、、、とうとうかつて私が崇拝した哲学は、読むのも恥ずかしいものとなってしまったということなのか。。。こうなってくると、ナチへの加担だとか、不倫だとか、スキャンダラスな面ばかりが浮かび上がり、あの鋭い目つきと難しい顔は、いやらしいオヤジの顔にすら見えてきてしまったぞ。

 もうたくさんだ、いい加減、他人の読みとかに惑わされずに、ちゃんと生ハイデガーを読めってことなんだろ? ハイハイ、わかりました。そうします! だって、崇拝していた哲学者の本で覚えているのが、『存在と時間』の最初に出てくる、ウーシアがなんだとかいうとこと、矢印(方向指示器)がくるくる動く(らしい)当時の自動車の記述のところだけってのは、さすがにマズイだろう。
 

 追記; バタイユのハイデガー批判の言葉は以下の通り。「私の見る限り公刊されたハイデッガーの作品は、一杯の酒であるよりはむしろ一つの製造法である(製造教程でしかないと言ってもいい)。それはアカデミックな仕事であり、その従属的方法はその成果とぴったり貼りついている。逆に私から見て重要なのは、剥離の瞬間である。私が説くのは(もしそれが真実であるとすれば・・・・・・)、陶酔であって哲学ではない。私は哲学者ではなく聖者、おそらくは狂人なのだ。」
Comments
 
はじめまして。
いきなり迂遠な話で恐縮ですが、「シークレットサンシャイン」という昨年公開の韓国映画があって、筋を掻摘むと子供を誘拐され殺された女が、信仰(キリスト教)に入る事で身も蓋もない出来事を運命として受け入れようとする、その試練として刑務所にいる犯人(男)に面会に行こうとします。(牧師は「人間が聖書のとおりに生きるのは難しいのだ」と反対しますが)ところが男も同時期にキリスト教に帰依しており「自分は既に神と対面し、赦された」と言い出すわけです、それを聞いた女は驚愕し発狂してしまいます、神を否定し身も蓋もない出来事に再び向かい合う為 ...と書くと解釈が過ぎるかもしれません。発狂した女は神/教会に闘いを挑むのですがそのハチャメチャぶりは壮絶で滑稽で気高くさえある、映画は女が精神病院から退院したところで、なんの癒しも救いもないままバッサリ音をたてる様に終わっています。
http://www.cinemart.co.jp/sunshine/

「歴史とは死んだ子供を想う母親のようなものだ」(小林秀雄)は出来すぎですが、わずかな借金のために破滅してしまう男、金持ちだとつまらぬ見栄をはったばかりに息子を殺された女、そうした意味に回収不能な身も蓋もない出来事性、被害と加害の関係の絶対性が超越者の臨在によって消去されると同時に「赦しや和解がたとえ真実だとしてもあなたから切り出すべき話ではない」という最低限の倫理性もすっ飛んでしまう...長い前振りですいませんが、「やっぱイ・チャンドンはスゲエな」と感心して、だいぶ経ってからとデリダの『精神について』を思い出しました、後知恵もいいとこですが。

ハイデガーは後期の所謂『ヒューマニズム書簡』で驚くほど率直に?マルクスやサルトルについて語っていますが、確かにマルクスを非常に高く評価している、ただしそれは『フォイエルバッハ・テーゼ』を頂点とする哲学的転回=「哲学の終わりのはじまり」においてであって、「唯物論は世界を労働の対象=ヒューレと見てその整序化を目的とする形而上学であり、共産主義の本質は技術(テクネー)である」と言い切ってるように所詮はハイデガーが解体を企てた「西洋=形而上学=哲学」の派生物に過ぎないうのがその見立てであって、アジというか確信犯的誤読というか今村さんの「マルクス主義」からマルクスを救出せんとした企ての是非はさておき、ハイデガーの「生産中心主義=テクネー批判」がその思索の当然の帰結としても、むしろ個人的には一番凡庸でつまらない部分だと思っていたのです、ある時期まで。

しかし「生産中心主義批判」という文脈でアウシュビッツとヒロシマをあっさり等置し同一性に還元してしまう暴力性と奇妙な形而上学的身振りこそ「総長演説」の反復であり、そこに露呈しているのはハイデガーの途方もない図々しさではないのか、その後に並置されるのはオートメーション?環境破壊?遺伝子操作?など何でも良いわけで、非人称化された手垢まみれの概念を無際限に飲み込む凡庸さこそ罠ではないかと考えるようになりました。

引用されている『全体性と無限』序文のハイデガー批判の照準は『形而上学入門』に向けられているのでしょう、が、私にはそれを逐一対応させる能力も意欲もなく、言い訳がましく、かつ暴力的に切縮めて言えば同一性に回収された死者には顔がない、それこそレヴィナスにとって到底許しがたいことだったのではないか、 「たとえそれが真実だとしてもあなたから切り出すべき話ではない」という意味においても...長文陳謝
高尾山 登さん 
はじめまして。なんか、ふざけた私のエントリーに読み応えのあるコメント恐縮です。最近レヴィナスやデリダなんかを読みたくて、そのためにはやはりフッサール、ハイデガーあたりを押さえとかなければ、、と思ってのハイデガーなのですが、一方で著作『存在と時間』は「今世紀最大の哲学書」という評判をものにしているのに、一方では本人は非常に評判が悪かったりする。またハイデガーを批判するレヴィナスにはシオニズムの問題があったりで、とにかく生のものに直接あたるしかないようです。いかんせんまだ読んでいないので何をレスしたらいいかわからないのですが、読んで何か思うところがあればまた文章にしたいと思います。ありがとうございました。
 
もとよりご本人が「レヴューではない」と断わっているのを故意に読み飛ばしての乱入狼藉、御寛恕戴けたとしたら望外の幸せです。
で、調子に乗って最後に一点だけ、「評判の悪さ」について、野家啓一さんが「フッサールの『ヨーロッパ的理性』に女子供やロマ(ジプシー)は含まれていないんだ」みたいな事を書いていて、「おおおっ」と思ったのですが(何故「おおおっ」なのかは長くなるので省略)、こういう物言いを嫌う人もいるわけで「歴史的文脈について判断停止しテクストとしてあるがままに読むべきだ」とか。 当然反論もあって「言葉はそれほど透明な伝達手段ではなく、歴史的制約は書き手の側だけにあるわけではない」、私などはその都度「うん、うん」と納得して右往左往しているわけですが、こういうメタの打ち合いというか情報量ゼロの空中戦は糞の役にも立たない(とばかりは言えませんが)というか、野家さんだって「フッサールなんか下らないから読むな」と言ってるわけではないのだし...当たり前ですけど、問題なのは「歴史的所与」ではなくその事象内容なわけで、やるんだったら徹底的にやるしかない、はなはだ唐突ですが「たかがバロウズ本」
http://cruel.org/wsb/burroughs.pdf
私は聖人の御宣託より、ジャンキーで、おかまで、妻殺しの人間の屑がのたうちまわる姿にI'm coming なのでバロウズに興味のない人には唯のゴミである事は予めお詫びしておきます。
 
フッサールやハイデガーには他者の問題が欠けている、といいますからね。で、レヴィナスやデリダにおいてそれが第一の問題としてあらわになってくると。いずれにしろ(あまり本読む時間がとれないのですが)、現象学関係のものを読むのを楽しみにしているところです。

で、バロウズですね。学生の頃はSF小説が好きで、バロウズの『ノヴァ急報』なんかがサンリオSF文庫から出版されてました。読みたかったんですが、難しそうだったんで手に入れることはありませんでした。ただ、いまではSFというよりアメリカのあれは、、、ビートニクっていいましたっけ? そっちのほうでまた別の興味は持っていmす。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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