泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  芸術  

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予示的政治についてのメモ

 これらすべての変容において時間は決定的である。同質的時間は旧い布置、抽象的労働という旧い布置のおそらく最も重要な接着剤であろう。そしてそれは右翼によってと同様、左翼によっても疑問の余地のないものとして受け入れられている。この観点からすれば、革命は(たとえそれが想像されえたとしても)未来においてのみ起こりうるのである。そのようなことはもはやありえない。それまで分離不可能とみなされていた二語の対──「未来の革命」──は、いまや全くのナンセンスとみなされている。未来の革命にはあまりにも遅すぎるのだ。とくにかく、私たちは未来の革命のために計画を練っているその毎日の営みのなかで、自分たちが憎悪する資本主義を作り直し続けているのである。その結果、未来の革命という概念そのものによって革命は自滅してしまう。革命は今ここにあるか、さもなくば、まったくないかである。このことは、1968年の運動が、党がいまこそ正しい時であると判断するまで待ち続けることを拒否したことにも暗示されていた。そしてこのことは1994年1月のサパティスタの蜂起「もうたくさんだ ¡Ya basta!」においてはっきりとした。もうたくさんだ。いまこの場で。「私たちは次回のコンドラチェフの循環の波がやってくるまでもう待たない」。そして「私たちは党が国家権力を奪取するまで待たない」。そうではなく、今。革命は今ここにある
 このことは何を意味するだろうか? それが意味するのはただ、固有なものthe particularから始まる闘争が複数であるということである。そして私たちが作りたいと欲する社会のなかでいますぐにでも生きたいと思う、そのような場spaces、そのような瞬間momentsの創出である。このことが意味するのは、資本主義的なコマンドのシステムのなかの亀裂の創出であり、「もうたくさん。私たちは資本が求めることをもうしない。私たちは自分たちが必要で望ましいと考えることをする」と言えるような、そのような瞬間、そのような場の創出である。

(「1968年と抽象的労働の危機ジョン・ホロウェイ 1968 and the Crisis of Abstract Labour John Holloway」 渋谷 望 訳)




 しかし「もう一つの世界」の「もう一つの私」は不定形でありながら、つねにすでに「この世界」、「この私」のなかに存在し、「この世界」、「この私」に対抗し、それを越え出ようと闘っているのではないだろうか。私たちは誰でも「別な世界」を作りたい、そして「別な生きかた」をしたい、そう欲しているのではないか。
 そうであるなら、別様の生への欲望を肯定することのできる空間、場、契機を取り戻すことができるかどうかが闘争の賭け金となる。別様であることの可能性を予示的にでもかいま見ることができれば、社会変革への潜勢力は解放されるだろう。ホロウェイの主張はこうである。そして彼はこの潜勢力を「為すことの力」──英語ではシンプルにdoing──と呼ぶのである。私たちが資本の世界に対して、そして資本の世界をせっせと作り続ける「この私」に対して、「もうたくさんだ」と否定を突きつけるとき、この潜勢力は解き放たれ爆発する。
 グローバル・ジャスティス・ムーヴメントはしばしば予示的政治pre-figurative politicsと呼ばれている。それはこうした運動は、運動が権力奪取という目的のための手段であることを否定するからである。このとき運動は階層的な権力関係をもつ国家の似姿であることをやめ、水平構造や全員の平等な参加が強調される。運動それ自体が、別様な生きかた、別様の社会関係を内に含み、別様な生きかたや別様な社会関係を予示するのである。ホロウェイの議論はデヴィッド・グレーバーとともに予示的政治の源泉の一つとみなされている。

(渋谷 望 「予示的政治のために─解説にかえて」より)



 柄にもなく、それゆえあえて「革命」なんて言葉を使ったりすることもあるわけですが、べつにそれでロシア革命みたいな、将来起こるはずである社会の転覆を考えたり、そのために行動すべきだと考えているわけではなくて、問題なのは「今」この瞬間の生である、、、と思い続けてきましたが、なるほど「予示的政治」なんて言葉があったのか。。。私にとっては前衛芸術なんかもそういうものでした。すべての前衛芸術はなにがしかの予示的政治を含んでおり、ことにシュルレアリスムにおいては、予示的政治を意図的に追求する姿勢を見せています。さらにシチュアシオニストは明らかに予示的政治の実践者です。前衛であること、誰もいない前線を一人進むことはすなわち予示的であるということです。つまり、たとえひとりぼっちであろうと、それが社会制度のような十全な空間を形作れず、テンポラルなものであろうとも、とにかく今この瞬間に別様な生き方や別様な社会関係を予示することが、私にとっての「前衛」なのです。ま、長いこと「前衛」という言葉とセット販売されてきた「芸術」には、冷ややかな視線を送るようになって久しいのですが、、、
 そういえば予示的政治を生き抜いた偉大なる先達、岡本太郎は「今ないものは明日もない!」とどこかで言ってたなあ。

 てなわけで、ジョン・ホロウェイの関心をかき立てるタイトルの本、『権力を取らずに世界を変える』をアマゾンでポチッとしておいたのですが、本を手にするのは日本に帰ってからのことで、だいぶ先になるでしょう。



Comments
ちょっと見ない間に 
サブタイトルが「シェリー」に変わってるじゃないですか。

Macbookに買い替えてスカイプも使えるようになったから、(ビデオも! )一曲歌って聴かせたいなぁ…。
Mac いいなあ! 
自宅にあるMacが壊れてるので、帰国した暁には仕事用に新しいパソコンを買いたいのですが、金がないからWindowsになりそうな予感が、、、

でも尾崎の歌じゃあ、年がばれちゃいますよ。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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 職業 アニメーション背景制作
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