泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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メディアとしての身体 2

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 前節でもちらりと書いたが、私はかつて油絵を描いていてまわりにも自分は画家だと吹聴していた。別のところでも説明したことだが、その後私は「作品をつくらない」ということを表現上の方法として選択した。まあ、単純に言ってしまえば「絵を描くのをやめた」ということである。いろんな人にそのことを説明せざるを得なかったが、たいがい『どうして(絵を)やめちゃったんだい? クリエイティブで自己表現できるいい仕事じゃないか………(絵で食って行けるようになるまで)続けるべきだよ………。』という反応が返ってくるのである。まるで夢をあきらめてしまったと私を責めているかのように………。巷でよく「夢をあきらめるな!」と言われているのを耳にする。しかし心に思い描いたある職業を目指すことのみが夢の実現なのだろうかと思ってしまうが………まあ、ここではそのことにはつっこまないとして………。
 気になるのは絵を描く(作品をつくる)ことが、あるいは絵を描く(作品をつくる)だけで、それは表現でありクリエイティブなことだ、と一般に考えられていることだ。アーティスト、デザイナー、ミュージシャン、作家、といった職業に就いている人々をクリエイターと呼び、特別視している。そしておそらくクリエイターを他の職業……営業職や事務職、肉体労働などより高級なものだ、と見なしている。………職業に貴賤はなかったはずなのではないのか?………いわゆるクリエイターの一体どこが他の職業と違うのかを少し考えてみたい。

 普通の労働は、やりたくもないことをやり、売りたくもないものを売ることだが、クリエイターは自分のやりたいことをやって食って行ける、好きなことをやって金がもらえる………とそう思っている人も多いだろう。………労働とは欲望を抑え込み、快楽を放棄することだ………雨の日の朝、まだゆっくりと寝ていたい気持にムチを打って寝床から起き上がり、服を着替えて、顔を洗い、歯を磨いて玄関から表へ出る。どんよりと低く垂れ込める空からじょぼじょぼと雨が落ちている。やれやれ、今日も仕事か………ため息をついてあなたは傘を広げてバス停に向かうのだ。………労働とは、うんざりした気持を奮い立たせなければなし得ない苦行である。私たちはみな生きてゆくためにこの苦行に甘んじなければならないのである。
 だが、クリエイターは違う。自己表現という人間の根源的な欲望を満たすことがそのまま彼らの職業だからだ。もっともそれは類いまれなる才能をもった一部の人たちだけが為し得る奇蹟でしかないのだが………ほとんどの人はクリエイターに関してこうした幻想を抱いているのだ。なるほど、欲望を満たし、快楽を得ることがそのまま食ってゆくことにつながるとすれば、こんなに素晴らしいことはない。しかし現実にクリエイターと呼ばれる人たちがそういった夢のような生活をしているかと言えば、100%ノーと答えなければならないだろう。
 前節で映画の製作について述べておいたが、いわゆるクリエイターたちは「商品」を創らざるを得ない。売れるもの、顧客の満足するものを常に意識して制作するのである。もうその段階でそれは純粋に自己表現とはいえなくなってしまうだろう。その他の職業に就いている人だって自らの労働力を「商品」として売るのであって、顧客(雇い主)の満足する「商品」(労働力)であることをを常に意識して働いている。それがうんざりするような自由のない時間であるのなら、クリエイターの制作行為もまた欲望を満足させる快楽ではない。その意味ではクリエイターとてやっていることは本質的には他の職業と同じ「労働」なのである。
 たとえばアニメーション制作に関わる人たちも最近ではクリエイターと呼ばれたりする。笑ってしまうがアニメーションの背景画を描いているこの私もクリエイターだということになるらしい。だが実際に仕事にたずさわってみればすぐわかることだ………この仕事がなんら欲望の満足を、したがって快楽をもたらさない「労働」であることは………。描くべき絵の構想は上(顧客)から与えられる。顧客の要求にあわない絵は描くわけにはいかない………そんなことすればダメ出しをくらってしまう。仮に青い空を真っ赤に塗り込めたい欲求を持ったとして、それを実現したとしたなら当然ながら報酬は発生しない。はたして自分の仕事が商品として通用するのかというプレッシャーと常に戦いながら仕事を進めている。OKが出れば、ほっとして小さな達成感が生まれる。それは自分が役に立った、使いものになった……モノ作りのための歯車としてきちんと機能することができたという喜び……道具的で隷属的な喜びだ。労働時間はむしろ他の職業よりも長いだろう。モノ作り(クリエーション)の美名のもとに超過労働は当然のこととされている。(それともモノ作りの喜びに時の経つのも忘れ夢中になって働いているとでも思うだろうか? いずれ『プロジェクトX』のような体制的な番組で、アニメーションの過酷な製作現場が「クリエイターたちの闘い」として美化され、放映されるなんて日が来るかもしれないが。)クリエイターたちは日曜日を心待ちにしている。数少ない休日だけが、クリエイターを「クリエーション」から解放してくれるからだ。
 おそらくこれがクリエイターの実情である。アニメーション制作やデザイナーだけではない………作曲に煮詰まりレコーディングにコンサートにと多忙を極め「南の島でのんびりしたい」ともらすミュージシャン。ホテルの一室にかんづめにされる小説家………みんなうんざりする労働を日々こなしているのである。唯一、一般の労働と違いがあるとすれば、クリエイターと呼ばれる人たちの仕事は特殊なスキルを必要とする熟練労働だということだ。その特殊性、希少性ゆえに資本に安く買いたたかれずに済む、という可能性を持っている。したがって同じ労働時間に対する報酬が高額になりうる、俗っぽくいえば「金持ち」になれるチャンスは多いかもしれないということが他の職業との違いと言えば違いかもしれない(もちろん実際には成功するのはごく一部の人だけだが………)。
 だがまあこのへんにしておこう。ようするに私が言いたいのは「クリエイター」と呼ばれる人たちの活動も「労働」なのであり、それは特別なことではないし、高級なことでもないということだ。彼らも結局は商品をつくっているのだが、「表現」という言葉によって彼らの仕事は神秘化されてしまっているのだ。それだけでクリエイターとしてある人間の活動の価値を高めてしまう………「表現」という言葉はまさに魔法の呪文のようである。

 しかし一体「表現」するということがなぜそんなに注目されるんだろう?
 ………私たちは産業(資本主義)社会の中で歯車となりシステムの中での役割を全うするだけの生活を強いられている。私もあなたも会社員であったり、公務員であったり、パン屋、床屋、八百屋であったりという社会の中での役割=記号に還元されてしまっていて、人間の全体性を見失ってしまっている。産業社会の中で私たちはひたすら生産の役に立つことを求められる。「役に立つ」「使える」という属性は人間のではなく道具のそれである。役割としての目的的、隷属的な道具連関を抜け出し、無目的、自律的な欲望の噴出があってこそ、私たちは生きる歓び、人間の全体性というものを感じられるのではないだろうか。だからこそ自己表現によって己の全体性を回復したいと願うのかもしれない。
 それは自然な、そして本源的な人間の欲望なのだ。そもそもアバンギャルド(前衛)芸術というのは、産業化する社会の中において人間の全体性を奪回する試みであった。詳しくアバンギャルドのアーティストの生活を知らない人でも心のどこかで彼らの生に、産業社会への道具的な隷属からの脱出の姿を感じているのかもしれない。だからこそ今現在クリエイターと呼ばれる自己表現を生業とする人たちの中に自由や自律的な生き方を投影し、憧憬し、また期待もするのであろう。
 ところが、どうもそうではないらしいということをこれまで述べてきたのである。クリエイターの「表現」もまた「労働」………モノ作りを通じてシステムに貢献し、役立つと言う道具的、隷属的な活動なのだということを。

 さらに、ここにもう一つの問題がある。「表現」ということをよくよく考えてみると、絵とか形、また音や言葉などを用いた作品をつくっていない人たち、つまりクリエイターといわれない人たちは何も「表現」していないのだろうか、という問題だ。朝起きてから寝るまで、私たちは様々な選択を迫られている。何を着ようか、何を食べようか、家に居ようか外に出ようか、大通りを通って駅まで行くべきか裏路地を通ってゆくべきか、偶然見かけた友人に声をかけようかそれともシカトしようか、などなど。この選択行為はそれが凡庸なものであれ突飛なものであれ、その人の表現行為に違いない。街で、会社で、学校であなたが人に出会っておしゃべりすれば当然ながらそれは言語表現なわけだし、たとえ誰とも口をきかず沈黙していたとしても、その沈黙はある人間存在のコンテクストにおいて積極的な意味作用を持つのであり、立派な表現行為となる。家の中に引きこもって誰にも会わず生きている人が最近多いというが、彼らはコミュニケーションをしていないのではない。「引きこもり」という社会的な表現をしているのである。つまり、私たちの人生の一瞬一瞬、これすべて「表現」なのではないかということである。
 自己表現をする人をクリエイターと呼ぶのなら、すべての人間は表現者でありクリエイターである。なのに私たちは絵を描いたり音楽をつくったりする人………すなわち「作品」をつくる人についてのみ「クリエイター」という言葉を使っているのだ。
 実は「表現」に関するこのような問題意識は第一次世界大戦直後にダダイズムによってすでに提出されていた。

 ダダイストたちは芸術表現の本質を「作品」から「アクション」へと還元した。彼らのスキャンダラスな活動は芸術の伝統を徹底的に踏みにじるたぐいのものだったが、それは印象派以降のアバンギャルド芸術の課題を先鋭化したものだといえる。それゆえダダイズムはアバンギャルド芸術の真打ちであったと言えるだろう。ダダ以前のアバンギャルド芸術は作品のコンテンツ(内容)に関して急速な解体/還元をおこなってきた。しかしダダイズムにおいて還元作業の対象になっているのは「作品」のまわりに張り巡らされている芸術に関する「制度」であった。
 たとえばもっとも優美で知的なダダ的アーティスト、マルセル・デュシャンは展覧会場にレディ・メイド(既製品)のオブジェを出品した。『泉』というオブジェは男子用の小便器にサインを入れたものであった。またダ・ヴィンチの『モナ・リザ』の複製にひげを描き込んだ絵『L.H.O.O.Q』など物議をかもす問題作を発表し続けた。
 このようなデュシャンの反芸術的な行為においては作品の内容は問題になっていないのは明白だ。内容的にはデュシャンは既製品にサインやひげを描き込むという最低限のアクションしかしていない。しかしこのパフォーマンスは伝統的な熟練による手仕事としての芸術作品をはるかに越える衝撃的な表現行為となっている。私たちはこのふざけたパロディ作品の前で「表現」とは一体なんだろう、と考え込んでしまうのだ。実際『泉』という名の小便器はニューヨーク・アンデパンダン展の委員によって出品を拒否されてしまうが、展示を拒否した展覧会側はデュシャンのレディ・メイド作品に表現されていた破壊的なメッセージをしっかりと読み取っていたということだ。
 ダダ以降も反芸術活動はモダンアートのメインストリームとなっていて、アクション・ペインティングやハプニング・アートなどの形で現在まで継続している。ハプニング・アートはダダ的な反芸術活動の極限的な形だろう。そこにあるのは「アクション」のみであり、「作品」はモノとしてはもはや存在しないのである。「作品」を展示するという芸術表現の伝統的な制度はまったく問題になっていない。でありながらそれは強烈な「表現」なのである。
 つまりダダイストの反芸術活動が私たちに教えていることは、芸術的な表現は「作品」制作のみによるものではなく、それ以外のアクションもまた同じ権利で「表現」行為なのだ、ということである。しかしこのようにダダイストの試みを理解できているのは一部の知識人だけであって、一般の人たちの持っている芸術のイメージは混乱の極みにある。おそらくは近代以前のの神々しい芸術のあり方と、理解に苦しむ(それゆえ自由で神秘的な印象も与える)アバンギャルドの試み、それにブルジョワ的な商品としての芸術のあり方(これは誰にでもわかる)が奇妙に混合して今日の一般的な芸術のイメージは形作られているんじゃないかと思う。すでに一世紀近くも前にダダイストたちがそのような過去の芸術から断絶した新しい地平を切り開いていたにもかかわらずに………。
 そんなわけで私たちがクリエイターの仕事に与えている特別視の原因は、ひとつには以上のような一般大衆が抱いている混乱した「芸術」のイメージ(幻想)にあると考えて間違いない。………「作品」をつくるクリエイターたちはそれだけで高貴な印象を抱かせる。
 だが、もうひとつのモメント、「商品としての芸術」のあり方のほうが「表現」と言う言葉の理解を混乱させている原因としてはより重要である。


 すべては「表現」なのだ………。私たちの生の一瞬一瞬がアクションであるのなら生そのものが「表現」なのである。………生きるということは「表現」することなのだ。私たちはダダイストから学んだこの命題から再出発することにしよう。
 だとすれば、である。先程述べたようにすべての人は自己表現しているわけで、みんなクリエイターを名乗る権利があるはずではないか。なのになぜ、「作品」をつくる人たちを特別にクリエイター扱いするのだろうか。
 答えを先に言ってしまおう。………「作品」という形をとることで「表現」は商品化できるようになるためだ………ということである。
 資本主義社会が価値とするものは利潤を生み出す生産(労働)である。「作品」という形をとらないたんなる「表現」行為が問題にされないのは、それが商品になっていないからなのだ。商品を制作し、それを売ることで利益(交換価値)をひねり出すことができる。したがって「作品」をつくることは利益を生み出すための生産労働であるが、それ以外の表現行為は商品化されていないため生産とは見なされていない、ということなのだ。
 作品化しない表現行為はエネルギーの非生産的な消費(浪費)と見なされる。資本主義社会はそのような浪費を積極的に評価しない。………そこに「作品」表現の特別扱いの原因があるのだ。

 だいぶ以前のことだが、仕事先で一緒に働いていたおじさんに声をかけられた。「お前、展覧会を開いたんだって? それで絵は売れたのか?」僕は「いや、別に売るつもりで絵を描いてるわけじゃないんですよ。」と答えた。するとおじさんは「何だ、じゃあ道楽みたいなもんか。」と笑った。
 道楽と言われてしまえば、すべての芸術は道楽かもしれない。私は苦笑いをするだけだった。しかしこのやり取りの中に一般の人が芸術表現をどうとらえているかが明確に表れている。売れないもの(商品でないもの)をつくる行為は「道楽」という低い価値評価をされる、ということだ。おそらく私が売れる絵を描いたとすれば、あのおじさんにとって私のやっていることは意味ある活動だと評価されたのだろう。これこそが日常的な資本主義的感性なのだ。

 商品化され交換価値として流通することができてはじめてモノや私たち人間は資本主義社会の中で積極的な価値をまとう。資本主義的価値観の中で私たちは何よりも職業(役割)であり、ある人間を何ができるか(何を生産するか)という視点からのみ理解する。したがって私たちの社会は、ある職業(役割)を全うできる成人が中心的なポジションを占め、そこからはずれる老人や子供は社会の周縁に押しやられるという構造を持つ。老人や子供は賃労働をしない………つまり労働力商品になっていないからである。
 またたとえば家庭の主婦(専業主婦)も明らかに育児や家事という労働をおこなっているにもかかわらず、それによって賃金が発生しないためやはり社会的には軽く見られがちである。主婦による家事労働は商品化していないからだ。
 とはいえ老人、子供、主婦といった存在は、かつての、また未来の労働力商品であり、家庭内での労働力再生産を担うものであって、無価値な存在ではない。しかしたとえば身体障害者、精神病者、浮浪者、といった人たちを資本主義社会はどう理解するのだろうか………と思うわけだが(ついこの間、登校拒否児童のことを「不良品」呼ばわりして問題になった政治家がいたようだが)、なんらかの形で生産にかかわれない存在にネガティブな評価を下すのが資本主義社会の哲学であるのは間違いないのだ。

 資本主義経済があまり深く浸透していない第三世界を訪れたことのある人はわかると思うのだが、働いていない人、暇な人が多い。そのような人を私たちの社会では失業者と呼ぶが、資本主義が浸透していない地域では、働いていない人をそのようなネガティブな視線で見ていない。私が旅をしたアジアについて言えば、タイなどインドシナ半島の仏教国には膨大な数の僧侶がいる。彼らは早朝托鉢に町や村を回る以外、労働らしい労働はしていない。またインドにはこれまた膨大な数の乞食がいて、物乞いで生活している。さらにサドゥというヒンドゥ教の行者も労働せず喜捨やお布施に頼って生活している。それだけではない、これらの国々では休日でもないのに、いい大人たちが真昼間から寝っころがって、近所の人とだべったり賭け事に夢中になっている。私たちの感覚では、働かなくていいのだろうか………と思ってしまう。日本でこんなことをしていたら家族に「遊んでいないで働け!」と怒られてしまうだろうし、自分自身でも居場所がないような不安にとらわれるだろう。これらの国々を貧しいと私たちは見なすかもしれない。しかしそう見えるのは私たちにしみ込んだ資本主義的な価値判断に原因があるのではないだろうか。きっと彼らは彼らの伝統的な社会システムに従ってあたりまえにポジティブに生きているだけだ………働かず何もやっていないという状況は、先進資本主義国に生きる私たちだからこそネガティブなものに見えるのではないか。
 私たちの精神にはこれほどまでに資本主義に特有の勤勉の倫理がしみ込んでいるわけだが、その資本主義的な権力(価値評価)が日常の「表現」の領域にまで入り込み、生産労働の意味を持つ「作品」の制作とそれ以外のたんなるエネルギーの浪費としての表現行為の間に価値評価上の大きなギャップがを生じさせているのである。

 しかし芸術という表現活動とはそもそも一体なんであろう? エジプトのピラミッド、ギリシャの彫刻、ルネッサンスの絵画などの建築や美術………それらは何であり、何のためにつくられたのか? 歌や踊り、文学や詩などは何であり、何のために表現されたのだろうか? それは利益の獲得を狙った生産労働だったのだろうか………いや、芸術は富やエネルギーの非生産的な消費、すなわち「祭り」だったのであり、獲得を目指す労働とは正反対の行為なのではないか。近代社会におけるアバンギャルド芸術の試みも同様に「祭り」の新しい形態だったのではなかったか。
 とすれば、私たちのいわゆるクリエイターたち………「作品」という商品をせっせとつくりだす労働者の「表現」活動はやはり芸術とは正反対の活動ということになるのではなかろうか。一見私たちは過去の輝かしい芸術と同じものをつくり出しているかのように見える。だが、まったく問題はズレてしまっているのではないだろうか。私たちがつくり出さなければならないものはまったく別の何かではないのだろうか? ………それは何だろう。………「祭り」?……… そう、新しい「祭り」をつくり出すこと………私たちが本当の意味でクリエイト(創造)する者であるのなら、商品をではなく新しい「祭り」を創り出すべきではないのか。
 芸術家とかクリエイターという言葉にはどうしても「作品」の制作という観念がまとわりついている。だからいっそのこと私は過去の芸術の精神を受け継ぐ者として、「祭りの戦士」という概念を提案したい。「祭りの戦士」の追究するべき課題をしっかり押さえておけば、前節の終わりに述べた「表現」ということに関する観念の転倒………つまり今まで述べてきた「作品」表現の特別視………という事態も理解しやすくなるし、「メディアとしての身体」という言葉の意味もはっきりしてくるだろう。

   


Comments
 
こんにちは。
タイトルに惹かれ、そして本文をとても興味深く拝読しました。
僕自身はメディアとしての身体をそこまで深く追求して考察した事はないので、文章理解が十分に出来る素地は無いのですが、マラルメやアルトーの芸術論を連想してしまいました。
 
okphexさん、はじめまして。長い文章につきあってくださりありがとうございます。
さて、マラルメについてはよく知らないのですが、シュルレアリストで演劇家であるアルトーに関しては少なからぬ興味を抱いています。私の考えというのは実はシュルレアリスムの思想を一歩進めたものです。したがってアルトーの芸術論と類縁関係にあるのはもっともなのかもしれません。精神病を患っていたというアルトーの生は今もちょっと気になるところです。時間を見つけて彼のことを調べてみようかと思っています。
 
素晴らしいエッセイ、ありがとうございます。
 
わお! こんなこと言われたのはじめてです!
まだいくつか芸術論の構想があります。ゆっくり進めてゆきますので時々見に来てください!

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