泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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Gilさん再び その1

 Gilさんこと和田康さんの『歴史と瞬間』という本を読み返している。これは Gilさんの博士論文に少し手を加えたものだが、明晰でブレのない中級の入門書といった趣の本。読み返してみたくなったのはこの本の最後の部分、現象学とバタイユの時間思想の関係を扱った章が、なにやら気になり出していたからである。フッサールやデリダ、とりわけレヴィナスの時間論とバタイユのそれの交差について書かれているのだが、前読んだときは(難しくて)ほとんど素通りしてしまったこの章が、私自身の関心の変化によって、興味津々なものになっていた。章の終わりには以下のような「注」が付けられている。

 これまでの記述において、私たちはもっぱらバタイユとレヴィナスの思想の共通点を指摘することに多くの記述を割いてきた。しかし、この両者の間には、実のところ決して埋めることのできない距離があることも言っておくべきであろう。言うべきことはあまりにも多いが、ここでは、一点についてのみ指摘しておく。実のところ、レヴィナスはバタイユと異なり、けっして瞬間的な「恍惚=脱自」の経験を肯定的には語っていないのである。たとえば、『存在するとは別の仕方で』の末尾近くには、次のようにある。
 「(…)瞬間のうちで生じる、いまだ不十分な「時間の切断」としての快楽、悪夢と象徴のはざまを駆け抜ける夢にすぎない快楽は、陶酔や麻薬のうちに、別の時間を、「夢遊病状態」を探しもとめる。(…)そこでは、快楽は他者への責任から切り離されており、すでに<愛>は<法>から切り離されている。そこではエロティシズムが泡立っているのだ。しかしこれは偽りの解決にすぎない。この解決もまた<本質=存在すること>とその働きに内属しており、<存在すること>がもつ新たな意味、あるいはより古い意味を見出すことすらないからである。」
 レヴィナスがここでバタイユを念頭においていたか否かは定かではないが、いずれにせよ、この哲学者にとっては、恍惚体験は「他者への責任」を放棄する「偽りの解決」にすぎない。にもかかわらず、現象学的な「受動性=受容性」の彼方に「いかなる受動性よりも受動的な受動性」としての苦しみの<非ー経験>を見出すこの哲学者の思考と、バタイユ的な「限界ー経験」との間には、否定しがたい近親性があるように思われる。すくなくとも、この両者の共通の友人であるブランショは、このふたつの思想が交差しうる可能性を随所で示唆している。


 イスラエル国家擁護によってその評価を落としているレヴィナスだが、個人的にはラディカルなレヴィナスの他者論にずいぶんと痺れている。とはいえいくつか首を傾げたい気になる面もあって、たとえばレヴィナスの芸術論は、私など芸術畑の感性にとっては思わずズッコケてしまうようなものだ。なんでも、芸術は基本的には表象であり、感覚的な享受にすぎず、非倫理的である、と長きにわたってレヴィナスは断罪していたというのだ。レヴィナスがどのような芸術作品を頭に描いてそう言っていたのかは知らない。確かにそういった感覚的な享楽だけの芸術が巷に溢れているのは事実であり、一理あるとはいえるが、なんだかルネッサンス期のフィレンツェでのサヴォナローラによる黒服の改革が目に浮かんで来てしまう。まあ後年、レヴィナスの芸術論の構成は大きく変更されたということらしいが、つまりこの人は、享楽的なもの、彩りや過剰なものを疑いの眼差しで眺めるストイックなメンタリティの持ち主だということなのだろうか。

 ところで上のGilさんの「注」の中の記述でレヴィナスは、脱自の瞬間のラリった陶酔状態は、「他者への責任」を放棄する「偽りの解決」にすぎないとしているが、それではレヴィナスにとって「真の解決」とは何だろう。おそらく、それは「国家」という「正義」の透明な平面において解決される。しかも「国家」という共同体の周縁に出現する「他者」の「顔」により無限に問いただされる「正義」の道程において、、、ということになるだろう。
 そうだよな、と率直に思う。そうあるべきだろう。レヴィナスのこの思考の筋に異論はない。だが、私がレヴィナスの他者論を読んでいると、目の前にはどうしても別の筋道が浮かび上がってきてしまうのだ。

 正義について語っているレヴィナスは、どうも社会の秩序の側に立って、すなわちマジョリティとして(あるいは権力の側から)発言しているように見える。正義を問いただす「他者」の「顔」は、「国家」共同体のマイノリティとして周縁部に出現し、問いただされる側は中心(権力)に近いマジョリティのはずであろう。つまりレヴィナスの語り方は常に「他者」を迎え入れる側のそれなのだ。
 なるほど私たち人間存在はすべてを自己の下で解釈し包摂する権力=<同>である。しかし同時に他者の権力(または国家のようなアノニムな権力)によって解釈され包摂され抑圧を被る弱者でもある。つまり、私は、<他>に問いただされる<同>であるとともに、自分以外の存在や社会を問いただす<他>でもあるということだ。<他>が<同>の解釈から無限に逃れてゆくように、この私は他の存在による解釈なり抑圧なりを乗り越え、逃れようとする無限の渇望を内に抱えてもいる。この世界に誰一人として全く同一の人間など存在しない以上、視点の取り方1つで誰もがマジョリティにもマイノリティにもなり得るし、その両面を同時に抱え持っているはずだ。私がレヴィナスを読んでいて見えて来てしまう筋道もそういうもう一方の面なのだが。
 しかしどうなのだろう。私の知る限りレヴィナスは自らが<他>でありマイノリティであるという側面をあまり問題にしていないように思うのだ。逆に、バタイユのスタンスは社会に対して自らのマイノリティ性を強調し、それに賭けることにあったと思われる。

 Gilさんの引用したレヴィナスの言葉が、バタイユを念頭においたものかわからないにしても、バタイユは、脱自や忘我の体験をひとつの極とする「聖なる」諸価値を肯定していたのは確かだが、たぶんそのような瞬間にいたることを何らかの「解決」と考えていたわけではないだろう。バタイユの本意はあくまでも近代社会において過少に評価されている「聖なる」諸価値を肯定的に復権させることにある。
 その意味でバタイユの脱自の瞬間の強調には、近代批判のモチーフが支配的であり、その批判の矛先は、現在時の諸活動を未来時の目的に従属させる「企て」に向けられている。「企て」の専制こそが、近代社会を「聖性」を失った味気ないものにしている元凶だというのがバタイユの認識であり、「企て」の乗り越えに近代批判の賭け金が仕込まれている。。
 そのためにバタイユは、自らの生を用いて非目的的な瞬間、すなわち「企て」の専制によって近代から排除されている「聖なる」諸要素を、近代社会の中へ可能な限り介入的に挿入しようと試みる。それはとりもなおさず、いまこの瞬間に、私たち自身の生と、私たちの生きている近代社会を面白いものへと彩ろうという情熱に支えられたものだと言える。

 Gilさんによると、バタイユが現象学の超越論的構成の中に見出したものも、この「企て」であった。一方、レヴィナスが現象学的存在論に見出したのは、<他>に対す る<同>の覇権、<他>を掴み取り理解の中に解消してしまう<同>の権力、すなわち全体性の暴力である。レヴィナスにおいては、バタイユのように「企て」=近代批判というモチーフが 取り立てて強調されている気配はなく、そのかわり暴力なき人間関係=他者との倫理的関係の問題が前面に打ち出されている。こうした暴力は、近代に限らず通時的に、共同体のあるところにつきまとうものだからである。
 このように切り込みの角度は違うのは確かだが、「企て」にしろ「全体性」にしろ近代に おいて特に猛威をふるっているものだといえるし、「企て」や<同>の体制から「外部」へと脱出することの不可能性を語る、その語り方から両者の現象学に対 する見立てが重なり合うものであることは明らかだ。

 しかしどうだろう。バタイユとレヴィナスの関係についてはブランショという共通の友人がいたということぐらいしか知らないのだが、レヴィナスは果たしてこのようなバタイユの試みや著作に意義を認めていたのだろうか。。。おそらく認めていなかったのではないだろうか。忘我の境地を極とするような価値を追求し、この現在の瞬間を面白いものに彩るがごときは、結局のところ芸術を非倫理的だと断罪したように、他者への責任から切り離されたエゴイズムだと斬り捨てられてしまったのではないだろうか? どうもそんな気がしてならない。(つづく)
Comments
 
 はじめまして。和田康さんをネット検索している中で、このブログに辿りついた者です。
 私がバタイユを読んでいて思うのは、バタイユは、自分自身が書くことや考えることが、誰にでも適用できるものではないと戒めていたのでは、ということです。
 たとえばバタイユはこう言っています。

「私が書いているものはひとつの呼びかけだ。もっとも狂気じみた、もっとも適切に聾者たちに宛てられた呼びかけだ。私は私の同胞(mes semblables)に(少なくともその何人かに)祈りを差し向けている。この砂漠の人間が発する叫びの空しさ! 諸君の実態たるや、もし諸君が私のように諸君自身の実態を見てしまったら、もはやそのままではいられないはずのものだ。なぜなら(ここで私は地に倒れる)、おお、私に憐みを!私は諸君の実態を見てしまった。」(『内的体験』平凡社ライブラリー、1998、p. 123)(Oeuvres completes, V, p. 63, Paris, Gallimard))

 この箇所でのバタイユは、semblablesに呼びかけながらも、自分とsemblablesとの違いも述べています。 
 このことを考えてみても、araikenさんがおっしゃるように、バタイユは、マイノリティとして語っていると思います。自分自身の述べることが誰にでもあてはまる”べき”ものだと考えていない点も、バタイユの特徴だと思います。

 と、こんなことを記事を読んでいて想い起こしました。

 私自身、レヴィナスがバタイユに言及したかどうかは全然わからないのですが、(あまり耳に入ってこない)、少なくとも、バタイユは「実存主義から経済の優位性へ」(バタイユ著作集『戦争/政治/実存」所収)という論文で、economie generale「普遍経済」の立場から批判していたということだけ覚えています。

 
chihiro さん 
はじめまして、コメントありがとうございます。紹介していただいたテクストはぜひ読みたいと思います。本当は和田さんに書いてもらいたいところですが、今ではそれもかないません。と言うわけで私が代わりに書こうと思ったものの、荷が重くて突っかかったままです。が、紹介していただいたテクストも参考にいつかこの続きを、と思っております。

レヴィナスの読みも全く進んでないのですが、私の印象では、レヴィナスは共同体の中心に近い部分から語っているのに対して、chihiro さんもおっしゃっていたようにバタイユは自らの存在をもってして、マイノリティとして周縁から、どぎつい異形の「顔」を共同体に向けて突きつけようとしていたように見えます。で、レヴィナスはこういう異臭すら漂うどぎつさを受け入れることができない人だったのではないか、と言う気がしてならないのです。「他者」をレヴィナスは、赤子とか寡婦とか、哀れなイメージで語りますが、むしろ「臭い」ものとして「他者」は語られるべきではないかと、、、そんなことをぼんやり考えています。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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