泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  芸術  

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メディアとしての身体 3

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 銀河超特急999号は星野鉄郎少年と謎の美女メーテルを乗せて終着駅へ向かう。しかし終着駅「機械化母星メーテル」で予想もつかない罠が鉄郎を待ち受け ていた。機械の体に憧れ、メーテルに導かれるまま旅を続けてきた鉄郎だったが、旅の途中での経験が鉄郎に人間性の目覚めをもたらし、「機械の体をタダでく れる星」を破壊してしまいたいという新たな野望を心の中に育むにいたっていた。ところが鉄郎は「機械の体をタダでくれる星… …惑星メーテル」に到着するやいなや捕らえられ手術台に乗せられてしまうのだった。………惑星 の中心を支えるネジに鉄郎を改造するというのだ!
 「機械の体をタダでくれる星」とは、ようするに機械化母星を支える生きた部品になるということを意味していた…… …これが『銀河鉄道999』という荒唐無稽な物語のオチである。長く苦しい宇宙の旅を耐えぬき、終着駅に到達することのできるほど意志が強 固な人間を部品にする。機械の帝国は、そのような人柱にされた人間の意志の力を堅固な支配の紐帯とすることで永遠の繁栄を謳歌していたのだ。謎の美女メー テルの仕事は彼女の母親である機械の帝国の女王プロメシュームのために生贄となる人間をスカウトしてくることだった!

 ………映画なんか問題にしていてはダメだなんて言っておきながら、またずいぶん古いアニメ映画を持ち出して きてしまった。今の私の職業から想像できるとは思うが、ご多分に漏れず私も中高生の頃はマンガやアニメに夢中になっていた。当時の未熟な私が気づくはずも なかったが、このSFファンタジーは意外にも意味深な内容を持っていたりする。物語に戻ろう………

 ………ところが、事態は急展開する。実はメーテルは小さなカプセルの中に残存している父親の精神とともに母 プロメシュームの機械帝国の転覆をもくろんでいた。間一髪救い出された鉄郎がカプセル(メーテルの父親)を惑星の中心に投げ込むと、惑星を支え続けてきた 生きた部品たちの強固な紐帯は一挙に緩み、機械化母星は内部から崩壊してしまうのであった。

 制作サイドの意図するところは知らないが、「心を持った生きたネジ(部品)」によって構成/組織された惑星メーテルというのは、明らかに私たち自身がそ の中で日々生きている「産業社会」のアレゴリーである。私たちを飽くことなき生産へと駆り立て、ネジや歯車のような部品として人間をその内部に配備する産 業社会…………そこに生きる私たちはまさしく「心を持った生きたネジ」そのものではないか。な んのことはない、銀河超特急なんてものに乗車するまでもなく、私たちは立派な機械の体を手に入れているのである。
 「機械の体をタダでくれる星」を破壊してしまいたいと語った鉄郎は、宇宙海賊キャプテン・ハーロックやエメラルダスといったアウトサイダーたちと同様、 反システム分子である。彼らは人間性を圧迫する機械帝国を打ち倒し、自律的で人間らしい生き方を奪回しようと闘う「祭りの戦士」である… ……。
 唐突におかしなことを言い出したと思うかもしれないが、あながち冗談ではなかったりするのだ。………芸術表 現を私は「祭り」として理解している。しかし産業社会(近代資本主義社会)において「祭り」は、反システム的な闘争としてしかあり得ないと思うのだ。した がって機械帝国(産業社会)に反抗を企てる星野鉄郎は、前節の終わりで提案しておいた言葉、「祭りの戦士」…… …過去の芸術の精神を受け継ぐ「祭りの戦士」なのである。まずそこのところ、もう少し詳しく見て行こう。


 芸術とは「祭り」である………。
 人間が人間であるのは労働することによってであり、それによって私たちは動物を越える存在になったのである。しかし労働するということは生産のための道 具と化すことであり、自らの欲望の直接的な充足を放棄する苦行でもある。近代化以前の社会には、労働することによって蓄積したエネルギーを解放/享受する 時間がシステム的に組み込まれていた。その代表的な例が祝祭(祭り)である。祭りの時間においては、蓄積されたエネルギーは非生産的な形で消費(浪費)さ れるのであった。労働に捧げられた禁止の体系である日常の、退屈で俗なる時間に対して、祭りの時間は労働のための規制からの解放であり、生命の維持への配 慮をも凌駕する危険と歓喜に満ちた「聖なる」時間である。
 祭りにおける歌や踊り、そこに人間の根源的な表現への欲望を見ることができる。時空に繰り広げられる音、動き、形、そして彩り… ……芸術の起源は祭りの非生産的な消費なのである。
 建築や美術はやや事情が違うようにも思える。なるほどたしかに砂漠にそびえるピラミッドの建設には民衆(奴隷)の労働が必要であっただろうし、ビーナス の彫刻の制作は芸術家や職人の熟練労働を抜きに考えられないだろう。しかし古代社会全体に視点を動かしてみれば、ピラミッドや神殿、寺院と言った建築や美 術は莫大な富やエネルギーを放出せずにはつくられ得ない浪費行為であったに違いない。もちろんそのようなモニュメンタルな建築や美術作品の造営には宗教的 な動機や意味付けがあったはずだ。しかし、いずれにしてもそれらはマンハッタンにそびえる巨大ビル群のような、テナント収入を当て込んだ投資として建造さ れた現代の建築とは根本的に意味が違うものである。
 したがって、原則的に芸術表現とはすべて非生産的な消費(浪費)だといえる。

 ところが、市民革命や産業革命という大きな事件を通して準備された近代資本主義社会の成立が事態を変えてしまった。資本制経済は際限なき利潤の追求をそ の本質とする。従来の身分社会が崩壊し、ブルジョワジーが権力を握るとともに社会システムが産業化へ向けて組織しなおされ、ブルジョワにとって無駄の象徴 であった王権や貴族は急速な没落を余儀なくされた。それとともに民衆の間にもブルジョワ的な勤勉………生産中 心的な価値観が徐々に浸透し内面化しはじめた。
 これは非常にドラスティックな感性の変化であった。近代以前の社会は宗教的な「聖なる」価値を中心にすべてが回っていたのであり、俗なる労働の時間はあ くまで「聖なる」祭りの時間を前提にしてのみ考えられていた。人が労働するのは祭りの「聖なる」瞬間のためだったのだ。
 ところが近代社会だけが歴史上はじめて「聖なる」価値を断罪し、生産に………利潤を生み出すための生 産行為………すなわち労働に対して全面的な価値を付与した。…… …結果、私たちは「祭り」の聖なる価値を喪失してしまった

 私たちはこのような感性のコペルニクス的な転回のあとの時代を生きている。それゆえ芸術表現についての私たち自身の視線も高度にブルジョワ的なものに なってしまっている。勤勉な労働倫理が私たちの内面に浸透するに従って、「祭り」は無駄なものとして、無意味なものとしてしか了解されなくなる。(世界各 地に伝統的な祭りがいまだ残っているが、近代化の進行とともに廃れてゆく運命にあるのは明らかである。)つまり非生産的な消費(浪費)は決定的にネガティ ブな価値評価を下されたということだ。したがって「芸術」に対する視線も私たちの近代社会においては、混乱し、疑惑に満ちたものとならざるを得ない ………なにしろ「芸術」はそもそも「祭り」なのだから。
 私たち近代人の日常的な感性は「芸術」(祭り)を理解できないのである。(ピラミッドを作った情熱を、アジアの、アフリカの、またアメリ カ大陸の各地に点在する古代や中世の神殿や寺院、彫刻、絵画などを創り出した情熱と意味を理解できないのだ。何のためにそんなものをつくり出したのだろう か?………というのが私たち近代人の正直な気持だ。エジプトやマヤ、インカなどの古代建築は宇宙人がつくっ た、なんてバカなことを大真面目に言ってる人たちすらいるほどだ。)私たちは芸術や祭りを虚飾、ないしは装飾としてのみ理解する。今や労働に明け暮れる毎 日の生活を癒す清涼剤、気晴らし、興奮とカタルシスをもたらすエンターテイメント………これが近代社会におけ る芸術(祭り)の役割となってしまったということだ。

 だからこそ当然、近代に入ってからの芸術家の活動の意味合いも変化した。もちろん古代や中世の芸術家たちがどんな精神状況で制作していたのか、私は知ら ない。だから少し想像を働かせるしかないのだが………先程も述べたように古代においても制作活動は労働では あっただろう。だがその制作行為は神へ捧げられた「聖なる」アクションである。彼らがつくり出すのは民族の神をたたえる神殿であり神像であるのであって、 それは獲得を目的とした投資のような「俗なる」生産活動では決してなかった。それゆえ建築家や芸術家の仕事は「聖なるもの」のオーラをまとうのである。 (たとえば時代は下るがヨーロッパのルネッサンス期の芸術家たちは、「神のごとき」ダンテだとか「神聖なる」ミケランジェロなどと呼ばれていたという。) 彼らの仕事は非生産的な消費の祝祭的な価値に直結した「聖なる」技であったのだ。
 だが、新興市民階級(ブジョワジー)が力を増すとともに、芸術家たちの仕事は宗教や王侯貴族などの「聖なる」価値への奉仕から、「俗なる」ブルジョワ的 な価値………利潤の追求への奉仕へと徐々に移り変わって行った。たとえば画家はブルジョワジーの家の中の居間 を飾る心地よい絵を描く職人に堕してしまうのだった。つまり、彼らの「聖なる」技から神聖さが剥奪されて、残されたのは熟練した技を駆使した「労働」のみ となったのだ。芸術家の没落はしたがって王侯貴族や僧侶、そして民衆の伝統的な「祝祭」の衰退と軌を一にしている。それはブルジョワが支配する近代社会に おいての「祭り」の喪失を意味するのだ。


 しかしながら「祭り」を志向する人間の情熱は近代に入ったあとも消滅することはなかった。確かに従来の形態での「祭り」は衰退の運命にある。だがまった く新しい形でそれは近代社会の中に再登場した。私はおおまかに言って2つの「祭り」の形態を近代社会の中に見いだす。一つは共産主義社会を目指す社 会革命の運動であり、いま一つは少数のアウトサイダー的な知識人………哲学者、思想家、そしてアバンギャルド (前衛)の芸術家たちによる孤独で流星のようにはかない生命の燃焼であった
 共産主義革命の目的は資本制社会の廃棄である。絶えざる富の獲得を追求する資本制社会は、労働によって獲得/蓄積した富をすべて生産力の更なる向上を目 的とした投資へとまわしてしまう。この社会においては獲得した富を享受(浪費)する機会は永遠に遅延せざるを得ない。この無限のサイクルを決定的な形でく つがえし、獲得/蓄積された富をすべての人が平等な形で享受するための社会システムを構築することが共産主義革命の目的であった(と私は解釈する)。
 したがってこの社会革命が実現した暁には、私たちが失った「祭り」が復活されるはずであった。だが、ロシアや中国で遂行された社会革命によってつくり出 されたのは、結果的に徹底的に管理された「労働」の社会であった。革命と新社会建設の努力とは、いつの日にか実現するはずの夢のための労働なのであって、 やはり労働の果実を享受(浪費)する機会は無限に遅延してしまうのである。(このへんのことに関しては『タコ部屋の青春』第3節で 詳しく述べている。)
 
 そのような事態の中、失われた「祭り」の聖なる価値を奪回する試みは、意外にも孤独で非力に見える少数のアウトサイダーたちによって担われ続けていた。 たとえばニーチェの孤独、ゴッホの苦悩、ランボーの冒険、そしてアバンギャルド芸術家たちのさまざまな試み…… …。彼らの誤解に満ちた特異な生と、孤独や苦悩によって開かれた傷口から絞り出された言葉や色や形は、近代社会の暗灰色の空に異様な明るさ で輝く「聖なる」星々だった。
 彼らはみな芸術のあり方を追求したのだ。しかしその旅路の結末は一般の理解を寄せ付けないマイノリティとしての、アウトサイダーとしての孤独な人生だっ た。つまり芸術(祭り)の精神を徹底して突き詰めてゆけば、非生産的消費を断罪する資本制社会の規範と対立せざるを得ない。その結果、彼らはいわば秩序を 犯した犯罪者のごとく共同体の秩序の外部に追いやられてしまうのだ。はじめにも述べたことだが、生産と労働にのみ価値を見いだす産業社会、経済成長 やらGDPなどという偽りの指標によって豊かさを測っている非人間的な社会の中で、芸術(祭り)を奪回しようとする存在は、『銀河鉄道999』の星野鉄郎 少年のように反システム的な分子にならざるを得ないのだ。これが、近代社会と近代以前の社会における「聖なるもの」、「祭り」のあり方のドラス ティックな、と言っていいほどの大きな違いである。
 しかし「祭り」の太陽の輝きなくして生とは何であろうか………。私たちの産業社会の空は暗灰色だ。光もなけ れば影もない。アウトサイダーの孤独な運命を進んで受け入れた彼ら反システム分子たちこそが近代社会に太陽の輝きをもたらすのだ。自らの生を実験台とし て、資本制社会の規範に真っ向から対立するという賭けに出ることで、世界に光と影を、そして彩りとドラマを導き入れるのだ。
 しかしこの賭けははっきり言ってほとんど勝ち目のない賭けなのである。「生き延び」をその原理とする資本主義社会における成功とは「いかにより多くの富 を獲得できるか」、そしてそれによって「いかに快適に長く生きられるか」、ということになるだろう。しかし、非生産的消費(浪費)の価値を復権しようと志 すアウトサイダーたちの試みは、資本主義の原理からすると没落への道である。
 実際、彼らの人生は成功には程遠いものだった。ニーチェは二十代半ばですでに将来を嘱望された大学教授であったが、古典文献学という学問の枠に自分を閉 じ込めることができなかった彼は、恩師リッチェルを裏切る形で教授職を辞してしまう。健康上の問題を抱えながら大学からの年金で細々とスイスやイタリアを 漂泊しながら思索を続けた。頭痛や吐き気に苦しみ、分厚いメガネの底に目だけをギラギラさせながら町から町へと放浪を続けたニーチェ… ……。絶望的な孤独の中、彼はイタリアのトリノの路上で発狂し、それから十年後の死に至るまで正気が戻ることはなかった ………。
 華々しく大学教授の座に留まることもできたはずだなのだ。だがニーチェはアウトサイダーへの道を選択した。きっと彼自身の思想が大学教授の座にどっしり と腰を落ち着けていることを許さなかったのだ。「聖なるもの」を求める彼の本能が世俗的な成功を拒否し、(最近流行の言葉でいえば)「負け組」への孤独で 危険な道を選択させたのだ。しかしニーチェの言葉はまさにそのような世俗的な社会の秩序の外部からしか発せられ得ないものだったのだ。私たちが今日、彼の 『ツァラトゥストラ』を手にすることができるのは、ニーチェの没落への自己犠牲的な歩みのおかげである。
 ニーチェだけでなくゴッホをはじめアバンギャルドの芸術家たちはみな、この孤独で危うい没落への道を歩まざるを得なかった。したがって彼らの生は好むと 好まざるとにかかわらず闘いの生となる。その闘いの成果を私たちは今、彼らの作品という形で享受している。私たちが『アビニョンの跳ね橋』や『向日葵』な どの絵を鑑賞する歓びは、彼ら孤独なアウトサイダーたちの傷だらけの闘いによってあがなわれているのである。

 だから彼らは近代社会に新しい「聖性」をもたらす「祭りの戦士」なのである。キャプテン・ハーロックが言ってたように「負けるとわかっていても戦わなけ ればならない」ことを知っていたヒーローたちなのである。だがそれにしても、勝ち負けとは……成功/失敗とは一体なんだろ う? 金持ちになることや権力を得ることのような世俗的な「成功」は「祭りの戦士」にとってどんな意味があるだろう。「祭りの戦士」にとっての成功とは、 世界に「祭り」の太陽を輝かせることなのだ。彼ら少数のアウトサイダーたちが近代の灰色の空に妖しく輝いているとすれば、彼らの「負け組」としての悲劇的 な生はむしろ成功者の証なのではないだろうか。

 
 長くなってしまったが何が言いたいのかというと、アバンギャルドたちの試みとは近代(資本主義)社会に新しい神聖(祭り)を導き入れるものだった、 ということであり、芸術表現はそのための方法だったということである。
 だった、と過去形で述べなければならなかったのは、資本は魔物のように貪欲にすべてを商品化し価値増殖運動のサイクルの中にすべてを飲み込んでゆく ………アウトサイダーたちの孤独な闘いの成果をも飲み込み、砕き、消化してゆくからである。アバンギャルド芸 術作品は高額な商品となり、投機の対象となってしまった。さらに資本は先回りをして芸術家を囲い込みはじめる。芸術大学なんてものができて、芸術家の育成 を援助しようとするプログラムが現れる。クリエイターとなる人材の育成………。そこにあるのはアートは金にな る、という資本の目ざとい洞察だ。芸術家(クリエイター)を反システム分子から商品制作者へと改造するというのが資本の新しい戦略なのだ。
 このような状況において「祭りの戦士」もフォーメーションを変更して、資本の裏をとる新しい戦術を編み出さなければならない。「メディアとしての 身体」という私が提案したキーワードはまさにポスト・アバンギャルドの、「神聖」(祭り)を近代社会に導き入れるための新しい戦略なのである

 星野鉄郎が機械化母星を破壊して『銀河鉄道999』という物語は終わった。だが、私たちの「祭りの戦士」の闘いは、終わりなき物語である。「祭り」の太 陽は闘いにおいて流される血をエネルギー源として輝くからである。常に、そして新たに、新しい戦略でもって私たちは闘いの地へ赴くのである。

   


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荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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