泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 亡霊退治   Tags: 思想  芸術  亡霊退治  

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美大における個性とは何か?

 最近、ipod nanoを買ったので、podcastで日本にいたとき聴いていたラジオの深夜放送なんかを仕事しながら聴いているんだけど、調べてみると『文科系トークラジオLife』なんてのも外国にいながら聴けるんですね(やっぱ「文化」モノでしょ、私が聴くべきは、、、)。というわけで、さっそく、武蔵野美術大学の学園祭でのトークイべント『平凡コンプレックス 美大で個性を考える』という番組をダウンロードしてみる。どこかで名前を聞いたことのある社会学者や評論家、ジャーナリストたちの流麗で軽妙なトークや学生たちの質問なんかを聴いていると、思わず自分が画学生だった頃の苦い焦燥感が甦ってきてしまった(ま、私自身は結局美大には進めなかったわけだが)。

 そうそう、当時の私の方がよっぽど深刻に焦っていたけど、「才能」とか「個性」とか「オリジナリティ」なんてことに異常にこだわって、こじらせてしまったりするのは、今も昔も普通の大学生より美大生なんかに特徴的なことなんろうな、と思う。特にあれこれ考えないで美大に進んだ学生でも、アーティストとしてやってゆくのには、何をおいてもまず「個性」、「オリジナティ」、「新しさ」が、そしてそれらを産み出しうる「才能」とやらが必要だ、みたいな通説はどこからともなく耳に入ってきて、いろいろ頭を悩ませ始めるのことになる。「個性」って?「才能」って何よ? 芸術の領域で価値ある存在である(成功する)ためには、平凡じゃダメだ、人と同じ事をしてたんじゃダメだよ、というわけだ。しかしながらこうした「個性」、「オリジナリティ」、「新しさ」のような言葉は実のところ極めていかがわしい性格を持って社会に流通していることに要注意、だ。

 ところでこのトークイベントでも話題になっていたが、美大あたりに集まってくるのは、いわゆる一般的な大学生に比べて、ちょっと毛色の変わった連中だったりするのだそうだ。一般大学の学生たちには、サラリーマン、OL予備軍みたいなのが多く見受けられるが、それに対して美大生には「とがっていたい」という心根を持った輩が多いとか。私もそうだったが、食っていくこと(就職への配慮)だけを考えるなら美大になんかに進む必要はないのであって、それでもあえて美大へ進学しようと思うのは、当たり前の人生のコースを進むことへの拒否感があるということだろう。スーツを着て、満員電車にゆられ、営業スマイルを浮かべて働く自分がどうしても想像できない。(おそらく美大の中でも、システムの要請に応えることが至上命題であるデザイン科や建築・工芸科よりも、いわゆるファイン・アート(純粋美術)系、特に伝統のしがらみを引きずった日本画科以外の、洋画、彫刻関係の学生にそういう傾向は顕著だろう、、、したがって私がここで問題にしたいのは、とりあえずファインアート系の学生たちである。)つまり、美大生たちの「とがっていたい」という意思の中には、ある種の不服従の感覚が息づいていると考えられる。アーティストはシステムの強制に従う必要のない「自由」を謳歌できる数少ない職業の一つである、、、(実は幻想であるにしても)そういったイメージが学生たちを美大に導いている面は、今だにあるのだろう。

 だが、このトークイべントに参加しているパーソナリティたちの学生たちへのアドバイスはぶっちゃけお粗末極まりない。私はテッキリこういった知識人たちは美大生たちのよき理解者であって、その「トンガリ」に磨きをかけてやるような助言をするものだとばかり思っていたが、実際にはその不服従への意思を懐柔し、システムに回収させるような話をしているではないか。曰く「まず、食っていくことを考えるべきで、その過程でどうしてもこぼれ出てきてしまうものこそが個性である」とか、「少数ながら理解者は必ずいるはずだから、そういった支持者は大事にしていかなければならない」とか、「作品を広めてゆくためには、マーケットにのせることが必要だが、そのためのエージェントがいた方がいいのではないか」などなど、なんだよその処世術!? ぜんぜんダメじゃん、こいつら! このイヴェントは学生が主催したらしいのだが、最悪の面子を揃えてしまったんじゃないの?

 これらのパーソナリティ(美大やデザイン学校で講義を持っている人もいるらしいが)たちが学の権威を傘に、もっともらしく口にしている「個性」「オリジナリティ」「才能」、また「モノづくり」「表現」「美」「クリエイティヴ(創造)」「マーケット」「認められる」などといった言葉たちは、美大生たちの「トンガリ」精神の中に潜む拒否感(政治性)を別方向へと逸らし、アートをひとつの職業として、社会的分業におけるひとつの役割として理解させようと導く概念装置として働いている。つまりアーティストは、その価値をマーケットによって認められる「モノづくり」、すなわち文化商品の専門的生産者なのだという方向へ、そして「トンガリ」の精神を文化生産者としての成功、現行システム内での文化業界におけるスターへの欲望、という方向へと整流するわけである。

 いったい学生たちはパーソナリティたちの(口下手な私には羨ましくて仕方が無いほど)流暢で耳触りの良い処世術的なアドバイスを聞きたかったのだろうか? 「とがっていたい」と言うときの学生たちは、社会(マーケット)に認められるため、アーティスト同士の競争に参加(嫉妬し、歯ぎしりをし、足の引っ張り合いを)し、成功することを夢見ていたのだろうか? 望んでいたのは、「モノづくり」なる食うための仕事をこなしながら、そこにどうしても出てきてしまうであろう「自分らしさ(個性)」を、作品という名の商品に、付加価値として付け加えるようなことだったのだろうか? (これがきっと、このトークイベントのパーソナリティたちの仕事上の信条なんだろうな。)

 もし本当に「トンガリ」の中に潜んでいるのが不服従の意思だとしたら、マーケットへの配慮なんてことにはまるで無関心であっていい(誰しも食っていく必要上、最終的には無関心ではいられないのではあるが)。むしろ問題なのは、私たちのアクション(存在)がすべてマーケットにおいて評価されなければ(値段がつかなければ)価値がないかのようにみなす、システムのあり方(解釈の権力)であり、「トンガリ」とはそのような権力への従属の拒否であろう。 私たちの社会の不安、虚しさ、悲惨の根っこには、そのような権力の絶えざる再生産という事態が潜んでいて、それが個人を競争状態におくことでバラバラに分断するように作動している。そんな中、むしろ「トンガリ」は分断した個人を横につないでいくようなアクションへと向かうものであって、ひょっとするとそれは番組の中でお題目のように唱えられている「モノつくり」ですらないかもしれないのだ(最近ではコンテンツ制作なんて言い方をするが)。その意味でこれはいわゆる「アート」であるのか? という疑問さえも生まれてくる。
 少なくともかつての前衛芸術の流れの中にはブルジョワ社会の規範や道徳意識に対する不服従の精神が貫かれていた。特にシュルレアリスムはシステムの変革への意志をはっきりと打ち出していた。そういった過去のアートの中から、いまも私たちの胸に響いてくるものは、不服従や抵抗の(それゆえ当時はほとんど「認められる」ことのなかった)熱い感覚なのであって、村上隆のような商売人が与えてくれるものとは全く無縁なのだということは言っておかなければならない。
 まずいのは若い学生はともかく、知識人である番組のパーソナリティたちまでがそこんとこを曖昧なままに議論を進めてしまっていることだろう。失笑を買うのを覚悟で書くが、「とがっていたい」の中に潜んでいるものは、人類全体を視野に入れた「自由」への希求である。知識人が云々している「個性」だの「モノづくり」だのは、「とんがっていたい」者にとっては偽りの問題系にすぎない。「個性」など問題にしている事自体が誤りである。トークイベントの中で誰かが「人と違ったあり方(個性)を望むことは、凡庸なことである。」という意味のことを言っていたが、この逆説だけは真実で、だからこそせせこましい「個」の成功のための「モノづくり」を追求することがつまらない、とも言い得るわけだ。過去のアートの歴史の中に、「個性」が眩しくきらめいているのを私たちは見るが、それはその過去のアーティストたちがせまい「個人」の枠を超えて活動したからこそそうなのだ。

 たしかに現在、アートの状況は混乱を極めている、、、というか、学生たちにははっきり言っておくべきだが、アートはすでに死んでいる。かつては「トンガリ」精神たちの戦場であった「アート(芸術)」というフィールドそのものが、資本主義システムによって既に徹底的に噛み砕かれ、そこに新たな生命の生ずることもない焦土と化してしまって久しいこと、そしてそれにもかかわらず、アートの亡霊がゾンビのごとく大手を振って私たちの周りを歩き回っている、このような末期的な事態の中に私たちはいる。市場では私たちが一生働いても手にできないような金が亡霊のために動き、心霊写真のようにメディアに顔を出し、亡霊を実体化させるためにあちこちに幽霊屋敷(美術館)が建てられる。このありさまでは、亡霊たちに惑わされて、今もアートが生きているように錯覚するのもいたし方ないのかもしれない。しかしとりわけ滑稽なのは、芸術大学や美術大学の存在である。草木も生えぬ焦土の上に、美大と言う亡霊再生産のための施設が陽炎のように浮かび上がっている。この不気味な虚像の下に、学生たちは高い授業料を支払って、ノコノコと飛んで火に入るなんとかよろしく迷い込んできてしまった。なんのことはないトークイベントの会場自体が若者を惑わすための呪いの館だったのだ。

 「トンガリ」感覚が少しでもある人なら、まずトークイベントの行われている美大というものの存在自体の滑稽さを問題にすることができるはずだ。例えば、ヨゼフ・ボイスの仕事には正直あまり感じるところがないのだが、彼が来日して東京芸大で学生たちの前で話をしたとき、芸術大学の滑稽さをはっきりと語っている。だがボイスのような透徹した視覚を持っていないわれらの社会学者、評論家先生たちはそのへんを全くスルーして、「美大に来てるだけでみんな個性的だよ」なんて言ってるのだ(武蔵美が番組のスポンサーになってるんで、大人の事情でスルーしました、なんてわけじゃああるまい)。亡霊退治の新たな戦士の師となることなく、亡霊のさらなる生産に手を貸すこと。「モノづくり」なんていう万能のお題目を唱え、美大生に自らと同様、勤勉な文化商品生産者になる道を示し、それを通じでマーケット(市場)万能の現行システムを延命、強化することが、ここに集まったイベント・パーソナリティたちのやっていることだ。

 ホント、こういう亡霊に魂を売ってしまった知識人の口車には絶対乗らないでほしい! まず初めに美大生諸君がやらなければならないのは、怪しげな足元と周囲をよく見つめ直して、「美大における個性とは何か?」なんてのが偽りの問いであることを見ぬくこと。そして亡霊たちの甘言を振り払って、「とんがりたい」精神に磨きをかけることだ。まあ、学校制度そのものが現行体制のイデオロギー装置であるならば、こういう条件は美大生だけに限ったものではないだろう。ただ、(就職率では問題にならない)美大に進む選択の中にはひとつの小さな「賭け」や「闘い」があったはずなのだ。その時の気持ちを失わずに、私たちを惑わす悪霊を祓いのけ(=闘って)「トンガリ」のエッセンスをしっかりと掴んで離さないことが、未来への希望である。



Comments
その通り! 
その通りだよ、kenさん!
(静かに眠りについちゃったんですか…)

あ、宮本さん 
いやあ、眠れるかと思ったんですが、なかなか寝付けなくて。次のサブタイトルは、「伝説の戦士は泥沼の底で不眠に苦しみ続ける」でいきます。
 
じーん。。。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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