泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
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ニートをめぐって

 最近「ニート」という言葉を知りました。「働かない」人のことのようです。詳しいことはわからないのですが、以前かかわったことがある「登校拒否」と同根の問題であることは直感的に理解しました。たまたま、ぽいんつさんという方の記事が目にとまり、ちょっと気になることが書かれていたのでコメントしたのですが、結局私の考えを文字にしてゆくと、まとめても長いものになってしまうので、自分のサイトに考えを述べさせていただきたいと思います。

 ぽいんつさんは、ニートの人たちが働かず、税金すら払わないのに、あれこれ主張するのは許せない………勤労・納税・教育の三大義務を果たさないやつは日本国民である権利がない……… と、彼らの存在に苛立ちを隠せない様子です。私自身は馬車馬のように働いていますし、税金もしっかりと納めていますが、引きこもりがちだという彼らの態度にやや違和感を覚えるものの、ぽいんつさんほど苛立つことはありませんし、他人事だからこそこんなことが言えるのかもしれませんが、むしろ彼らの立場を彼ら自身、面白く活用していけたらいいんじゃないかと思っています。したがって、私の立場は基本的にニートを擁護するものだ、ということになります。

 育ててくれた親だの国だのに恩を返すとかいう意識がないからパラサイトしてられるんだ………とぽいんつさんはおっしゃっています。確かにこれはよく聞くし、わかりやすい言い方なのですが、子供は親に自分を生んでくれ、なんて頼んだわけではない。子供は親の都合で作られるものです。親だって恩返しを期待して子供を育てるわけじゃないと思うのですよ。
 また国への恩返しというのもどうでしょうか? 育ててもらった恩があるし道端で突然襲われたりしないように警察やさんがある程度守ってくれてるんだなと思うからこそ税金も払う………ということなんですが、確かに国は国民を育て、秩序を守ります。ですが、たとえば会社というものが社員のためにあるわけじゃないように、国家もけっして国民のためにそうするのではない、というところは押さえておかねばなりません。
 日本は資本主義国家ですから、利潤の追求という大テーマのために組織されています。国にとって国民は利潤の追求のための資源であり道具です。ですから国民を教育し、労働する身体へと成型します。質のいい産業戦士の育成が教育の役割なのです。
 また、国内の治安が安定せず、混乱が続くようでは経済活動を順調に回転させてゆけなくなってしまいます。警察の役目は経済活動を阻害する混乱を防止することにあります。
 したがって、国民を育てること、治安を守ることなどは、国家の当然の戦略であり、私たち国民を思っておこなわれていることではないわけです。(なるほど、しかしその国家戦略のおかげで日本が経済成長を達成し豊かになったんだ、という考えはあるかもしれません。が、その経済的な豊かさの追求は私たちに同じだけの苦痛もなめさせている、とも言えます。わかりやすい例をあげれば、公害や環境破壊の問題がそれにあたります。)日本だけではなく、どんな凶悪な独裁国家であっても国民を教育し、自らのシステムの維持に役立つように成型するのです。私たちは自分でおさめた税金でもって国家に都合のいい存在へと洗脳されるといっていいかもしれない。
 だから、国に恩を返す、という発想はどうもあやしい。結構そんなこという人がいますが、私には倒錯した考えに思えてなりません。親がよく子供をしばりつけたいときに「恩知らず」なんて言葉を使いますが、これはどう考えても欺瞞なんじゃないでしょうか?
 私たちは生まれてくるとき、親を選ぶことができないように、産み落とされる国も選ぶことはできません。極端な話、もしある国に生まれた以上はその国に恩を感じなければならない、というのであれば、子供を虐待する親元に生まれた子の苦しみは、受け入れなければならない運命だ、と言うのと同じことになってしまう。海を隔てた隣国の国民の姿を見てください。「将軍様のために、首領様のために」と言わされているあの人たち……。「あなたたち、そんな国のために働く必要はないよ! そんな奴のためにボロボロになって生きる必要はないよ!」と言わずにいられるでしょうか。ましてや彼らに向かって「勤労・納税・教育の三大義務を果たさないやつは国民である権利がない」なんて憤るのは、冗談にもなりゃしないでしょう。
 「ああ、そうですか。じゃあ、国民じゃなくで結構です!」といってプイとどこかよその国へ行ってしまえるのならそれでもいい。しかしそれは彼らにはできない相談でしょう。
 もちろん今言ったのはよその国の話です。しかし、私たちの日本が、そのような凶悪な国家でない、と言い切れるでしょうか? 将軍様の国の国民が、自分たちの生活や社会のシステムを疑うことができないように、私たちも自分自身の生活やシステムを疑うチャンネルを持ち合わせていないのかもしれない………。
 はっきりいって、国への恩なんていういかがわしい考えは、まず疑ってかかるべきだと思います。

 こんなことをいうと、私が親や国と随分ドライなかかわり方をしているように思えるかもしれません。でも親や国との関係って、そんな恩の貸し借りみたいなところに基盤をもってるわけではないでしょう? 私たちが、この親の元に、またこの国に、生まれ落ちたのは偶然です。しかし生まれた以上は、自分の生や自分が生きている環境をおもしろく、楽しいものに、生き甲斐を感じるものにするべきだ………。むしろそういう能動的な気持から親や国とつきあってゆくというのが自然じゃないだろうか、と思うのです。

 ですから、ぽいんつさんが親や国への恩返しをしないニートの人たちを「恥知らず」であると言ってのけるその理由は、ないのじゃないかと思うわけです。だとすると、ぽいんつさんがニートの存在にそれほどまでに苛立つ理由に、論理的で明確な根拠が実際のところあるのでしょうか? 他にもニートは嘘つきだからとか、自分で決めた規範すら堂々と守らないとかいう理由を挙げていらっしゃいますが、そういう人は「働いている」人の中にだっていっぱいいるわけですよね。
 ………とすれば、ぽいんつさんのニートへの苛立ちは、ほとんど感情的な反応のようなものでしかない。(ここからは私の想像で書きます。的外れであれば笑ってください。)たぶんそれは、「働かない」=「役に立たない」=「使えない」人間に対する感情的な拒否感………鬱々と部屋に閉じこもり他人と交流もせず無為をむさぼってるような人間が、もう許せないという身体的とすらいえる反応でしかないのではないでしょうか。

 この根拠のない拒否的な感情は、逆にぽいんつさんの身体の中に刻み込まれた内なる規範を浮かび上がらせます。つまり単純にいえば、「人間は働くべきだ」「人間は勤勉であるべきだ」という規範です。このような規範が内面化されているからこそ、「働かない」人を前にして理由もなく激しい苛立ちや拒否感がわき上がってくる。
 確かに人間働かないわけに行かないのは事実です。働かなければ食っていけない。死ぬしかないのですから。しかしその事実は「働くべきだ」という規範とは別の問題です。だって、「働かない」人に対して、働かないのなら死ぬしかないよと、ふふんと笑ってクールに対応することだってできるはずだ。自業自得の、まあ一種の自殺のようなものと考えることもできるわけでしょう。自殺者にそんな激しい苛立ちって感じるでしょうか?
 おそらくは、テキパキと働く社交的な人間がぽいんつさんの心の中でひとつの理想的な人間像としてあるのかもしれない。ときには酒を飲み、羽目をはずし、またときには女性と恋愛を楽しんだりするかもしれないが、基本的には明るくそつなく仕事をこなし、キャリアを積み上げ、積極的に人生を切り開いてゆくような、そしてそのような生き方はまた社会にためにも有益なものであると、そんな人間のあり方が理想だったりするんじゃないでしょうか。そのような人間の集まりであってこそ日本が楽しく豊かな国であると………暮らしてゆくに値する国になるのだとぽいんつさんは思っている。
 であるのにもかかわらず、ニートとは何だ! 働きもせず、税金すらおさめない、暗く、うすぼんやりと無駄に時間をむさぼっているだけの虫ケラではないか!……ってなわけです。
 ようするにニートに対する激しい拒否感は、その存在がぽいんつさんの内面の規範に逆らうものであるから、わき上がってくるということなのです。おそらくぽいんつさんがやっているのは、その根拠なき苛立ちの理由を説明するのに、「親や国に対する恩を返すことをしない」などという実際には存在しない道義的な理由とすり替えてしまっているということです。そしてその結果ニートを「恥知らず」なんていう不道徳な存在にまで貶めてしまっているのです。

 「人間は働くべきだ」「人間は勤勉であるべきだ」という規範というのは、資本主義社会の規範であるということは説明するまでもないでしょう。私たちが長年受けてきた学校教育などによって私たちの身体に刻み込まれてきた、よき産業戦士たるべき規範です。私が言いたいのは、ぽいんつさんがあまりにも無批判に資本主義社会の規範を受け入れ、肯定してしまっておられるのではないかということ、そしてついでに言えば、そのような「勤勉」の規範によってつくられる人間の生が、かならずしも人間的だとは言えないだろう、ということです。
 白状すると、私もぽいんつさんがニートに苛立つ気持はよくわかります。私も当然日本で教育を受けてきてその影響を受けているため、ぽいんつさんと感性を共有していることは間違いないのです。親や学校から植え付けられ、また友人とのつきあいのなかで育まれ、マスコミやさまざまなメディアによって浴びせかけられる「こうあるべきだ」という人間の理想や規範を私も共有しているに違いないのです。偉そうに他人を分析してはいますが、ようするにこれは自己分析なのです。そしてほかならぬニートたち自身も、「勤勉」の規範のプレッシャーにさらされ、まんじりとすることもなく出口なしの状態で苦しんでいるはずだと思うのです。
 教育というものはそれほどまでの力を発揮しているものなのです。極端な話、教育とは洗脳です。先ほど話題にした「将軍様にために……」なんて全国民がいってる国の姿。あれはまさしく教育の成果なのです。私たちは彼らを笑い、また同情するかもしれませんが、日本の教育が実践していることも、彼の地のそれとまったく一緒なのです。

 まとめるとこうなります。資本主義国家にとって国民は生産のための「道具」だと上で述べました。そして私たちもクオリティの高い「道具」であるように育てられてきたのです。だからこそ私たちも「人間は勤勉であるべきだ」という規範をたずさえて日々生きている。その規範こそがニートの存在を感情的に拒絶する原因だ、というのが私の考えです。
 しかし人間は一体「道具」なんてものであっていいのでしょうか。「役に立つ」「使える」………これらの形容詞はみな道具の属性であって、人間のそれではありません。………しかしこれを語り出すと長くなってしまいますので、一言だけ付け加えておきますが、「遊び」や「祭り」みたいなことが楽しいのは、それが無目的で、無駄で、浪費的なものに向かって開かれているからなのではないか、ということです。そしてこれは(もし精神的に追いつめられ、苦しんでいるとしたなら)ニートの人たちにも言いたいのですが、資本主義社会が押し付けてくる「人間は勤勉であるべきだ」という規範を疑うことを知って欲しいということ………というのも、それによって自分たちの落ち込んでいる鬱々たる厳しい状況を、システムへの反抗へのひとつの試みとして解釈してみるなら、ひょっとすると気が楽になるどころか、自分のやむにやまれず追い込まれた状況を革新的な試みとして肯定することができるかもしれないからです。


 長くなってしまいましたが、最後にもうひとつぽいんつさんの文章で気になることがあります。それは、ぽいんつさんの日本という国……すなわち自分が生きている環境とのかかわりかた、とでもいったものについてです。
 私は日本が好きだし日本人であることを誇りに思いたい人間なので、誇れない人がいるのは嫌だ………といっておられるわりには、日本という国が誇れないものになったと実感した瞬間に捨てる………といい、育ててもらった恩があるし道端で突然襲われたりしないように警察やさんがある程度守ってくれてるんだなと思うからこそ税金も払うけど、治安が悪くなったり税金が高くなったりして恩以上のものを出せとか言われたら出て行く………のだそうですが、どうもこれはおかしな文章です。
 育ててくれたり守ってくれた恩に対して税金を払うといった、貸し借りだけのつきあいで、その気になればいつでも捨てられるような国であれば、その国の中にどんなに誇れない奴がいても大して気にもならないんじゃないかと思う。それこそ、そんな国は捨ててよその国でやっていけばいいように思うのです。
 それに、もし、ある国に愛着なり、誇りというものを感じたいのであれば、そういう精神的な価値に見合った分のなんらかのエネルギーの支出、つまりぽいんつさん側から国への(上のほうでもちょっと書きましたが、自分の環境をおもしろくするための)能動的な働きかけがなくてはならないのではないでしょうか。
 いつでも捨てることができるような国に誇りを感じたいってのはおかしな話ですよ。なんだか野球チームの応援みたいじゃないですか。「私は巨人が好きだから応援するが、勝てなくなった時点で巨人を捨てる。いいプレーを見せてくれるから入場料も払うが、プレーがつまらなくなって、入場料に見合わなくなったら他のチームのファンになる」って言ってるのと同じじゃないですか。
 野球ならそれでもいいかもしれませんが、自分が生きる環境との付き合いというのはそんなものなんでしょうか。ぽいんつさんは日本の文化が好きだともおっしゃっていますが、文化というのはただ受け取るものではない。自分も参加してつくってゆくものですよ。つまり私たちは、ある国なり環境なりの観客なのではなくプレーヤーなんだということです。それに野球ファンだって本当のファンは負け続けようが何しようが入場料を払い、声をからして応援を続けるんです。それだけのエネルギーをチームのために支出したからこそ、そのチームが優勝でもしようものなら、自分のことのように喜び、チームを誇りにも思うんですよ。
 ぽいんつさんは恩義にはずいぶんうるさいのに、文化的、精神的な価値という面に関しては、受動的、というか観客的なんじゃないですか。ニートへの批判が、ぽいんつさん自身が生きる日本という環境を少しでも良くしたいというプレーヤーとしての気持から発しているのなら、まだわかる。けれども、いつでも捨てられるような日本という国をスタンドから観客として観ているような態度で、あれこれ批判が繰り出されるのは、どうにも納得がいきません。正直いって、この混乱したぽいんつさんの立場には、ご自身が批判しているニート以上にがあり、自分で決めた規範すら堂々と守れないという態度を感じてしまうのですが………いかがでしょうか。

 長くなってすいません。率直な感想を書きました。無礼はお許しください。

 参考記事

   『NEETなる言説の意図---そこに張り巡らされた微視的権力のいやらしさ』

   『ニートを肯定する』


Comments

urakkoさん、こんにちは。
子育てというのは心身をすり減らす重労働ですよ。経済学ではこれを労働力の再生産労働なんていうんだけど、そういう労働を社会は子供の親におしつけてるんだよね。子育てもできないのは親として失格みたいなプレッシャーをかけて。引きこもりもそうなんだけど。いろいろとそういうプレッシャーが事件や問題を生み出してるんだと思うんだ。最近少子化なんていうけど、当然そうなってゆくよね。子供がいなけりゃそんなプレッシャー受けなくて済むから。
失敗してもあたりまえだし、ダメでもいいじゃん……ぐらいになるべきなのかもしれません。
今年も宜しくお願いします。
ニートや引きこもりは根が深いです。
しかも、その深さは「時間」であり、3代前以上だったりします。
虐待児に関してもそういうのがあり、
彼らも被害者だし、親もまた被害者で
どこにも加害者が居ないんです。
被害者が、そうとは知らずに子に害を加えるケースやら
良かれと思ってやった事が害につながったり。
失敗してもあたりまえ。
そんな子育てが出来たらっておもいます。
ぽいんつ氏のNEET論は「痛い」ですね。しかし、私はaraikenさんほど、ぽいんつ氏に関して何かをかたろうとはしません。私のBLOGにも書きましたが、バカがいなくなってしまえば、せっかく手に入れた「労働をしない人生」が脅かされるからです。せっかくaraikenさんもこのNEETをめぐる裏側を冷徹なまでに見抜いているのですから、バカに対して啓蒙活動するのは、自分の首を絞めていることであることに早くお気づきになっていただければ幸いに存じます。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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