泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 亡霊退治   Tags: 思想  芸術  亡霊退治  

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スーパーフラット

 恥ずかしながら村上隆という名前を知ったのはつい最近のことだ。それほど美術シーンへの興味が薄れてしまったってことだが、まあそれは僕自身のプログラムでもあるのでよしとする。ちょっと調べてみると、この村上さんという人が活動的かつ芸達者で、ビジネスの才能を持った頭のいい人だということはよくわかった。日本というものを意識した戦略的なコンセプトで作られた作品が、びっくりするような額で海外に売れている、というのは大したものだと思うし、少々痛快でもある。



 だが村上隆にとってのアートとはあからさまに商品であり、そのスーパーフラットなる戦略とは美術市場における海外の美術との差異化によるマーケティングの戦略である。ここまで臆面も無く「売る」ということを目的にするアーティストというと、小室哲哉とかつんくみたいな音楽プロデューサーなんかを彷彿とさせるが、映像や音楽など高度に商業化されているメディアならともかく、日本画出身のファインアートの領域でこうした戦略を取っているところが珍しい(たいていの美術家においては、「美の追求」みたいなテーマの背後に金の問題は退いている)。とはいえ村上隆の語っていることを聞くと、個人的な成功や金銭欲によってではなく、伝統的な美術教育への批判や、日本文化の世界への発信(日本美術の地位の向上)というシリアスな動機が彼の旺盛な活動を支えているらしいことがわかる。

 しかし問題はその── 「文化」の発信──について、である。ここで言われている、文化の発信は、いわゆる文化的コンテンツを売ることだ、と理解して間違いないだろう。逆に言うと売れなければ文化は発信されたことにはならない。確かにマーケットに乗らなければ作品もアーティストの名前も、誰にも知られることはないわけだし、「売れる」ということは実に分かりやすい承認の方法だといえる。たとえば資本主義社会においては、ほとんどの人が自らの労働力を「商品」として、マーケット(市場)が評価したそれぞれの価格で売らなければ生きて行けない。「命がけの跳躍」を果たし、値段がついて初めてその人は社会に(一人前だと)承認される、という面があり、またその価格の高低によって社会がその人間に対してどのような評価を与えているかがわかる、というわけだ。、、、しかし「文化」を単にそうした売り物(値札の付いたコンテンツ)の集積として理解することに僕はずっと拒否感を持ってきた。

 ところでいつから芸術作品をコンテンツなんていう経済やマーケティングの用語で呼ぶようになったのか? なるほどセザンヌやゴッホの絵画もコンテンツに違いない(しかも高額の)。彼ら、19世紀末のコンテンツ制作者が創り出した独創的なコンテンツは不幸にも彼らの生前には正当に評価されなかったが、後年その価値が認められるに至った、と。またそのノリで言えば、アヴァンギャルド(前衛芸術家)はさしずめ、独創的でとんがった、魅力的な商品を生産し続けてきたコンテンツ産業のイノベーターといったところになるんだろう。

 しかし僕が前衛芸術家たちに見てきたものであり、今も胸を打たれるのは、自らの創りだした作品が売れようと売れまいと、自らの美意識なり欲望なりにブレることなく忠実であり続けたことだ。いや、むしろ市場で値段がつかなければ(売れなければ)価値がない、という(資本主義的権力の)一元的な評価軸に対して抵抗し、意義を唱え続けてきたのが前衛芸術の歴史ではなかったのか? 前衛芸術が現在高価なコンテンツになって流通しているということが意味しているのは、それがすでに資本によって咀嚼され回収されてしまっている、という事実でしかないことを知るべきである。何億円だかで取引される芸術作品に僕らが見ているのは、前衛たちの闘いの悲痛で惨めな残骸でしかない。

 そんなこと言っても僕らはこの社会において食っていかなければならない。だからこそ人は作品を、また大部分の人は自らの労働力を売らなければならない。その通りである。かといってそのような価格の高低が人間の評価を決めてしまうわけではないし、価格がつかない人はその活動や存在そのものが無価値である、なんてことはありえない。、、、ありえないはずだが、とにかくそのような評価軸は支配的なものとして、いま現実に僕らの生きている社会を貫いているのである。

 そのことに対して僕らは憤りを覚えてきたわけだし、現代の前衛は支配的価値とは別の(オルタナティヴな)評価軸を、この社会の中において体現して生きるべきだと考えてきた。「文化」と称されるものは、このような抵抗の生そのものなのであって、コンテンツの集積のようなことと混同されてはならない。日本の「文化」を世界に発信したいというのであれば、コンテンツを「売り」、市場に流通させることによってではなく、資本主義権力に対する抵抗を日本に充満させることを考えるべきだろう。別の言い方をすると、市場という土俵(最近はプラットフォームなんて言うんだよな)の上で勝負して勝つことが「文化」の価値を高めるのではなくて、勝負の行われている土俵そのものに疑義を呈し揺さぶりをかけることを問題にしなければならない。つまり資本が押し付けてきている市場の一元的な評価軸を脱構築する前衛の実践をこそ「文化」の名で呼ばなければならないということだ。

そのような抵抗が結果的に何らかのコンテンツに結晶することはあり得るだろうが、市場を意識したコンテンツの制作そのものは目的ではない。それどころかシチュアシオニストの実践のように、コンテンツ的には「無」であることを積極的に選択することだってありうるだろう。シチュアシオニストの教えの一つは、「文化」をになう前衛であるためには、売るべきモノ(コンテンツ)などなくったっていっこうに構わない、ということだ。コンテンツが何らかの表現の媒体であるにしても、それ以前に僕らの身体そのものだって立派な表現であり表現のメディアなのだから。

 経済の中心が世界的に製造業から情報産業へとシフトしてゆく中、国策として(アニメなど)日本の文化コンテンツを世界に売り込み、クリエーターを養成してゆこうという取り組みがあり、また地方自治体なども自ら文化都市を名乗って、文化の発信地にしたいという思惑が生まれてきている。それは資本の要請を受けての行政権力の事業である(行政が目標とするところはまさに村上隆がやってきたことだろう)。そこでいわれている、産業としての、商品としての「文化」というのは、抵抗としてシステムの外部を指し示してきた「文化」を脱臭することで脱構築の実践を撹乱し、システムが僕らをより深く眠り込ませ、システム自身を再生産させるために観させる「夢」、すなわち「スペクタクル」のことである。アートは現代におけるスペクタクルの典型であるが、僕はいままでそのようなスペクタクル化したアーティストを「亡霊」と呼んできた。
 
 言うまでもなく村上隆は典型的な「亡霊」である。書いてきたとおり彼の「日本文化の発信」という使命はニセの課題である(それに接続した日本の美術教育の批判もしかり)。しかも彼には才能があり、作品も実によく出来ている。そしてよくできたスペクタクルは危険である。フランシス・ベーコンの場合もそうだったが、まんまと釣られた批評家が意味ありげな批評言語を弄して彼らの仕事を持ち上げ、スペクタクルを絢爛と加速させる(批評としてはこちらのがまとも。というかこれは東浩紀批判か。)。それは、あたかもここに注目すべき「文化」が、21世紀の新しい「祝祭」が生まれているかのように錯覚させるのだ。なるほど若手に表現の場を与え育成する彼の努力は、村上個人の成功を超えた評価すべき活動のように見える、が、それはスペクタクルの発信でしかないところが口惜しい(亡霊の手から若者を救い出せ!)。

 繰返すが、村上隆は「亡霊」である。しかし彼の新しさは「亡霊」の外観をほとんど剥ぎとってしまっているところにある。過去の「亡霊」は少なくとも経済を超えたアートの独自の意義みたいなものを信じて(あるいは信じるふりをして)いたはずだ。村上はそうしたウェットで古風なアートの外観を事実上ほとんど捨て去り、あっけらかんとコンテンツ産業の論理を自らの活動において剥き出しにしてしまった。そのそしてはぎ取られたアート外観の奥には「資本」の骨格が透けて見えている。アヴァンギャルドたちが闘いの標的としてきたものを、「亡霊」たちはその骨格としているのが常である。そうだ、村上隆は冷たい腐肉を剥ぎとった骸骨、ホラーマンである(アズマンという盟友がいるらしい)。しかしどうだろう、このホラーマンの創りだす吹っ切れたコンテンツの前では、古き「亡霊」たちのウェットなコンテンツや活動が色褪せて見えてしまう。おそらくアントレプレナー(骸骨)的なカラッとした外観こそが今の時代にマッチし、人々に受けているんだろう。

ホラーマン

 結論。そう、村上は新しい! 死神のごとく、スーパーフラットという巨大な鎌を振り回し、ドルの札束を刈り取るホラーマン、ポストモダンにおける「亡霊」の進化形、それが村上隆である。
 


Comments
 
読ませていただきましたが、あまり面白くなかったです。
 
わざわざご報告ありがとうございます。またよろしくお願いします。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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