泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
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「アートという罠」の構造(書きかけ)

 かつて渋谷系のおしゃれな歌を歌っていた小沢健二がアンチ・キャピタルな人になり「アートの罠」なんてことを口にするようになっているなんて、どういう経緯によるのか謎である。やはり育ちの良さがなせる技なんだろうか? が、兎にも角にも彼が言っている通り「アート」は罠なのである。

 システムへの叛乱を、市場を流通する商品へと横滑りさせる懐柔装置、それが「アート(芸術)」という罠の働きである。シチュアシオニストはこの「アート(芸術)」の土俵を踏み越え、場外乱闘に向かう一方、背後にした土俵上にとどまるファイト(戦後の前衛芸術の潮流)を冷ややかな目で批判しつづけた。すなわちシチュアシオニストにとってスペクタクル社会への叛乱の実践は、同時に「アート(芸術)」の脱構築の一面を不可分に持っていたといえる。、、、ということをこないだ書いたわけだが、シチュアシオニストが脱構築しようとしていた「アート(芸術)」がどのような構造を持つものであるのか、もう少し詳しく分析しておきたい。

 生とは、承認を求める否定する否定性だ、とある人は言ったわけたが、その意味で生とはコミュニケートすることにほかならない。であれば表現行為は万人によって行われるものだし、生(時間)そのものが表現である。ところで「アート(芸術)」とは、そうした生の全体性にひとつの裂け目(分割)を入れることで成り立っている。

 すなわち「アート(芸術)」は生を、「描く・表現する」という特殊な時間と、日常的な時間の二項へと分割することで成り立ち、前者に高い価値を置くものである。
 ハンス・ハーケのインスタレーションのように美術館や画廊を舞台にした作品による表現であればまだし も、ストリートに飛び出しての表現、さらにアクティヴィストのハプニングやパフォーマティヴな表現になってくると、それはもう「アート」と して括ることには無理があるような気もする。しかしそれらのアクションも日常性から隔てられたフィクショナルな時空を組織しているなら「アート」として考えるべきで ある。たとえば、路上であるハプニングが起こされたとして、そのハプニングが始まる以前の時間、終わった後の時間というものがあり、それがハプニングを演 じている特殊な時間に比べて、緊張感のない日常(飯を食ったり、コンビニで買物をしたり、彼女とセックスしたり、という日常)だというのなら、ハプニングにはホンチャンの価値が与えられているわけで、上で述べた「芸術(アート)」の構造をしっかりと満たしてい る。
 すぐ気がつくかもしれないが、この二項対立は、労働と余暇(前者に高い価値を置く)への分割という資本の下での生の組織のされ方と相似している。そしてその相似が、「叛乱」の「労働(コンテンツ生産)」への横滑りがスムーズであることの秘密である。
 例えば先鋭かつ反抗的な表現で注目を浴び た若手アーティストが、徐々に刺を失った大家へと変貌してゆくいたたまれない事態を僕らは何度も眼にしているが、この事態は「叛乱」を「労働」へと解釈する磁場としての「アート(芸術)」という装置(分割)が作動していることによって可能になっている。また逆に、村上隆がやってるようなコンテンツ製造業者の仕事を基準にして、遡行的に過去の前衛芸術の持つ叛乱的意義を、コンテンツの商品価値へとずらして解釈することを可能にするのも「アート(芸術)」という概念による生の分割である。そのときデュシャンの知性も、シュルレアリスムの擾乱も高付加価値商品商品として、また投機の対象としてのみ意義を見出されることになる。
 つまり「アート(芸術)」という懐柔装置は「叛乱」を「労働」や「労働生産物」へと解釈する磁場であり、その二項対立的構造こそが「アート(芸術)」という懐柔装置の蝶番、否定的(叛乱的、体制転覆的)な契機を持った活動を、資本の増殖のための労働へとスムーズに横滑りさせるアタッチメントとなっているのだ。
 
 そしてこの労働/余暇という二項対立とその価値の優劣が、そのまま生産/消費という二項対立tと前者の優位につながっているように、アートにおける表現/日常の二項対立は、クリエーター/オーディエンスという二項対立と前者の優位、すなわちコミュニケーションの一方向性の問題につながっている。
 生が承認を求める否定性であるなら、表現活動は万人によって行われてしかるべきであるであるにもかかわらず、「アート」という括りには表現の一方向性、すなわち一方に少数の表現の発信者(情報の生産者)がいて、他方に観客としての大衆(情報の消費者)が存在するという構図がつきまとう。上述の通り前者はもっぱら表現活動の職業的な専門家(労働者)として資本主義の秩序に隷属する。後者は消費という受動的な地位に陥り表現活動から疎外される。したがって結果的にはクリエーター/オーディエンスという二項対立の両項とも否定性(コミュニケーション)から疎外され、生産活動としてシステムの流通のサイクルに内閉されることになる。シチュアシオニストによれば「非ー介入」こそスペクタクルの本質であったが、「アート(芸術)」の創りだす分割が否定的(叛乱的)な介入を、「非ー介入」=無害なシステムの肯定へとすり替えつつ引きずり込んでいるのである。これがアートの罠の構造である。

 シチュアシオニストは一方で「アート(芸術)」を批判し、脱構築しようとしていたわけだが、こうしてみてくるともう一方のアクティヴィズム(政治)的側面、すなわち『統一的都市計画(都市計画の批判)』に至りつく日常生活批判と状況への介入の実践も、まったく同様のスペクタクル批判から導かれていることがよくわかると思う。
 シチュアシオニストの日常生活批判は、生の労働/余暇(前者に高い価値を置く)への分割と、特に余暇が全面的にスペクタクル化し、大衆がそのスペクタクルの受動的な消費者になってしまっていることを批判しているという意味で、「アート(芸術)」の批判(脱構築)の別の一側面に過ぎないと言える。
 間違いなく言えることは、「アート(芸術)」の脱構築は、状況の構築という日常生活への介入の実践によってこそ成就されるものであり、逆にスペクタクル化した資本主義への抵抗は、「アート(芸術)」の脱構築というモメントを必然的に含むものであろうということだ。

 アートの罠(あるいは磁場、土俵、枠などとも表現してきた)の構造を浮き彫りにし、脱構築するためにシチュアシオニストは芸術作品の制作からあえて距離をとり続けた。このようなタイプの運動は空前絶後であるといえるが、仔細に検討すればシチュアシオニスト的な「アート(芸術)」の脱構築の例は色々と見つけることが出来るだろう。「私はもはやアートの世界に属さない」と言明するときのヨゼフ・ボイスもおそらく「アート(芸術)」の脱構築を考えていたと想像することができる。また『曼荼羅頌』というエッセイでフランスの戦後の前衛美術の潮流を批判している岡本太郎の中にも「アート(芸術)」の脱構築の問題意識が強烈に息づいていたことは間違いがない。(つづく、かもしれない)


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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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