泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 亡霊退治   Tags: 思想  芸術  亡霊退治  

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村上隆の亡霊実践論

 とはいえ、今日の文化生産において主要なイデオロギーは、いまだに大作家主義(auteurisn)である。アート、建築、映画、ファッション、その他において、数人のビッグネームの周りに市場が形成されている。ファッション雑誌のグラビアに顕著なように、いわゆる文化的ヒーローはハリウッド・スターに類似したステータスを獲得した。彼らの作品=生産物の価格は上昇する一方である。このエリート主義的生産において主要な技能は、弁護士的「交渉能力」とビジネスマン的「商才」とロマン主義的な天才の「命令」である,この主体はほとんど専制主義としか言いようがない階層序列を形成し、幾多の技術者=労働者の頂点に立っている。このことは工房内に隠蔽された多くの有名建築家アーティストと彼らのアシスタントたちの陰惨な関係に明らかである。この実践は文化の名において特化されてはいるものの、紛うことなき一産業であり、それは疎外された様々な技術=労働に依っている。だがこの事実に関しては「社会科学的特殊問題」とされ「芸術言説」の議論に取り上げられることはほとんどない。  (『アートとアクティヴィズムのあいだ───あるいは新しい抵抗運動の領野について 』高祖岩三郎)


 まさに村上隆氏はこの大作家主義を体現する人物である。彼には『芸術起業論』という著作があって、この手の人がどんな考えを持って創作しているのか興味がないわけではないのだが、僕は正直読む気になれない。が、ありがたいことにネット上にこんないい機会を用意してくれている。まあとにかくこの無残な講義を見て欲しいと思う。



 アメリカで活動し、自己申告によると現代美術の世界ランクで10から20位の間に位置するというビッグネームである村上隆氏は、日本というドメスティックなアートシーンにおいて批評家などから「イカサマ」だとか「搾取」呼ばわりされ、叩かれていることが納得できず、そのような批判が生ずる根底には、日本人が現代美術のワールドスタンダードを知らないこと、そして、「芸術=貧」であるという先入観が(特に日本の)社会に深く根づいていることがある、と分析している。そもそも最新の芸術の制作にはカネがかかるものであるにもかかわらず、世間に蔓延するこの「芸術=貧」という定式が、作品が高額で売れることや、アーティストが富むことに対して不審感を抱かせているのだと。

 なるほど「貧」こそが芸術の正義であるという神話は、「狂気」が芸術性と深く関わっているというもうひとつの神話とともに世間に流布しているのは事実だろう。しかしなぜ、このような「芸術=貧」という癒着(富むことへの罪悪感)が生じたのか、村上氏自身は「わからない」と首を傾げているのだが、このへんにこの人の薄っぺらさが見え隠れしている。むしろ「芸術=貧」という神話が生まれたことにはれっきとした理由があるのだが、どうも村上氏にはそこんとこが見えていないのである。つまり人間の否定性や反抗的な情熱というものへの無関心が村上氏にはあって、アーティストとしてというより、人間として無残なのである。

 村上氏も述べているとおり、かつての芸術家は、王侯貴族などに奉仕する職能人であったが、近代の到来は彼らを支配階級による全人格的な隷属から解放することになった。、、、と同時に芸術家たちは一つの問題に直面することになる。つまり「芸術家は何を、誰のために描くのか?」という、いわば芸術の倫理問題への回答を迫られることになったのだ。結局、芸術家たちは個々にこの問いに応えるさまざまなアプローチを提示することになり、伝統的、固定的な芸術の様式は粉砕され、前衛芸術という目まぐるしい解体運動が近代のアートシーンを席巻するに至るのである。
 が、この芸術家に突きつけられた倫理問題は、同時に経済問題でもある。「何を描くのか?」という問いとともに「誰にどのような芸術を売って食って行けばいいのか?」というのっぴきならぬ問題が、手にした自由と一緒に生じてきたわけだ。まあ現実には芸術作品を買ってくれるのは、王侯貴族からヘゲモニーを引き継いだ裕福なブルジョワジーしかいないわけであるから、答えははっきりしていた。要はブルジョワジーの欲するものを創ることが出来れば、この経済問題は解決である。実際、文化的な優位をも示したいブルジョワジーによって、サロン(官展)が組織され、懐古的、伝統主義的なブルジョワ趣味を芸術家たち求めることになっていった。

 ところが、目の前に開かれた自由の地平を前にして、時代にそぐわぬ古色蒼然たるブルジョワ趣味に飽き足らない芸術家が一部に存在した。当時彼らの作品はサロンに展示することも許されず、ブルジョワ文化人から嘲笑され、攻撃され、無視された。当然のことながら上記の経済問題をクリア出来ない彼らの生活は困難を極めることになり、印象派以降の、ゴッホの名に象徴されるところの、村上氏のいわゆる「貧」の芸術というスタイルが誕生することになったわけである。
 つまり「貧」芸術のヒーローたちというのは、近代の到来が芸術家たちに突きつけた倫理問題に、極めて誠実に回答を試み、それゆえ裕福なブルジョワジーの擬古的な要求に応じなかった反逆者であったわけで、ご存知のように彼らの作品はブルジョワ趣味を逆撫するような逸脱的な性格を持っていた。この流れが最終的に、ダダ、シュルレアリスムなどのアヴァンギャルド運動へとつながってゆくのである。しかしながら、こうしたまつろわぬ者たちはいつの時代にあっても社会の周縁部に打ち捨てられる運命にあり、必然的に孤独と貧困を友とし、犯罪者、狂人などと極めて近い視線で眺められることになる。芸術が「貧」や「狂」と癒着している背景には、このようなブルジョワジーの美的規範への拒否(反抗)と、社会側からの排除の眼差しがあって、真の意味で革命的なアクションは、現在でもこれらの言葉と高度に親和性を保っている。が、もちろんそれは結果的にそうなのであって、芸術の価値が「貧」や「狂」に由来するなんてことを意味するわけではない。
 おそらくゴッホが今でも人気のある画家である理由は、村上氏が言っているような貧と芸術のいわれなき癒着などというところにあるのではなく、人々の内面に拒否を貫くゴッホの姿勢(人間の否定性)に共振する部分があるからと考えるべきだろう。

 ところで村上氏は、こうした人間の否定的な情熱とか、芸術の倫理と現実の社会の間の矛盾や葛藤みたいな生々しいことにはまったく興味を見せていない。「何を描くべきか?」なんてこと、ぶっちゃけどうでもいいのだろう。村上氏によると、支配階級への職能的な奉仕から解放は、「芸術家が自分のネクストステージを考える上で、詭弁を弄する必要が生まれた」ことを意味するのだそうである。芸術の倫理なんてものは所詮、詭弁でしかなく、近代の到来が芸術家に突きつけたものは「誰にどのような芸術を売って食って行けばいいのか?」さらに「何を創れば金が儲かるのか?」という経済問題でしかない。富むことを放棄してまで追求すべき何かがあるなんてこと、この人にはきっと理解できないのだろう。だから貧と芸術の癒着が不可解だと首を傾げることになる。だいたい村上氏による「貧=芸術」への反駁も結局のところ「最新の芸術をやるためにはどうしても金がかかる」という資金の必要性からのアプローチしかなく、それって、人間誰しも自分の生命を維持するためだけですら「金がかかる」という当たり前のことを言っているだけで、そもそもなんの反駁にもなっていない。

 つまり、村上氏は商売人の本能全開で現代美術の誕生を、アートビジネスのビジネスモデルの転換として読み直しているわけだ。まあ、歴史なんて読みようによってどうにでも読めてしまうものだろうが、こんな平板でトキメキのない解釈には開いた口がふさがらない。
 かくして村上氏は(日本人好みの)「貧」の芸術を葬り去って、西洋流の(グローバルスタンダードな)現代美術のルールを説くわけである。曰く、「現在の西洋アーティストのバトルフィールドは、資本主義である。」「資本主義経済と人間はどうやって関わるべきかというテーマをアーティストは必死に探している。」「アーティストは富の実態とは何かを検証する冒険家である。」「実践として経済にタッチしなければ芸術家の自己主張にはならない。」云々、、、冒険だの実践だのという何気に左翼っぽい言葉が混じっていて何のことかと思ったが、ダミアン・ハーストの例などを聴くと、要するに現代アーティストとは資本主義市場を舞台に「成功」と「金儲け」目指す「冒険家」であるということ以上のことは言ってないように思う。だけどこういうのって、ベンチャー企業の経営者とか営業マンにこそふさわしい肩書きだ。

 たぶん、刻々と変化するマーケットのトレンドを読んで、そこに需要が予想される魅力的な作品を投入するのが現代アートのルールを心得た冒険者がやるべきことだ、みたいなところに村上氏の話は落ち着くのだろう。それで成功が手に入り金と承認を得て万々歳というのならそれでもいいのかもしれない。
 しかし、われわれ「何を描くべきか?」という芸術の倫理を愚直に追求してきた者たちにとっては、そのような資本主義に包摂され、いまやビジネスの闘技場でしかない芸術のルールなんてものは、踏みにじり、脱構築すること、すなわち可能な限り芸術から距離をとることが半世紀も前から「正義」になっている。そんなわれわれにとって戦後のアメリカの美術シーンは、(前衛芸術という)祭りのあとの白々とした残骸、マネーゲームの冷たい命を吹き込まれた亡霊たちの徘徊する地にすぎないのだ。そんな地でまかり通っている掟(ルール)などにもう関心はない。われら生者の赴くべき希望の土地はむしろ国境の南である。
 気の毒な村上氏はおそらくかの地に渡ったせいで、生粋でグローバルスタンダードな亡霊として生成してしまったのだろう。まあ、彼がその亡霊としての生活をエンジョイするのは一向に構わないが、なんでもこの講義を通じて、日本の若者たちが覚醒してくれることを願っているらしいのだ。アーティスト予備軍として芸術大学という墓穴で催眠状態にある若者たち、、、いま、マッドサイエンティスト村上隆氏は亡霊として覚醒させようとそれら若者たちにターゲットを絞っているというのか? 、、、、若者たちよ! 亡霊の手から逃れよ! そして亡霊としてではなく、生者として覚醒するのだ!
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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