泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 亡霊退治   Tags: 思想  芸術  亡霊退治  

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アートシーンではなく<文化>を!

 VOL 3号に『 ポスト・ノー・フューチャーにとって政治とはなにか──シーンなきアートの現場から (by 工藤キキ)』というインタビューが掲載されている。工藤キキさんという人については全く知らないのだが、このような雑誌に載っていることからみて、左翼系の人たちと何かつながりがあるのだろう。しかしこのインタビューの内容は、アンチ・キャピタルなVOLの編集方針と大きく隔たっており、第3号のテーマとされている「アートとアクティヴィズムのあいだ」という問題に対する混乱と無理解を象徴しているものではないかと思う。

 このインタビューで工藤氏は会田誠(参考)、岩本愛子(参考)、Chim↑Pom(参考)などのアーティストを例にとりながら、日本の新しいアートムーブメントの政治性ついて語っている。その特徴として、「虐げられているという前提からの抵抗」のようにリアクティヴなものではないことや、特定の表現メディアにはとらわれないアーティストの表現の欲求に基づいたポジティブさを強調しているわけなのだが、僕にはそういうポジティヴさに何の意味あるのかさっぱりわからない。何がつまらないと言って、結局彼女は個人主義的なアーティスト=「表現」の職業的専門家についてしか語っていないことである。
 高祖岩三郎氏は「アートとアクティヴィズム(芸術と政治)」のあいだの異種交配の領域について以下のように述べている。

、、、アートの側から見ると、それは先鋭的な作品制作が個人主義化された生産/消費形態と制度化された劇場の殼を打ち破り、それぞれ培ってきたメディウムと技能を全面的に解放し、社会と都市空間の変革に介入し始めることである。これはアートという特権的に閉じていた領域の自己解放である。(『アートとアクティヴィズムのあいだ』)


 つづいて工藤キキ氏の言葉を聞いて欲しい。


、、、むしろ今、表現すること自体のハードルが、ものすごく高くなってる。インターネットでいろいろな情報が集められるし、すでにどこかでやられているとか、すぐにわかっちゃう。ものすごい情報が溢れていることを、アートという表現に向かう人は敏感に感じてほしい。(『ポスト・ノー・フューチャーにとって政治とはなにか』)


 表現のハードルは、アーティストが自分の仕事について、これはもう誰かにやられてしまっているのではないかと常に疑い続けねばならないほど高くなっている、というあたりに、自分の表現とほかのアーティストのそれとの差異にこそ価値を見出す(ニッチ市場において生き残りを図る中小企業のマーケティング努力にも似た)意識の存在を彷彿させる。アートを職業としている以上、マーケットの動向に敏感でなければならないのは当然だろうが、少なくとも工藤氏の語るアーティストたちの表現の欲求や好奇心とやらが、決して自由なものではなく、マーケットのものさしに拘束され、それへの配慮を怠ることはできないものであるのは確かだ。
 実際、会田誠やChim↑Pomなどの仕事を見ても、工藤氏が楽しげに語っているほどのびやかなものにはどうも思えない。いわゆる「フラット」で、エゲツなく、背徳的な感性は嫌いではないが、むしろまだ誰もやっていない領域をけっこう必死に探してるんじゃないかと邪推してしまい、正直つらいものがある。
 そもそも生きること自体表現なのであって、表現のハードルを越えるための努力なんて発想自体がナンセンスだと言いたい。

、、、絵を描きたいから絵を描く、ビデオ表現したいからビデオを使う、みたいな何を表現したいかをすっ飛ばして技法から入る人がとても多い。それって、表現の幅をせばめていると思うんです。何かしたい、という欲求自体がアートなのだから、本当は道具なんてなんでもいいはずで、表現したいことを伝えるためのベストな方法として、絵を描くなり、写真を撮るなりなど、表現方法をあみ出せばいいのに。技法に捕われるより、そんなの文房具ぐらいの感覚でいいのでは。そして、どの表現方法が適しているのかを見極めるのがセンスの見せどころなんだと思います。(同上


 特定の表現技法(メディア)にとらわれていないことを意味あることのように工藤氏は語っているわけだが、ようするに従来の絵画、彫刻、映像、音楽といった特定のメディア表現の専門家に対して、マルチプルな表現者=表現そのものの専門家を新しいものとして持ち上げているに過ぎない。そのような違いは瑣末なものであり、問題なのはそうした表現の専門家をポジティヴに認めることが、(対立項として)受動的な表現(情報)の消費者の存在を暗に措定してしまうところにある。
 こうした工藤氏の見立てが、「一人の天才でなく「無数の凡才」が号令する。あるいは言い換えると、ここでは出発点は──天才と凡才の区別が成立しない──万人の単独性以外ではない。」とシチュアシオニスト張りに述べている高祖氏の言葉とは大きく食い違っているのがわかるだろう。

 アートが反資本主義的実践の回収装置となってしまっている現状においては、個人主義的なアートと距離をとり、アーティストという専門的な表現者のアイデンティティから自らを可能な限り引き離す努力がラジカルな「政治性」として現れてくる*1。ちょうど政治運動の新しい潮流の担い手が、旧来の左翼政治(力の政治)と距離をとろうとするのと同じように。
 高祖氏も述べている通り「アートとアクティヴィズムのあいだ」の領域は「資本主義経済のより深く広範な支配と、民衆の力能化という両義性を孕んだ」混乱したせめぎ合いの状況にあり、同じように見えて、まったく正反対のベクトルを持つアクションがまぎらわしく絡まりあっている。
 まず、アートとアクティヴィズムという二つの異なった領域の自己変革の異種交配(by高祖)という今日の前衛的なトピックと、亡霊として今なお存在し続けているアートの残骸とをはっきりと腑分けしなければならない。そして慎むべきは、すでに武装解除され資本の傘下に入ってしまった「アート」という亡霊にいつまでも未練たらしくしがみつき続けることである。それはもはや資本によるスペクタクル支配の強化をしかもたらさないからである。
 
 この腑分けを自他に示すために、スペクタクル支配に不服従な今日の前衛=新しい文化の創造者には、従来のアートから自らを引き離す(アートを脱構築する)という不可解な身振りがついてまわる。いったい何故、岡本太郎は「絵でない絵を描くべきだ!」などと言ったのか?*2 いったい何故、シチュアシオニストは芸術表現を自らに厳しく禁じなければならなかったのか? いったい何故、ヨゼフ・ボイスは「私はもはやアートの世界に属さない」と言わねばならなかったのか?
 ここのところが大事で、「アートとアクティヴィズム(芸術と政治)」のあいだの異種交配の領域での自己変革が、アートの側では芸術表現のアクション性を発見して、ギャラリーや美術館を飛び出し、ストリートに都市空間に介入していく方向に向かった、という理解自体間違いでも何でもないのだが、そのような方向性の背面にべったりと「アートの脱構築」という課題が張り付いているという問題は、意外に見逃されがちだ。
 つまりこのアートへの距離感、アートの脱構築という契機の有無が、アートとアクティヴィズムのあわいに生息する前衛と亡霊を見分けるメルクマールなのである。この辺の事情を左翼の知識人たちもけっこうわかっていないのではないかと、前々から疑っている。一般に知識人はアーティストに甘い。その甘さがアーティストの仕事に対して過剰な意味付けをして、スペクタクル(亡霊)に命を与え続けてきた。で、アンチ・キャピタリズムを標榜するVOL のような雑誌に、こうした亡霊礼賛のインタビューが挿入されていること自体、「アートとアクティヴィズムのあいだ」の領域の混乱と無理解を象徴している、というわけだ。

 工藤キキ氏が紹介しているChim↑Pomというグループは、なるほど都市空間に舞い降り過激なフォーマンスを繰り広げている。そのお騒がせ感や若さを妬みつつも、感じてしまうのは「何でアートという枠にこだわり続けなければならないんだろう?」ということだ。メンバーも活動のノリノリ感を強調しているようだが、なんか営業職のイケイケ感とダブっているような気がしないでもない。結局アートにおいては、他の表現との差異にこだわらなければならないという問題があり、誰もやってない新しさの探求を指向することになり、そこになにがしかの必死さがチラリと見えるような気がする。問題は物理的にギャラリーからストリートに飛び出すことではなくて、アートの息苦しい枠を突き抜けることにある。そこを取り違えて、若さが亡霊化してしまうのを見ると複雑でいたたまれない気持ちになる。
 井上陽水ではないが、やはり探し物は探すのをやめたときに見つかるのだろうか。むしろアクションを、他人のアクションとの差異などお構いなしに、したがって作品化など無関心なまま、生活的な実験を行っていた「だめ連」とか、最近の「素人の乱」みたいな脱力した運動なんかのほうに、僕はよっぽど文化の香りを感じてしまうのだ。
 
 「アートから距離を取る」ためには、シチュアシオニストのように芸術表現を放棄するのが手っ取り早い。しかしそれは「芸術表現をすべきではない」ということを意味するわけではない。例えばシチュアシオニストは芸術表現をメンバーに厳しく禁じていたわけだが、機関誌を出版し、個人として様々な文章を書いている。さらにドゥボールをはじめ著書のあるメンバーも少なくない。そのエクリチュールを芸術的な表現であると考えることは当然できるはずだ。
 また、芸術表現しない、という意思の表明も、それ自体一つの表現であるというメタ言説的な真実があり、さらに人間の生を環境世界に対する継続的な働きかけであると考えるなら、誰しも死に至るまで物質的環境に対して何らかの操作を行ない続けるわけで、その生の痕跡をある種の芸術作品に見立てることは常に可能である。

 こうして結局全てはアートである、ということになるのかもしれない。が、やはり、「アートとアクティヴィズムのあいだ」における前衛のアクションと、資本主義に噛み砕かれゾンビと化した(すなわちスペクタクル化した)「アート」の亡霊とは、はっきり区別しなければ混乱するばかりである。そこで僕は前者のアクションを表現する言葉として、個人主義的で、商品化しやすい「作品」という枠を前提としたアクションと深く結びついた従来の「アート」という言葉にかえて、月並みだが(すでに上で何度か使ってい)が<文化>という言葉を使用することを提案したい。<文化>は多数の者による全体的な事象としてあり、作品(商品)として切り出すことは(不可能ではないが)難しい。
 シチュアシオニストの状況への介入の実践、機関誌やパンフレットの発行は、「アート」ではなく、「文化」の創造であった。岡本太郎の絵画や彫刻は「芸術」ではなく<文化>と解するべきである。*3 ボイスの社会彫刻もしかり。

 工藤キキ氏は、インタビューの冒頭で「いま日本のアートにはマーケットはそこそこ存在するけど‘シーン’は無いですね。」と語っているが、本当に必要なのは個的な表現の専門家の集合である「アートシーン」などではなく、「無数の凡才」による全体的な事象、祝祭としての<文化>なのである。



*1 シチュアシオニストたちは半世紀も前からこの課題を自らに課していた。
*2 戦前、アブストラクシオン・クレアシオン時代に岡本太郎は、「色でない色、形でない形を求めるべきだ。」と書いている。これはすなわち、絵ではない絵、芸術でない芸術のことであるが、後述するように、芸術でない芸術についてひとまず「文化」という呼び方をしたい。
*3 手元に資料がないので詳細を確認できないが、ゴッホを論じたエッセイの中で岡本太郎は、「芸術なんて、芸術を徹底的に踏みにじったところからはじまるのだ。」という意味のことを書いていた記憶がある。これをこのエントリーに引きつけて解釈するならば、芸術を踏みにじる=芸術を脱構築するところからはじまるのは「文化」である。

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荒井賢 (Ken Arai)

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