泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: Thought  

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花粉症とセキュリティ

 春が近づいたせいか、マスクをかけた人をよく見かけるようになりました。今年は昨年の何倍だかの花粉が飛ぶとかで、花粉症の人にはつらい春になりそうです。
 ところで、だいぶ昔に読んだのですが、寄生虫博士として有名な藤田紘一郎さんの本で、花粉症の蔓延の原因の一つとして過度の衛生観念の浸透、ということが挙げられていました。日本の場合、回虫が日本人の体から駆逐されてゆくのとともに、花粉症に苦しむ人が増えていったというデータがあって、寄生虫の体内での存在が花粉症の発症にストップをかけていた、というのです。
 エーッ、本当かよ、と思うのですが、本を読んでみるとなかなか説得的で、免疫学の知見からこの説が語られていました。要は、近代化の進行とともに、近代的な衛生観念が国民に浸透し、寄生虫が日本人の体からいなくなることで、免疫システムに微妙な変化が起こって、スギ花粉に対するアレルギー反応を起こしやすいようになった、ということらしいのです。かつての恒常的な異物(回虫)との接触が、花粉症のストッパーになっていたのだと………。
 もちろん私にはこの説の正しさを証明することなどできません。ただ、人体と異物をめぐるこうした免疫学の考え方というのは、メタファーとして面白い、と思います。

 衛生といっても、実際にはまじない的な、「清め」とか「みそぎ」みたいな要素が、医学的な因果関係と混じり合っている………。私たちは子供の頃からトイレのあとには手を洗えとうるさく言われてきました。排泄物が汚い、不衛生だ、ということなのでしょうが、ウンコしたって、ほとんどウンコそのものには触れていないし、石けんで手を洗わなければならないほど不潔なことなのだろうか、と私はずっと思ってきたものです。実はめんどくさいので私はほとんどトイレのあと、手を洗っていません。そのために私がなんらかの感染症になったことなんてないと思います。それに最近では健康のため自分の尿を飲む、なんて話も聞くし、スカトロジーというか、ウンコを好きで食べる人もいるわけで(東南アジアでは人間のウンコは犬やブタの御馳走だったりもする。)、排泄物自体が、人間にとって決定的な毒であるとは思えません。
 私の知り合いに潔癖性らしき人がいて、トイレのあと、水道の蛇口をいっぱいに開いて、30秒ぐらいジャブジャブと手を洗い続けている………。部屋にカルキ臭が満ちてくるのがわかるほどです。いや、衛生学的には推奨される行為なのでしょうが、小便のたびにそれなのです。はたしてそこまでする必要があるのでしょうか? 結局のところ手洗いなんて「清め」の儀式なんじゃないのか、と私は思うのです。

 文化人類学なんかでよく言ってることですが、「穢れ」が「穢れ」であるのは、実体的にそのものが穢れているからではなく、あるものが「穢れ」として排除されるからこそ、それが「穢れたもの」になる………排泄物が汚く、臭く、穢れているのは、まず排泄物が「穢れ」として排除されているからだ………その排除によって、逆に私たちの清浄な日常の秩序が誕生する………。
 近代社会はその日常からひたすら「穢れた」要素=異物を排除してきました。明朗かつ計算可能で均質な近代空間は、不気味でいかがわしい「穢れた」闇を葬り去ることで成り立っています。死、狂気、病い、暴力など、不安をもたらす闇の表象は日常から排除され隠蔽される。衛生も、そのような近代化のプロジェクトの実践なのです。
 感染症とそれがもたらす死、腐敗などへの恐怖、それは病原菌が繁殖する異物との接触への恐怖であるとともに、「穢れ」との接触との恐怖でもあります。これは細菌学、病理学と呪術の混合とでも言ったものでしょう………。

 排除するからこそ「穢れる」。そして徹底的に排除し隠蔽しつづけるなら、「穢れ/異物」は私たちの日常の表層からは姿を消すかもしれません。しかし、どこか見えないところでその存在を影のように増大させている………。抑圧したものが、無意識の中で生き続け、自我を背後から脅かしつづけるというのは精神分析の考え方でした。「穢れ/異物」を日常から消し去ってしまうことで、むしろ私たちは「穢れ/異物」に対してより敏感になるのではないでしょうか。全体的に私たちの「穢れ/異物」に対する感受性の閾値が上昇し、ちょっとしたことで「穢れ/異物」との接触への恐怖が甦ってくるほど過敏になる。
 衛生観念の浸透が、花粉症のようなアレルギー症を増加させているという考えは象徴的です。過剰な清潔への指向が、逆に身体の異物に対する防御反応を過敏にしているのです。何でもないことが身体にショックを与えるほどに私たちの身体の防御態勢の閾値は上昇している。O-157という病原性大腸菌が問題になったことがありましたが、重症化した感染者を調べてみると、わりと几帳面な潔癖性気味の人が多かった、なんて調査もあるといいます。清潔な人ほど異物に対する反応はパニックを引き起こすほど危険なものになってしまう。寄生虫博士の藤田さんは「清潔は病気だ。」といっていますが、実際のところどうなのでしょうか?
 少なくとも、まじない的な「穢れ」への感受性という面においては、排除の徹底が逆に排除された「異物」との接触をより恐れさせ、排除された「異物」への感受性を過敏にさせる、ということは間違いないように思います。衛生観念を徹底的に叩き込まれ、内面化している人ほど、ちょっとした汚物との接触が、もう耐えられないものになっているのではないでしょうか。そのような人はきっと、トイレのたびに長々と手を洗い続けなければ気が済まないのでしょう。それだけの努力をしなければ、恐ろしい「穢れ」が彼/彼女の身体をどこからか襲いかねないのです。
 しかしどうでしょう。そのような潔癖性的なパーソナリィティというのは、どうもつきあいづらいせせこましいものに思えないでしょうか。いや、不潔な人がいいって言ってるわけじゃないのですが、どうも異物への過剰な防御をとる姿に、ホスピタリティの欠如を感じてしまうのです。

 話は南国に飛びますが、タイでは乳児におむつをさせていないことが多い。スッポンポンで排泄物は垂れ流し状態です。そのため乳児のいる家が小便臭いことがよくあるほどです。私の義理の姉(タイ人)の子供が赤ん坊だった頃ですが、スッポンポンのそのお尻からウンコがひねり出されてくるのが見えました。義理の姉はそれに気付くと指で肛門をチョイッとひとふきしてウンコを取り除き庭にポイッと捨てたのです。私は「ワッ!」と思いました。彼女が平然とやってのけたこの行為を私はできるだろうか、と思ったのです。 
 やがて私にも子供ができました。おむつを替えるときどう感じるだろうと心配でしたが、結局慣れてしまったのか、赤ん坊のウンコを取り立てて不潔だとは感じることはありませんでした。私も平然と子供のウンコにさわりお尻をティッシュで拭き取るようになったのです。
 ところが、私の母親は驚いたことに自分の孫の排泄物にさわれないのです。明らかに清潔好きな彼女にとってウンコは誰のものであろうと不潔なもののようで、かわいいはずの孫のおむつを2本の指でつまんで捨てにいくありさまです。孫のウンコを愛おしく思え、とは言いませんが、その姿に私はどこか悲しいものを感じてしまいます。
 くりかえしますが、人間は不潔であるべきだ、などと言いたいのではありません。私だって汚物の中を転げ回りたいなどは思わない………問題なのは異物との独特でアンビヴァレントな距離のとり方………激しく拒否し、怖れ、排除したものを、再び迎え入れようとするだけの度量………すなわちホスピタリティなのです。

 「穢れ」を排除し、穢れたものとの接触を禁忌することは、人間性というか、文化の基礎です。タブー(禁忌)の存在こそが人間を人間たらしめている。したがって排除行為自体はきわめて人間的なことなのです。が、それは一面的にそうであるに過ぎない………。タブー(禁止)はそれを破るために設定される、と言ったのはジョルジュ・バタイユでしたが、排除行為も実は「排除されたもの」との再会を前提としていると考えるべきでしょう。
 排除とは聖別でもある。それは排除されたものに非日常的で特殊な「力」を付与します。神秘的であり、猥褻でもあり、日常的な清浄な空間に慣れきった精神にぐさりとアクセントを突き刺すような、興奮や混乱をもたらす「力」………それは「呪力」と言ってもいいかもしれません………を、「排除されたもの」は持つのです。ときには深い歓びを、ときには恐怖をもたらす驚異の存在、それが排除された異物のあり方です。
 まあ、排泄物に深い歓びを感じる人はあまりいないかもしれませんが、ウンコや嘔吐物は明らかに「呪力」を持っています。歩いてゆく先にウンコがあれば、誰だって身構えてよけるだろうし、ウンコを踏んづけた子供は、その瞬間負の呪力をまとい、仲間たちから接触を忌避されるでしょう。(最近の子供は「えんがちょ」なんて言葉を使うのだろうか?)また、夜の駅のホームの片隅に色鮮やかな花のように広がった嘔吐物は、私たちに強烈な印象を与えずにはおきません。体調の悪いときなどもらいゲロをしてしまいそうになるほど、あいつは強い「呪力」を発しているのです。
 排泄物の話ばかりになってしまいましたが、私が言いたかったのは、排除された異物との接触というものは、日常性に混乱をもたらすイレギュラーな事態だ、ということです。死や狂気、また暴力やエロスなどが突然、日常に挿入されると、私たちの精神は揺れ動き、波立ち、冷静さを失ってしまう。イレギュラーが日常のリズムを狂わすのです。
 しかしまた、イレギュラーは私たちにとって歓びや笑いのもとでもある。イレギュラーな事態は、坦々とした退屈な日常に思わぬ変化や彩りをもたらすため、私たちは興奮し、胸を高鳴らせ、痙攣的に爆笑したりする。そしてちっぽけな自分の自我の壁は崩され、大きな一体感の中に溶けてゆくのです。「祭り」というものが一体何であるのか、一言でいってそれは、労働の支配する退屈な日常に差し込まれた巨大なイレギュラーである、と言えるでしょう。

 したがって、人間性を語るには、原初の排除=タブー(禁止)の誕生とともに、禁止されたもの(異物)との再会という二つの面について考えなければならないのです。おそらく前者の排除は「労働」や「生産」の秩序にかかわり、後者の異物との接触は感情やエネルギーの「浪費」とかかわっていると思われます。再会するために引き裂く、というこの人間にだけ存在する遠回りしたドラマ作りの営みは何なんだろう、私たちは、これを「過剰」とか「遊び」とかいう言葉でしか表現することしかできないのですが、まあそれはおいておきましょう。………ここでは、排除された「異物」との再接触が、私たちに深いエモーショナルな感動(コミュニケーション)をもたらすものだということをおさえておきたいと思います。
 私は潔癖性の人にホスピタリティの欠如を感じると言いました。最近ではホスピタリティという言葉は接客業のスキルとしてしか使われないでしょうが、先ほども言ったように、ここでは「排除したものを再び受け入れることのできる度量」………すなわち「異人歓待」と訳される意味で問題にしてゆきたい。いってみれば、ホスピタリティとは「異物との親和性」と考えることができそうです。
 穢れた異物との接触を拒絶する潔癖性の人は、なるほど清浄な日常性の秩序の中に、つまり、人間が人間であるための必要条件である「労働」の秩序の中にはいますが、それを越えた「コミュニケーション」を拒絶してしまいがちなのではないでしょうか。私たちはただただ生き延びているのではない。喜び、悲しみ、ときには激情に身を任せたりもします………それは世界を揺るがせる深い快感だと思うのですが、潔癖性の人のパーソナリティというのは、エモーショナルな心のうねりの支配する非日常性や無秩序にはけっして身を任せようとはしない、心理的な「硬さ」を特徴的に持っているような気がするのです。
 日常性を支配する「労働」の根本的な動機は、個的な生命体の存続(生き延び)にあります。日常性を成立させる原初の排除(すなわち労働の秩序)はしっかりと引き受けるが、その排除された異物との再接触を拒む人というのは、結局自分自身の個的な自我の存続にあくまでも固執した人間的な「狭さ」を持っているのではないでしょうか。自分の生存のための透明な世界をかたくなに守っている人………、バリケードを張り巡らし、自らを脅かす何かが侵入してくることをたえず警戒し続けている人………、そのような神経質で常に構えている人というのは狭量で付き合いづらい人なのではないか………と、まあ私の直感を説明するとこうなるわけです。

 ですが、私は潔癖性の人を責めたいのではありません。そうではなくて、近代社会が指向してきた衛生観念の根源にも、したがって近代社会そのものの根源にも、潔癖性のパーソナリティ同様の「硬さ」や「狭さ」が見て取れるということ、つまり、近代社会の執拗なまでの異物の排除の傾向が、またそのことによるコミュニケーションの拒絶、すなわち異物との再接触の拒否の傾向があって、その結果、逆に異物に対して不安や恐怖を感じるほどに社会全体が神経質な状態になっているんじゃないか、ということがいいたいのです。まさしく私たちの社会は、「異物」の侵入を怖れてバリケードを張り巡らし、24時間、360度にわたって警戒を解くことができなくなりつつあるのではないでしょうか。私たちの近代社会は「異物」に対して異常なほど反応の閾値を高めており、その結果、重度のアレルギー体質になりつつあるのです。そのピリピリとした過剰な防御態勢がどうにも息苦しく、世の中を住みにくいものにしているように思われてならないのです。

 学校に異常者が侵入し、児童や教師を殺傷するという事件が相次いでいます。冷ややかで、不気味な不安をかき立てる事件………警察に学校を警備させたほうがいいのではないか、などという話も出ているようです。殺人鬼によって愛する子供が苦痛とともに命を奪われることを想像して平然としていられる親はいないでしょう。子を持つ親として私もみんなが感じている不安や恐怖はよく理解できます。もっとも今、こういったセキュリティに関する議論をする準備を私は持ち合わせていないのですが、気になることを一つだけ指摘しておきたいと思います。
 凶器を持った残虐な犯罪者が、人に襲いかかる………。このような事件は残念なことですが、どんなにセキュリティを強化したところでなくなることはないでしょう。自然にしろ人間にしろ基本的には暴力的な存在なのです。ついこの間まで、日本人だって戦争をしていた。国家を挙げての殺人行為をおこなっていたのです。人類が誕生して以来の歴史は、まさしく血塗られたもの以外の何ものでもありません。
 むしろ数字の上では、今の日本で犯罪に巻き込まれ死ぬ人の数は過去と較べれば問題にならないほど少ない、というのが実情じゃないでしょうか。おそらくかつてないほど安全な環境の中で私たちは生きているはずでしょう。戦時中、おそらく死は非常に身近なものだったに違いありません。頭上から降り注がれる爆弾、焼夷弾、そして原子爆弾………国民は、国のために死ね、とすら言われていたのです。虫けらのような私たちの命………それに較べれば、いかに現在が安全な社会であるかわかるというものです。 
 であるにもかかわらず、私たちの日常は異様なまでの不安に満ちているます。「怖くて子供を学校に行かせたくない………」みたいなことすら児童の親が言っていましたが、この不安はどこからくるのでしょうか。
 確かに安全ということだけを考えると、ここに行き着きます。外に出なければ危険に遭遇する可能性は減るだろうから。子供も学校に行かなければ、鋭利な刃物を持った殺人鬼に出会うことはないのは事実です。しかし皆が皆、安全のため誰にも会わず、家に閉じこもって生き続ける、というのはやはり不自然というか、あまりにも味気ない、悲しい光景です。
 生き延びるだけでなく、人の中で、コミュニケーションの中で生きようとするとき、どうしたって生命の危険と遭遇せずにはいられないのではないか。いや厳密に考えれば、私たちはこの世に生まれ落ちた瞬間から「死」の射程圏内に入るのです。何の不安もなく日常を過ごしているという状態はまったくの過信に過ぎない。足を滑らせたら最後、死の暗闇に転落してしまう綱渡り、それが私たちの生の実情というものでしょう。100%完璧に死の危険から身を守ることは不可能です。どうあがいたところで結局私たちは死ぬ運命にあるのですから。

 ようするに、「守り」に入りだすときりがないのです。先程述べたように、私たちの近代社会の日常は「守り」の意識が突出しています。神経質にバリケードを張り巡らせ、危険への防御意識はまさにアレルギー体質のように過敏になっている。だからこそ犯罪者のような「異物」に出合うと、私たちの社会の免疫体系は激しいアレルギー反応に陥るのです。戦時中にあったであろう日常的な死への不安や危機感は、現代においてはたった一人の異常者によって広範に引き起こされてしまうのです。
 いつの時代にも異常者(異物)は存在したでしょう。しかし現代ほど「異物」が異様な不安や恐怖の表象と結びついている時代はかつてなかったのではないでしょうか。清浄な空間をつくることを目指してきた近代社会は、そのプロジェクトを進行させるにともなって、その清浄なる空間に唐突に闖入した「異物」に痙攣的に驚愕せざるを得なくなっているのです。たぶん、危険な異常者が増加したのではなく、逆に社会全体の空気が異常者を危険なエッジを纏わせながら浮き立たせている。それが、安全であるはずの社会が不安に満ちているように感じられる原因なのではないでしょうか。
 殺人鬼の心理は私には想像もできないのですが、たとえばこんな考え方はどうでしょうか。少しでも異質な存在であると社会から認知されはじめると、その人は社会が想い描く異常者の表象を自ら受け入れて、社会の描き出すシナリオ通りの「異物」の物語を演じ始める。反社会的で、危険で凶悪な「異物」の物語を………。勝手な想像ではありますが、社会の側が結局、排除すべき「異物」を必要としているのかもしれない。ひょっとして学校に刃物を持って押し入る殺人鬼というものは、私たちの近代社会が分泌した「物語」なのかもしれません。彼らは生贄的にその役回りを演じきってしまったのかもしれません。彼らには殺人の欲望があったのか? あったとしてその欲望は満たされたのか? もしかすると、操り人形のようにやらされてしまった、なんてことはないだろか、陰惨な事件を見るにつけ、そんなことを考えてしまいます。
 きっと、これからますます犯罪に対するセキュリティは強化されてゆくと思われます。警察やガードマン、監視カメラなどが僕らの日常をチェックし、未然に犯罪から社会を守る方向へ向かうに違いないでしょう。ですが、想像するに、そのような「守り」の意識を高めれば高めるほど、不安も高まるに違いありません。ちょっとした「異物」に出合うだけで社会の防御体系は大規模に作動を開始してしまう。一億総中流の日本社会から、なんらかの形で逸脱する分子は、防御システムのよって「異物」として判断され排除される。「魔女狩り」という言葉を思い出すのですが、あやしい「異物」の臭いを発する人物はどんどん排除されていって、最終的には不気味に浄化された徹底的に均質な社会空間が出現するんじゃないでしょうか。
 だがその浄化され、セキュリティの完備した安全なはずの空間は、人間味を一切欠いた個々がバラバラに分断された砂漠のような空間でもあるのではないかと思われます。なぜならお互いがお互いを、均質で清浄な空間を乱す「異物」でないか監視し合いながら生きることになるだろうからです。不安を呼び起こす異物は絶対にあってはならないのです。それはけっして豊かでも心が落ち着ける親密な空間でもないように思います。おそらく「守り」の意識が行き着くところはこんな寒々とした風景じゃないでしょうか。

 じゃあ、どうすりゃいいんだ、ってことになりますが、単純に言って「守り」から「攻め」に転じるしかないのではないでしょうか。どう守ったところで危険から完全に逃れるすべはないのだから、開き直って逆に「攻め」に出てみてはどうかと思うのです。
 古いフォークソングで申しわけないのですが、海援隊の『俺が信長』という曲にこんなフレーズがあります。「天から貰うた 命のクセに 返すのを惜しんで 泣いて居るのか………」と。
 私たちの命は、いつか返さなければならない天からの貰いものです。そんなちっぽけな命にしがみつき、惜しんで守りに入りだすと、私たちは逆に自在さを失ってしまう。私たちは不安に備えて貯金をし、財産を蓄える。そうすると逆にその財産を狙う泥棒や詐欺を警戒し、さらに守りの意識が高まってゆくという事実があります。
 また、万が一に備えて年金を積み立て、生命保険に入り、火災保険、自動車保険にはいり………とやっていくと、結局、私たちの手元にあるのは保険料を払うために働く毎日だ、ということになってしまいます。こうして自分の人生はガチガチにプロテクトされ、重い鎧をぶらさげたまま、やりたいこともやれず、挑戦したいことにもアタックできない、まったく鈍重なカメのような歩みしかできなくなってしまうのです。
 いや、戦国時代と現代をまぜこぜにして混乱するかもしれませんが、おそらく信長についてのこの歌は、いつかは返さなければならない命であれば、守ることをせず、惜しみなく、危険に向かって投げ出してやる、つまり「攻め」に出るべきだと………また、そのような信長の位置からは、逆に守りに入り重くなって震えている奴らは笑い飛ばすべきものでしかない、ということ………そして、そのような「守り」に入らない軽さがあってこそのスピード感で、天下を取るところまで行ったのだということ………この歌にはそんな思想がこめられているような気がします。まあ「守り」のスタンスからは何も生まれないってこと、それだけは間違いありません。
 戦時中私たちは国のために死ねと言われていましたが、戦後になって価値判断はひっくり返り、「命の重さ」「命の大切さ」が、至上の価値になりました。さらに様々な面で近代化の制度が整えられます。社会保険制度や衛生のプロジェクト………それらはいわば、私たちの「生き延び」のための、リスク回避のための「守り」のプロジェクトでした。戦後半世紀以上が過ぎた今、それら「守り」のプロジェクトは逆に私たちに重くのしかかり、自由に呼吸することも許されないような圧迫感をもたらしているのです。だからこそ、私たちが必要としている戦略は「攻め」なのです。

 もうちょっと具体的に「攻め」ということについて言うと、それは近代社会が排除し隠蔽し続けている「異物」に正面から向き合うこと、そしてその「異物」を恋人を抱擁するように迎え入れることです。そしてまたそれは、死や狂気、魑魅魍魎や穢れたものがうごめく闇を正視することでもあります。そこにはイレギュラーな事態が満ちあふれています。イレギュラーは危険の源泉であるとともに歓びのもとでもあるのです。
 上で私は『「祭り」とは、労働の支配する退屈な日常に差し込まれた巨大なイレギュラーである。』と述べました。気がついてみれば、イレギュラーな「異物」の排除に躍起になっていた近代人のもとからは、「祭り」がなくなってしまいました。ホスピタリティの器量とともに、歓びをも失ってしまったのです。「祭り」のエネルギー源は「異物」との対面のもとにしかあり得ないのです。私が「攻め」に転ずる、というとき夢見るのは、そのような「祭り」の光景………闇ナベのようにいろんな「異物」がゴッタ煮状態にあるような光景です。多分それはセキュリティの完備した安全で平和な郊外のニュータウンとは正反対の迷宮のような世界です。
 もっともそれは夢の光景です。とりあえず、今現在私たちが選べる戦略について個人的な考えを言っておくとするなら、「攻め」に転ずるとは、自らが「異物」となること、につながるのではないかと思います。もちろんそれは自分が殺人鬼になる、なんてことではない。それでは社会が分泌したストーリーに自分を同化させてしまうだけです。殺人鬼になる、なんていうニヒルでつまらないイレギュラーはごめんだ。あくまでも社会の中に面白いイレギュラーを創り出す!ということなのだ。が、結果的にそのような行いは「異物」として、犯罪者的なものとして社会から認知されてしまうのではないかと思うのです。この唯一の希望は、誤解に満ちたつらい道です。しかしその道へ向かって舵をとる以外にどんな対抗策が、どんな「攻め」方があるだろうか、と思うのです。
 殺人のような残虐なイレギュラー行為は、明らかにルール違反です。しかし、一つだけ許される殺人があります。それを行う権利がある唯一の殺人の対象、それは自分自身です。近代社会に「祭り」をもたらすために自ら「異物」への道を選ぶ者………それは自分の命を自己犠牲的に捧げる生贄の「祭り」なのかもしれません。また「生贄」なんて言い方をしてしまいましたが、殺人鬼のように社会によって分泌された生贄と、自己犠牲的な生贄との間には大きな差があります。前者はリアクションであり、排除によってマジョリティがアイデンティファイするするための仕掛けですが、後者は肯定的なアクションなのです。生臭い言い方かもしれませんが、本当に陽気な「祭り」の影には「死」が、私たちにとって異物の中の異物、異物のキングである「死」がぽっかりと口を開けているものです。




 私の子供は今バンコクにいます。統計的にはバンコクの犯罪率は東京のそれよりはるかに高い………。殺人や誘拐も多いだろうし、聞いた話では犯罪者はあまり逮捕されないといいます。それは、ワイロをもらうのに忙しい警察のせいでもあるし、仕返しを恐れて捜査に協力しない市民のせいでもあるでしょう。さらに交通事故の数もひどい………。子供の安全、という面に関しては日本に暮らしたほうがずっといいはずなのです。なのになんでなんだろう? 日本で子育てすることの奇妙な不安は………。なんでなんだろう? 怪しく暗い闇を持つガチャガチャしたバンコクに子供がいたほうが私はホッとするのです。
 多分それはタイ人の持つホスピタリティのおかげではないかと思っています。一口には言えませんが、日本社会に較べると、タイの社会ははるかに柔軟なホスピタリティを持っています。それだけに統計上の数字では言い表せない、ざっくばらんなゆとりみたいなものを感じるのかもしれません。危険な闇をはらみつつも「異物」に寛容なタイ社会は、高度にセキュリティの張り巡らされた神経質な潔癖性のアレルギー社会日本よりも、健康なのかもしれません。根拠のないものとはわかっていますが、その辺りに私がタイでの子育てに不安を感じていない原因があるのかもしれない………と、まとめて終わることにします。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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