泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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これはパフォーマンスではない その1

 今日「アートとアクティヴィズムのあいだ」でなされている従来とは異なったタイプの抵抗運動の形態について、高祖岩三郎氏はこう述べていた。

 ……アートの側から見ると、それは先鋭的な作品制作が個人主義化された生産/消費形態と制度化された劇場の殼を打ち破り、それぞれ培ってきたメディウムと技能を全面的に解放し、社会と都市空間の変革に介入し始めることである。これはアートと いう特権的に閉じていた領域の自己解放である。アクティヴィズムあるいは社会/政治活動の側面から見ると、それはそれらがかねてから暗黙の内にそこに依って立ちながらも意識化してこなかった、あるいは無視してきた人間関係形成(あるいは「情動」)にまつわる戦術の本質性に目覚め、それを全面的に方法化し始 めようとする展開であるつまり民衆の社会変革運動の様々な次元における方法的/人間関係的な豊饒化である。この二つの異なった領域の自己変革が、お互いの 存在を認知し合い、評価し合い、連帯すること──ここではこうした異種交配が進行している。(『アートとアクティヴィズムのあいだ───あるいは新しい抵抗運動の領野について』 高祖岩三郎)


 そしてそのルーツのひとつとしてシチュアシオニストを紹介している。だが、高祖氏のこの文章を最初読んだときその通りだと思ったが、いま改めて読み直してみると、シチュアシオニストに関する理解や異種交配のイメージがいささか平板なんじゃないか、と思えるようになった。


 ところで、『都市空間に介入する文化のアクティビスト──パブリック・アートの政治性』という小倉利丸氏の論文を(こっそり)アップしておいた。小粒ではあるが、『アシッド・キャピタリズム』の芸術論のモヤモヤ感を突き抜けた、刺激的でキレのある論考である。私もよく知らない戦後のアメリカにおける「アートの社会性(政治性)の変遷を扱っているので、慣れない人にはとっつきにくいだろうが、「アートとアクティヴィズムのあいだ」に関する重要な論点を含んでいているので紹介しておく。

 戦後のある時期までアートの世界において力を持っていた、フォーマリズム言説を乗り越える形で、60年代末以降、アートの社会性、政治性を全面的に押し出した、ブライアン・ウォリス言うところの「カルチュラル・アクティビズム」 というスタイルが登場してくる。

 フォーマリズムに代表されるアートの自立性は、60年代末に解体を迎える。いわゆるアクティビストによるアート、アーティストによるアクティビズムが重要な流れを形成し始める。当時の公民権運動、べトナム反戦運動、学生運動などとマクルーハンによるメディア論などを背景に、「アクティビストのアートは、美学的、社会政治的、テクノロジー的な刺激の合流」をみせはじめた。また、これは、政治的なアクティビズムと60年代から70年代にかけたコンセプチュアル・アートに起源を持つフォーマリズム的美学への批判的諸傾向との統合だともいえる。ゲリラシアターやアビー・ホフマンが「ストリート」として概念化したような、文化的な経験をプライベートな領域へ囲い込もうとする中産階級の態度を拒絶するアプローチなどに体現されていたように、これらの動きは、都市の空間に対する非常にアグレシブな権利要求と結び付いていた。アーティストによる作品制作は、アーティスト個人の作業を超えて、複数の人々──それはまたオーディエンスやアーティスト以外の人々を含むこともあった──との共同作業、マスメディアに対抗するメディア操作の手法の採用、あるいは匿名の集団としてアーティストの固有名による特権性への挑戦といった様々な挑戦が試みられた。(小倉利丸


 言うまでもなく、これは高祖氏が言うところの、「アートとアクティヴィズムのあいだ」でなされている従来とは異なったタイプの抵抗運動のあり方に直結するものである。シアトル闘争以降のデモや路上占拠のスタイルが、カーニバルやダンスパーティのように色彩や音に彩られた文化的、祝祭的な相貌を持つようになったことはよく言われるところだが、「カルチュラル・アクティヴィズム」という概念でこうした現在の社会運動の一面を理解することができるのは確かである。
 ただ上の引用を読む限り、この「文化的な表現を行うアクティヴィスト」と、「政治的な意識を持ったアーティスト」とのクロスオーバーである「カルチュラル・アクティヴィズム」のスタイルは、アートとアクティヴィズムの外的で加算的な結合に過ぎないのではないかという疑問が浮かんでくる。確かに美術館や劇場といった囲い込みの装置を抜け出して都市の公共空間を表現=活動の舞台とし、「印象的なビジュアルな表現を提示することによって、政治状況への介入を試み」ている点は面白い。美術市場を流通する芸術商品の単なる個人主義的な生産でしかないアートとは目指すところが根本的に違う。が、 それがウォリスが語っているように「社会変化をもたらすことを試みるための文化的な手段の使用」 、すなわちアートとアクティヴィズムが、道具的な関係によって結びついているに過ぎないとすると、「文化(カルチャー)」は結局のところ「機能」に還元されることになる。極論すれば政治的主張にチンドン屋的な「装飾」を施しているのが「文化(カルチャー)」である、という理解もありうるだろう。
 このように文化(アート)を機能として道具的に捉えるなら、小倉氏が論考の中で報告しているとおり、当然このスタイルは右翼や保守派、そして現行の権力によっても手段として利用されうることになる。都市計画や再開発におけるパブリック・アートはまさにその実例だが、保守派や権力によって活用されうるスタイルを、そもそも左翼固有のの新しい実践だなどと吹聴するわけにはいかない。また、「アート」と「アクティヴィズム」が従来のカテゴリーを維持したまま外的に結合しているだけなら、そもそも異種交配だなんて言う必要もない。仮にそこで異種交配が起こり、何か異なるものがが生まれているのであれば、従来の「アート」と「アクティヴィズム」のカテゴリーは無効化し、脱構築されていなければならないはずだ。

 ところで小倉氏の論考は末尾のところで、「アート=文化」が「機能」化し保守派に活用されたり権力に動員されることを避けることはできるのか? という問いから、もしアート=文化が「公共的な空間の中で権力に組み込まれない意味性を獲得できないのであれば」アートを滅ぼしてしてしまう(脱構築する)べきなのではないか、という問いに大きく舵を切る。

 文化的なアクティビストたちの行為(パフォーマンス)は、もはやパフォーマンスとはいえないかもしれないし、この作品は現実の都市空間のなかで日常生活や政治的社会的な主張として具体的な機能 を果たしているものであって、それをあえてアートというカテゴリーに 括ることには意味がないという場合もあるからだ。いやむしろ、政治的な主張や現実に解決しなければならない問題に対する意思表示も、それが「パフォーマン ス」という範疇に組み込まれた瞬間から、それはあらゆるリアリティを剥奪されて、解決の必要のないアーティスティックな表象へと回収されてしまうかもしれないのだ。(小倉利丸


 「カルチュラル・アクティヴィズム」のわりと平板で分かりやすいスタイルに比べて、「アートを滅ぼす」という言い方は難解で謎めいていると思われるかもしれない。が、実はこれ、半世紀も前からシチュアシオニストが主張し、実践してきたことそのものである。

 シチュアシオニストは、シュルレアリスムの流れをくむ反体制集団であったが、資本主義=スペクタクル社会に抗する戦略において、作品の制作を自らに厳しく禁じて、集団による「状況の構築」という都市空間への直接的介入の方法をとった。アートというカテゴリーがそもそもシステムに対する叛乱をスペクタクルとして回収する装置として作動していることを強く意識していたためである。そうした状況の構築の実践は同時に、別の角度からみるとアートのカテゴリーを脱構築する実践であり、彼らは常に自分たちの活動の「アート」との差異に注意を怠らなかった。
 小倉氏は、ニューヨークのセント・ジョーンズ教会の前をデモするホームレスの1人が「これはパフォーマンスではない」と書いたプラカードを掲げていた例を挙げて、そこに「カルチュラル・アクティヴィズム」の限界を見てとり、「パフォーマンスによって、文化的な表現を押しだそうとするのがアクティビストとしてのアーティストであるとすれば、逆にパフォーマンスであることを拒否するのがホームレスなのだ。 」と書いているが、シチュアシオニストはずっと前から自らの活動が、アート=パフォーマンスであるかのように解釈されることを拒否し続けてきたのだ。つまりシチュアシオニストの活動は、「カルチュラル・アクティヴィズム」とは異なるタイプの、よりラディカルな水準を持った都市への介入であって、(アートの脱構築)の実践なのである。小倉氏はこの論考の中で、「カルチュラル・アクティヴィズム」とホームレスによるデモという2つの、水準の違う都市空間への介入の仕方をとその意味を、しっかりと分けて記述し、「アーティストであることと生活者であることとの間に解決されねばならない切断が示されている。」と、「カルチュラル・アクティヴィズム」に比して後者が生活的な実践であることを強調している。……しかし一見非常に見分け難いこの2つのスタイルを混同せずに見分けている人は、左翼の中でも少ないのではないか。

 第二の系譜は、60年代の新左翼運動の中から特出した芸術的抵抗運動である。それは右記の政治/芸術間の歴史的関連を全面的に意識化し、より方法的に状況に介入しようとした。パリのシチュアシオニストを筆頭に、オランダのプロヴォスそしてアメリカのイッビーズやブラック・マスクやディガーズ、その他、世界各地に類似した運動が出現した。シチュアシオニストにおいて最も意識的に実践されたが、それらは「舞台としての都市空間」や「パフォーマンス的状況操作」や「スペクタクル的戦術」という、今日範例となっている戦術的集合をもって社会変革を目指したのだった。(高祖岩三郎


 たとえば高祖氏はシチュアシオニストを上のように紹介しているが、まず「舞台としての都市空間」というのはその通りだとしても、「パフォーマンス的状況操作」や「スペクタクル的戦術」とは何のことを言っているのだろう? それよりなにより、「アートの脱構築」という重大なモメントを抜きにしてシチュアシオニストを語ってはならない。でないとシチュアシオニストの活動は「カルチュラル・アクティヴィズム」の一派であるように解釈されてしまうが、「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」を読んでみれば、彼らがセント・ジョーンズ教会の前をデモするホームレスよろしく、執拗に「われわれの活動はパフォーマンスではない」と言い続けていた事がよくわかるはずだ。勘違いしてはいけない。シチュアシオニストはスペクタクル的戦術を使って状況を操作するパフォーマンスなど行っただろうか? シチュアシオニストの「アートとアクティヴィズムのあいだ」における生活的で表裏一体の実践を、あえてアート(文化)側から眺めるならそれは「アートの脱構築」以外の何物でもないあって、「パフォーマンス(アート)」ではない。「アートの脱構築」が即、そのままスペクタクルの批判というポリティカルな実践になっていて、ここに文化と政治の道具的な関係はない。異種交配という言葉はこういう関係に使うべきなのだ。(つづく
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荒井賢 (Ken Arai)

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 生年月日 1964年2月15日
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