泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 亡霊退治   Tags: 思想  芸術  

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白黒ハッキリつけさせてもらおうじゃないの

文化を現実に否定することによってのみ、文化の意味を保存することができる。文化の否定はもはや文化的ではありえない。文化の否定が依然として文化のレヴェルに何らかのやり方でとどまるのだとすれば、そのようにしてであるが、その場合、文化という言葉はまったく異なる意味で理解せねばならない。『スペクタクルの社会』 断章210


 ……というドゥボールの言葉があって、何のことやらと思うかもしれないが、つまりこれは「文化」という言葉には2つの意味があり、かたや体制公認で、既製かつスタティックな、習俗の(美的な)体系を、また一方では、その否定=すなわち叛乱的であり、生成的、創発的なダイナミズムをこそ「文化」という言葉で言い表そうしていて、後者こそ「文化」という言葉の正統な意味としてとらえるべきだ、ということを言っているわけだ。対立的ですらある水準の違う概念が、同じ「文化」という言葉で表現されている。
 まあ、こういうのはよくあることなのだろう。たとえば「パフォーマンス」という言葉も、芸術の1分野としてのパフォーマンス・アート(小倉利丸氏が問題にしていたパフォーマンスはこちらの意味)と、表現者/観客への分裂を切り裂くものとしての根源的なパフォーマンス(粉川哲夫氏が論じているのはこちら)とではまったく意味が違う。当然「芸術(アート)」という言葉も同様で、上の引用の「文化」という言葉を「芸術(アート)」に置き換えてみても、ドゥボールのこの断章は意味が通るものになる。
 こうした言葉遣いの問題が、社会運動の領域にも混乱をもたらしているのではないだろううか。左翼系の論者、それも文化研究をやってるような人たちが、こうした混乱にのまれたままだったりしていて、ずっと前からそこが気になっている。雑誌VOLの3号は、反資本主義/アートという特集を組んでいて、個人的にも関心があって面白く読んでいるのだが、やはりこの点について極めて曖昧だ。
 問題なのは、「芸術(アート)」という言葉を混乱したまま運動の周辺にばら撒くことで、最先端の抵抗運動の回収を促す磁場を、左翼系論者自ら図らずも
温存させてしまっているように思えることである。こうした事態を避けるためにもここは1度「芸術(アート)」という言葉の使われ方を整理しておくべきだと思う。

 スティーブン・シュカイティスの『情動構成の美学 ──観客を消滅させ、群衆蜂起をうながす』という論考を読んで、少々認識を改めねばならないと思ったことがある。シュカイティスは政治的な芸術の役割を、既存の(権力によって押し付けられた)公共空間を切り裂き、民衆による自律的な公共空間の立ち上げ(情動構成)を促すものとしてとらえている。これは言うまでもなくシチュアシオニストの「状況の構築」と全く同じことだが、私がどうしても引っかかるのは例によって政治的「芸術」という言葉だ。なにしろ「状況の構築」とは資本主義のもとで叛乱の懐柔(スペクタクル化)装置と化した「芸術」を乗り越える実践なわけで、そのために「芸術」を手段として使う、なんてことはありえないだろう……と思ってしまうのだが、よく読んでみると……

もともとマーチングバンドは国家形態に付随するものであり、国家が定義する空間をもたらす。その集団は整然と制御された隊列をなし、軍隊の勲章に密接に結びついている。(……)そしておそらく国家や軍隊との結びつきがあるからこそ、それが抗議の戦略ために遊戯的に転用されて再=領有されるや非常に愉快なものとなるのだろう。


 ……と書いてある。つまりシュカイティスの言っている政治的芸術(ステンシル、グラフィティ、パフォーマンス、マーチング・バンドなど)とは、シチュアシオニストの言うところの「転用」の実践だ、ということのようだ(上の引用を読んでて思い浮かんだのだが、制服を着たままのセックス……例えばセーラー服を着たままの女子高生とのセックスは非常に刺激的だが、これも一種の押し付けられた制度の「転用/再=領有」だと考えられる)
 シチュアシオニスト言うところの「転用」とは、過去の文化的遺産や方法などをブリコラージュ的に利用した、状況の構築に奉仕する作品活動やアクションのことであるが、そうである以上シチュアシオニスト的文脈においては、懐柔装置と化した個人主義的な「芸術」とは区別されているはずである。が、そのよく似た外観を見る限り「転用」が「芸術(アート)」として理解されてしまうのは無理からぬことなのかもしれない。
 しかしながらここはあえて、シュカイティスが政治的「芸術」という言葉で表現しているものを、カルチャー・ジャミング的な、旧来の芸術的手段の「転用」と理解し、「芸術」というカテゴリーからを切り離すことにこだわったみたい。

 私にはフォーマリストの気でもあるのか、長いこと純粋芸術にしか興味がなくて、いわゆる政治的なアートを知ったのは左翼系論者が紹介しているのを読んでからのことだった。そこでの紹介は反体制(アンチキャピタリズム)的なアートであったし、アーティストとしてであったので、そうか……結局「芸術(アート)」なんだ……とシチュアシオニストが戦後の前衛芸術を批判するときのように、それら政治的なアートにも杓子定規に疑いの眼差しを向けることになってしまった。
 こうした政治的なアートを、アクティヴィズムとアートの外的な結合に過ぎず、体制に回収される道筋をつけられたものとしてスッパリ切り捨ててみたものの、やはり居心地が悪いのである。というのもそうした政治的なアートと呼ばれるもののなかに、ピンと来る作品やアクションが少なくないからだ。個人的にはグラフィティ(落書き)にはけっこうシビれるものがあって、ずいぶん昔のことだがニューヨークの鉄道車両のボディになされたペイントには驚いたし、日本でいえば新宿地下道のダンボール絵画なんか傑作だと思う。
 だがそれはアートだと紹介されているし、製作者自身も自らをアーティストと規定していたりで、それをどう考えたらいいものかと喉元にささった棘のようにずっと気になっていた。

 だが、シュカイティスの論考のおかげでやっとそのへんに整理がついたような気がした。つまりいわゆる政治的なアートと呼ばれるものを「芸術(アート)」ではなくて、すべて「芸術(アート)」の「転用」としてとらえ直してみるのである。いや、体制によって体制を自己肯定する表象へと転用されてしまった「芸術(アート)」を、再=転用・再=領有するものとして、と言ったほうが正確だろうか。
 そうすればもう、最先端の社会運動に見られるアートとアクティヴィズムの融合を、それが「芸術(アート)」であるという理由で断罪する必要もない。問題なのはそれがいかに既存の公共空間に鋭く楔を入れ、自律的な公共性を切り開く強度を持っているかであって、それがアートと名指されようが、サブカルチャーとかオタク文化と蔑まれようが全く構わないのだ。
 また、それが「転用」である以上、作品の永続的な美的価値(もちろん商品としての価値)は問題にならない。それはあくまでも状況の構築(情動の空間の構成)に奉仕しする限りで意味がある。芸術の言語を転用している以上、外観はいかにも「芸術(アート)」であるが、「転用」の実践は、「芸術」の脱構築と表裏一体であり、「芸術(アート)」と名指すことはできないものである。

 まあ、政治的なアートが「転用」であることなんかみなさんとっくにご存知で、今さらそんなことにはこだわってないだけなんじゃないか、って気がしないでもないが、やはり私は政治的なアート(=転用)と呼ばれるものを、はっきり旧来の芸術と区別しておく必要があると思う。というのも小沢健二も言っていたように「芸術(アート)」は罠だからだ。
 問題なのは、そうした「転用」の実践を、体制的で無害な「芸術」へと解釈することを促す磁場のようなものに、私たちはいまだに捕らえられ続けていることだろう。「転用」の実践は評論家などによって「芸術(アート)」へとカテゴライズされてしまう。グラフィティはグラフィティ・アートであり、パフォーマンスはパフォーマンス・アートとして解釈される。さらに「転用」の実践者自身が、自らをアーティスト=表現活動の専門家と規定し、情動の空間を構成する瞬間的なアクションから、作品の永続的な価値に重きをおく旧来の芸術のカテゴリー(表現の専門家/観客というスペクタクル的関係)の中に撤退していってしまう。多くの評論家や左翼論者がしている「芸術(アート)」という言葉の無神経な使用は、そうした回収の磁場を延命させることにつながり、そうするとき評論家自身「転用」の実践をよそよそしいスペクタクルとして眺めはじめているはずである。
 シュカイティスは「政治的な芸術とは、内容が政治的であるだけではなく、方法が政治的であり、その方法において、もろもろの思想やイメージ、諸関係などの慣習的な流通に即して、あるいはその流通に抗して機能するように設定されている。換言すれば、ストリートアートの形態が価値の転倒をはらむのは、たんにそれが路上で生じるからではなく(すでにストリートはウイルス的なあらゆるマーケティングの対象となり、スペクタクルによる回収は日常的なものである)、芸術制度と日用品製造の重層的にコード化された操作に抗う諸関係を開示するからである。」と書いているが、思想やイメージ、諸関係などの慣習的な流通に抗した「転用」のプロセスが「芸術(アート)」と名指される瞬間から、回収の磁場の影響下に入るのではないだろうか。
 むしろはっきりに政治的アート=アートとアクティヴィズムのあいだにおける異種交配は「芸術(アート)」とはまったく異なるものであることを強調すべきだ。この点についてシチュアシオニストは一貫して注意を払い続け、類似の運動との差異を際立たせつつ、運動の理論の純化に努めていた。VOL3号においてシチュアシオニストの活動は、アートとアクティヴィズムとのあいだの領域での抵抗の実践の1つの源流に位置づけられているが、むしろVOL3号を読む限り、今日このようなシチュアシオニストの問題意識は素通りされ、忘却されつつある事実を思い知らされる。宣伝する義理など私にはないのだが、アートの罠、回収への磁場から逃れるための羅針盤として、今こそシチュアシオニストの活動と理論を過去の1エピソードとしてではなく、重要な焦点として参照すべきなのではないかと思うのだ。


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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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 生年月日 1964年2月15日
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