泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: アート・建築・デザイン   Tags: グラフィティ  思想  芸術  

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ダンボール絵画についての覚書


 新宿のダンボール絵画を知ったのはいつだっただろう。90年代、新宿を歩く機会は少なくなかったはずだが、なぜか実物を見る機会はなく、雑誌に載せられた写真ではじめてお目にかかった。武氏の描いたものだと思うが、正直「俗っぽい絵だな」と思った。しかし、その俗悪な感じのダンボール上のペインティングに、いわゆる「芸術(アート)」のカテゴリーに通約できない何かを感じて、WEB上のダンボール絵画の画像をその後もときどき眺めたりした。徐々にその「俗っぽさ」を面白く感じ始め、いつのまにか機能主義的な都市の地下道に少々毒々しい彼らの絵が描かれたダンボールの住居が溢れてゆくイメージに鬼気迫るものすら感じるようになった。村上隆の作品をポストモダンだ、とか、クールジャパンだとか、小難しく論じてる奴らを横目で見ながら、すでに行政によって撤去され処分されたしまったであろうダンボール絵画のほうがよっぽどクールじゃん、と思った。多くの人が感じるようだが、私も「それにしてもこれは一体何なんだろう?」と思い、納得のいく解釈を欲した。
 当然ながら一般に、このダンボール絵画も「芸術(アート)」としてカテゴライズされ解釈されているだろう。なるほど野宿者の廃材による住居を作品の支持体に選んでいるところに武氏らの活動の政治性が際立っているにしろ、絵の具を使ったペインティングをアートとして理解するのは不思議ではないし、間違いでもないだろう。しかし私はこのダンボール絵画を、情動的空間の構成(状況の構築)の実践として解釈すべきだと思う。
 そしてそうである以上それは「芸術(アート)」とは、はっきり区別されなければならい。シチュアシオニストに従えば「状況の構築」に奉仕する作品活動は、芸術の「転用」であって、いまだ大手を振って流通している「芸術(アート)」とは似て非なるものである。ほとんどの左翼系論者もこうした空間を構成する政治的な表現をわりと無神経に「芸術(アート)」という言葉で言い表しているが、それによって表現=アクションは個人主義的な方向へ、たとえばダンボール絵画を武氏や山根、吉崎氏らの芸術的才能の発現としてスペクタクル化する解釈へと道を開いてしまう(でなければ、岡本太郎のように「絵でない絵」「芸術でない芸術」と、謎めいた言い方をするしかないだろう)。シチュアシオニストは、「芸術(アート)」というカテゴリーが叛乱的アクションを回収する装置になっていることを強く意識していた。それゆえ彼らの「状況の構築」の実践は、「芸術の脱構築」(=芸術から距離をとること)と常に背中合わせだった。ダンボール絵画の場合も「芸術(アート)」ではなく「芸術(アート)の転用」と解釈することで、スペクタクル的関係から逃れ、都市空間を万人によって生きられる場にすることにつながる理解も可能になってくるののではないかと思う。
 武盾一郎氏がそのような個人主義的な意識でダンボール絵画を創作していたのではないことは、本人の口からも語られている。

──かつての街頭の芸術的・政治的な動きというのは、寺山修司でも赤瀬川原平でもいいんだけど、寺山なら寺山というビッグネームとして残っている。でもまた90年代中盤に新宿駅西口で武さんの活動というものが始まったわけだけど、かつてと違うのは、特に武さんという固有名が脚光を浴びているわけではなくて、あれっ、また絵が増えたね、そういうリアクションだと思うんだよね。だから絵を描いている武さん自身も、さっきの文脈でいうと匿名化していると思うんです。武さんは「予感」という言葉を良く使うんだけど、受け取る側もその絵が描かれた理由やそれが何を意味しているのかではなくて、何となくその場の雰囲気でその絵を享受しているように思うんだけど。

 そうだね。週末があけて月曜日通ってみたら、あれっ、また絵が増えている、という感じ。でもその時は、僕はいなくてもいい、僕は、何ていうかその空間の中に溶け込んでいればいいわけですよ。(『路上画家(ダンボールハウスペインター)武盾一郎氏に聞く』)



 路上でのハプニングというと60年代の「ネオダダ」や「ハイレッドセンター」が思い出される。ヨーロッパから遅れること30年、日本に移植され根付いた前衛芸術が空前の盛り上がりを見せた時期で、その自体非常に面白いものだが、ダンボール絵画と同列に論じられないのは、前者があくまでも「芸術(アート)」のカテゴリーに収まるものであるのに対して、後者がそうではないことだ。まず、ダンボールを支持体とした絵画が作品としての永続やその商品化にはまったく無関心なものであるのは、言うまでもない。ダンボール絵画の作者たちは作品そのものには価値を置いていないし、あくまでもこの実践がテンポラルなものであることを意識していただろう。また「芸術(アート)」には注目を集めるヒーロー(ビッグネーム)がいて、一般大衆とは差別化されたタレントが専門的に表現行為をする、というスペクタクルの図式が基本的に成り立っている。その点、ダンボール絵画において武氏という個人は、匿名化することをすら目指している。武氏の語るところを聞く限り、その関心は空間を情動化することで都市空間に介入することにあり、芸術作品の創作には重心を置いていない。

 あの空間で描いた絵がどんどん増えていくこととは、そのストリートの空気や匂い全体を変えることで、自分を誉めるようだけど、それで空間が豊かになっていく、そういうふうな僕の目論見がある。(同上



このような「状況の構築」に奉仕する非個人主義的な作品活動をシチュアシオニストは芸術の「転用」として捉え、すでに資本によって領有され、叛乱の懐柔=回収装置として働いている「芸術(アート)」を再領有する試みと考えた。ダンボール絵画とはまさに芸術の「転用=再領有」の実践であって、60年代の路上の前衛芸術のアクションとはずいぶん意味合いが違うのである(もっとも前衛芸術自体、ブルジョワ芸術の制度を「転用」したものなわけだが)。
 それにしてもなぜあのような毒々しく俗悪な感じの絵が発想されたのかは知る由もないが、ダンボールに描かれた作品群は、機能主義的で高級化(ジェントリフィケート)した都市の地下道に対して独特な不協和音を響かせているのは確かだ。武氏は混沌とした人間生活の多様性に寛容な空間に惹かれるものを持っていた。野宿者たちの新宿地下道のダンボールハウス村にも多様で異質なものが混在する空間を見ていたようだ。

 そう、僕は、渋谷とか六本木じゃなくて、この新宿という街が好きなんです。何で好きかというと、新宿では、ピンクサロンの隣に八百屋があったりとかして、そういった風景が日常的なこととして受け止められる。それらはもしかしたらアジアっぼさということなのかも知れない。一見するとカオスっぼいんだけど、それなりの秩序が成立しているアジアのストリートでは、牛と自動車とオートバイとが一緒になってガーッと走っていたりする。(笑) 僕はそういった在り方に居心地の良さを感じるんです。そして、その新宿のストリートの風景の中でも特にあそこ(ダンボールハウス村)にひきつけられてしまったということなんです。(同上



 それは裏をかえせば、資本や行政による非寛容な都市空間の管理=同質化への憤りでもある。行政は公共空間というものを、人や物が効率的かつ潤滑に移動するための通路としてのみ、すなわち資本の論理においてのみ認め、それ以外の、資本の論理からこぼれ落ちた人々──(自助努力の不足や怠惰の結果だというのだが)プライベートな生活空間を確保する資金を持つことができないため公共の空間で生活するしかない人々(=臭い異物)が、そこに滞在することを疎ましいことと見ている。行政権力は野宿者に対して、強制排除やアーキテクチャによる遠まわしな排除を続けていた。民主主義社会における「公共空間」とは本来、すべての人に無条件に開かれた抗争/討議の場であるはずだが、実際には、資本が上から押し付けてきている差別的な「公共性」というものが、行政や警察の権力を後ろ盾に幅を効かせているのだ。むしろ公共空間は支配階級によって「私有化」しているといった方が適切である(こうした公共性をめぐる行政と民衆の対立は、いまも渋谷の宮下公園の運動などにおいて露出している)。

──そこで、やはり都市空間に対する認識の違いというものが、露骨に出てるんだろうね。要するに、通路は、歩くものであって、それ以外の機能を一切認めないという。

 それで、思い出したのが、大撤去の前、地下道構内アンウンスで、「この通路を本来の道に戻すために、それを邪魔している物体をどかします」というような内容のことが聞こえてきたんだけど。でも、道って本来、道草を食うためにあったり、いろんな人がすれ違ったり、出会ったり、立ち話もするところなわけでしょう。僕は、東京都当局の使う日本語は、おかしいと思うんだよね。(同上



 このような権力の統治の中に現れた異物は行政にとって、犯罪学で言うところの「割れ窓」であり、統治された空間に生じた裂け目である。日常化した支配的空間にポッカリと開いた異空間──それゆえ権力や、権力の統治のもとに生きる人達にとって不気味で不安や恐怖をもたらすのである。武氏自身もダンボールハウス村に「精霊」のようなものがいる、というようなことを言っているが、機能的な都市の真ん中に異空間が開いていたことを感じてのことだろう。

 そう、あそこに独特の気があるから、僕は、ダンボールに絵を描くことが多分出来るんだろうと思うんです。絵の描き方として、今まで1回も始めからこう描こうとか思ったことはなくて、それでも、もう200件近く描いているということは、やはりそこには、何かが「いる」ということなんだろうと思う。僕も、もしかしたら、シャーマン的なことをしているのかも知れない。(笑)だから、僕は、別に僕自身の世界を出そうとしているわけじゃないんですよ。あそこの気が僕の身体を通過して、この腕から絵が出て来る、と。あそこの中では、自分というのは、意志の無い存在であったりするんです。(同上



 武氏は支配的空間に開かれた裂け目(=割れ窓)に吸い寄せられるようにしてダンボールハウス村にたどり着き、そこで絵を描き始めた。そこでの武氏らの実践はその裂け目(=割れ窓)を──「芸術(アート)」の転用によって情動化することで──さらに別方向に引き裂き押し広げることだった。
 しかし、こうした統治する権力にとっての「割れ窓」を創り出すアクションこそ実は、真正な意味での「公共性」の創出だといえるだろう。ロザリン・ドイッチはこう書いている。

この私有(=支配階級にとって私有化された)空間を公共のものに変えるひとつの方法は、それ固有の意味を剥ぎ取り、その空間が意図していたものとは異なる諸目的のためにそれを配置することである、ということになる。この枠組みの中から見ると、公共空間は使用者のために造られた、あらかじめ構成された実体なのではない。それはむしろ使用者による日々の営為を通じて浮かび上がってくるものなのだ。(『民主主義の空隙』 ロザリン・ドイッチ)



 ダンボール絵画の面白さの源泉はここにあり、海外でよく見られるグラフィティと同じ機能を持っている。

……1970年代と1980年代のニューヨークのグラフィティは、公共空間の意味をめぐる論争において何が問題になっていたかを明らかにする。ウィルソンとケリングに代表される都市言説は、公共空間を脅かすものとしてグラフィティを扱う──つまりは割れ窓として。ド・セルトーにとって、グラフィティは、都市空間に押しつけられた固有の意味が置き換わりうる方法を提示するものである。すなわち、グラフィティは「都市のいくつかの部分を消去し、他の部分を拡大[誇張]する」。ド・セルトーの説を敷衍するなら、グラフィティは公共空間に入り込むのではなく、公共空間を造るといってよい。都市における排除が、社会調和という夢のなかで消失するのではなく、民主的異議申し立ての活動地域に入りうる領域を意味する限りにおいてではあるが。窓が光を通すように、グラフィティは、官による都市開発が外部に追放し、揉み消そうとする、まさにその都市の一角を可視化する。このような変形する力のある空間的実践は、社会空間に内在する不確実性に依拠し、またそれを曝け出す。それは空間を活気づけ、表向きの固定性から空間を自由にすることを可能にする不確実性である。パブリック・アートとして持て囃されている大方のものとは対照的に、公共空間を造る芸術は、事物が所与のものであり不可避であるかのように推移することを妨げる、中断する活動である。空間を公共のものにすることは、場所に隷属しない効果のパフォーマンスに依拠した公共空間の概念を扱う方法をもたらしてくれる。(同上



 落書き(グラフィティ)は68年5月のパリでも意識的に使われた、「状況の構築」のための空間的実践である。私たちは普段、通行人として権力によって一義的に押し付けられた「公共空間」を受動的に受け入れてしまっている。しかしダンボール絵画(グラフィティ)は、その空間に楔を穿ち、通行人の意識に揺さぶりをかけ触発し、民衆の空間を能動的に創りあげる可能性へと開くのだ。権力の末端の行使者の言葉は興味深い。

 ……それで、何日かたって、一番印象的だったのが「なあ、武よ、あんなところに絵があると、人々の勤労意欲がうせるんだよ」と。僕は、その言葉が、刑事個人の感想なのか、職務の一貫として出てきた言葉なのかわからないんだけど、一体何語なのかさっぱりわからなかった。(笑)。(『路上画家(ダンボールハウスペインター)武盾一郎氏に聞く』)



 言葉の問題だと言ってしまえばそれまでだが、こうした空間的な実践を「芸術(アート)」という言葉を使ってカテゴライズせざるをえない私たちのボキャブラリーの狭さに不毛さを感じ続けている。グラフィティにしろヒップホップ文化にしろ、そのブリコラージュ的な「転用」の実践は非常に痛快でエキサイティングだ。またそれらの「転用」作品に値がついて売れること自体、悪いことだとも思わない。が、こうした実践によって切り開かれた裂け目から垣間見えた異空間の残像を、スペクタクル化する通路(スター・システム)だけが私たちの前に明るく照らされている現実が、どうにもこうにも苛立たしいのである。
 グラフィティでいえば、キース・ヘリングやバスキアといった人たちは、もともと権力の統治空間を切り裂く犯罪的な「転用」の実践者だったはずだが、マーケットにすくい上げられ成功したアーティストになった。アンダーグラウンドで行われているこのような諸実践は、マーケットからは新奇なスペクタクルの生まれ来る苗床としてリサーチの対象になっている一方、実践者たちの活動も(経済的な問題もあるだろうが)アーティストとしての成功がドライヴするようにと横滑りしてゆく。
 このように資本主義体制のもと個人主義的な成功(上昇)への圧力は弱まる気配すらない。それにたいして私たちは(専門化したアクター/受動的なオーディエンス)というスペクタクル的関係の退屈さを人々に思い知らせることが出来るような、面白い実践──シチュアシオニストによれば「生きること」──を日常生活の空間の中に溢れさせていかなければならないだろう。
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荒井賢 (Ken Arai)

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