泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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リセットはもういい

一時帰国の2日前のことだったので、私自身は震度5だか6だかの揺れを経験することはなかったが、帰国中、余震とテレビなどの映像で大災害の片鱗を味わった。原発の方はまだ予断を許さない(かなりヤバイ)状況にあるので、災害は不気味に現在進行形であり、回顧するのはまだまだ時期尚早なのだが、新聞やネットなどの外国メディアによる震災の報道は興味をそそる。例の、災害に直面した日本人の冷静さや秩序だった行動に驚き、感嘆する調子の報道だ。パニックになることもなく、手を差し伸べあい、略奪行為のような利己的な行動に走ることもない。この強靭さがあれば日本は間違いなく急速に復興するだろう。われわれも日本人に学ばなければならない、、、と、なにか私たち日本人の自尊心をくすぐるような報道が各国のメディアにより行われている。まあ、日本人なら誰でもある程度地震に慣れているという事実を差し引いても、「そんなすごいことはやってないのに」と正直思うだろう。
 このことに関して、大震災の衝撃を受け、被災者のみならず多くの人が「災害モード」に入っているという事情は、ひとつ考慮に入れておく必要がある。阪神大震災のときもそうだったが、眼を覆いたくなるような災害の光景は日常性に亀裂を入れる。普段僕たちが受け入れ(させられ)ている世知辛くよそよそしい役割と競争の関係が、自然の暴力によって引き起こされた残酷な光景を前にして幻のように後退してゆく。政治的に言えば、権力が演出している支配の空間は災害によって一時的に引き裂かれ、風穴を開けられるのである。その時私たちはよそよそしい人間間の距離を越えて、隣人の困難に手を差し伸べるようになり、被災地から遠く離れた人まで「何かしなくては」と居ても立ってもいられなくなる。一部の左翼の人が細々と続けてきた情動空間の創造の試み、横の関係に基づく自律的な空間(コミュニティ)の構築を、災害は瞬時にかつ大規模に成し遂げてしまうのだ。あえて不謹慎な言い方をすれば、災害は現代社会における「祭り」なのである。とりわけ日本のような先進国では伝統的な「祭り」は戯画的なスペクタクルとなって久しいし、唯一真正な「祭り」であるべき社会運動=革命が、この国ではあまり盛り上がることがないため、時折訪れる自然の暴力への対応が唯一私たちに「祝祭モード」への転換の口実を提供してくれるのだ。そのおかげで普段、真面目だが淡白で人間味に乏しいと言われることが多い日本人が、災害時には、外国人からすると見違えてしまうのではないだろうか。
 しかしながら、惨劇を前にしてのこうした人間性の高揚を差し引くと、災害にあたっての日本人の秩序だった行動が、他者を慮った無私の行動であるというようなきれいごとだけでは語れないことを、日本人自身や日本をよく知る人ならわかっているはずだ。日本人は(私もそうだったが)「他人様(ひとさま)に迷惑をかけてはならない」という道徳を子供のころから叩き込まれる。この「他人」というのは、特定の誰彼というよりも、世間一般、、、漠然とした「われわれ」のことであり、その集団的な意向に背くことは許されない。私たちはこうした集団主義のコマンドを刷り込まれ、その規範を逸脱する者がないかと、やんわりとした目に見えぬ相互監視の息苦しさの中に生きている。「われわれ」が大災害に会い危機に瀕しているときに、混乱をもたらすエゴイスティックな行動など許されようもない。秩序を守って列に並び自分の番が来るまでおとなしく待つのも、無私の精神からくるポジティヴな選択によってなされているわけではなく、自分たちにはどうしようもないミエナイチカラが睨みを効かせているため、諦念とともにそうした状態を受け入れているのだ、、、という解釈のほうがピンと来るだろう。もちろん、不要な混乱が災害の拡大につながる場面で秩序が求められるのは当然で、この点で日本人の集団主義はプラス方向に働いているのは間違いない。きっと私たちは家族や友人を失った悲しみや困難を乗り越え、すみやかに復興への道を歩むのだろう(原発という恐怖の大魔王についてはとりあえず横に置いておくが)。が、「他人様(ひとさま)に迷惑をかけてはならない」というコマンドは肯定的な倫理にはなり得ず、個人の権利のようなものは集団の中に埋没し、なにか救われないようなもどかしさが残るのだ。
 たしかに「災害に粛々と立ち向かう姿に日本人の底力を見た」みたいな外国人の慰めの言葉は、痛ましく引き裂かれた傷口には優しい。が、私たちはそれを聞いて悦に入っているわけにはいかないだろう。今回の震災は日本人が味わう開国、敗戦以来の大きな危機(サード・インパクト)なのだという。そしてこの危機は3度目の奇跡への転機になるだろうというのだが、考えてみると私たちはいつも黒船だの、敗戦だの、大災害だの外的なきっかけ(外圧)がないとモードチェンジができていないのだ。しかもこうした劇的な「キャラ」の変化、「祝祭モード」は復興が進み淡々とした日常が戻ってくるとともに消滅してゆくだろう。こうしたリセットなしに、長い停滞や閉塞感を日本人は内側から自分の力で打ち破ったことがあっただろうか? どうも外部からの薬物注入の瞬間を待ちわびるジャンキーのようなだらしなさを感じてしまうのだ。
 日本人は、感情的になると周囲の人たちに迷惑がかかるので感情を押し殺し、悲しくてもそれに耐えてやるべき事をやっている、と外国人は賞賛するが、むしろ私たちが求めるべきは、相互監視的な集団主義の重い鎖を振り切る努力だろう。まずは、悲しい時には人目をはばからず慟哭することであり、憤りを感ずれば正面からぶつかり合い、楽しい時には腹の底から笑い合うという当たり前のことができるようになることなのではないか? 日本ではパニック時に略奪が起こらない、というのだが、経済的な格差のせいで普段商業施設に溢れている商品にアクセスを禁じられている人々が、秩序の混乱に乗じて略奪を行うことは、理解しがたいことではない。むしろそうした行為を「火事場泥棒」として道徳的にひたすら断罪する社会のほうに不健康なものを感じてしまう。革命とは略奪でなくてなんだというのか? 道徳は僧侶階級の権力維持ツールだとニーチェは喝破していたが、「他人に迷惑をかけない」というコマンドはまさしく奴隷道徳なのではないのか? こうした集団主義が支配している限り、賞賛すべき秩序だった復興は、外国人にはエキゾチックな驚異なのかもしれないが、私たちにとっては結局のところ旧来のシステム、旧来の権力関係、階級関係の再建でしかないだろう。丸山眞男をひっぱたくために戦争を待望する、と言ってた人がいたが、ひょっとして今こそその時なのではないのか。
 つまり日本人がなさねばならないのは、3.11の大災害(サード・インパクト)による大規模なリセットなんかではくて、もっとミクロな自律=集団主義の匿名的な支配との粘り強い闘いを、停滞の中で、平凡な日常の中で続けていく、より地味で厳しい道なのだと私は思う。

 こうした口当たりの良い論調に抗して。

Comments
 
 おひさしぶりです。


>日本人は(私もそうだったが)「他人様(ひとさま)に迷惑をかけてはならない」という道徳を子供のころから叩き込まれる。この「他人」というのは、特定の誰彼というよりも、世間一般、、、漠然とした「われわれ」のことであり、その集団的な意向に背くことは許されない。私たちはこうした集団主義のコマンドを刷り込まれ、その規範を逸脱する者がないかと、やんわりとした目に見えぬ相互監視の息苦しさの中に生きている。「われわれ」が大災害に会い危機に瀕しているときに、混乱をもたらすエゴイスティックな行動など許されようもない。

 この個所、わたしがいらだっていたものが言い当てられていて、痛く共感しました。


 リビアの事態をまなざしながら、ガダフィを<独裁者>と見、人々の革命行動を称賛するその同じ人たちが、経済的な格差の中で略奪を働いた人を、糾弾するとき、ほんとうにわけがわからない。


 そんなことを読んでいて思いました。


 
 
chihiroさん 
こんにちは。コメント有難うございます。

とある報道なんですが、

「まず、大地震直後に、無人のコンビニなどで発生していたとされる盗難について、「日本人はいつからこんなにマヌケ、せこくなったのか。死体から何かとったり空き巣に入ったりさ、ああいうの撃ち殺していい」とキツイ一発。たけしさんにしてみれば、それくらい非道な行為に思えるということなのだろう。」

、、、なんてニュースがありました。盗んだ人たちがどんな人達なのかは知りませんが、こういう一見高潔な道徳的説教は、このタレントや私たちが属しているシステムそのものの非道さを隠蔽してしまう面を持ってるわけです。まずはそっちの非道さに憤ってしかるべきだと私など思ってしまいます。

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荒井賢 (Ken Arai)

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