泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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自己肯定の自画像

 内田樹の研究室 『階層化=大衆化の到来』 を引き続き読んでみた。読んでみたら、僕の前のエントリーで取り上げた『ニーチェとオルテガ 「貴族」と市民」』がどんな脈略で書かれたのか………ニーチェの読みがずいぶん通俗的だなあ、ってことがまず気になったんだけど、オルテガに託して内田さんが語っている部分が、どんな意味合いを持っているのかわかった。

 内田さんは苅谷剛彦という人の説に寄り添いながら論を展開する。おおざっぱにまとめてみると………。日本社会は厳密に言えば、学歴社会=業績主義ではなく、それ以前の社会的条件によって学歴社会のステージにあがるためのモチベーションにすでに差があって、現実には業績平等主義は働いていない。
 つまり、下層階級のダメ親の元で育った子供は、ダメ親の影響を受けて、そもそも学歴社会の競争に乗っかる気があまりないので、競争の機会の平等というものの、やる気がないのだから最初から差がつくのは目に見えているようなものだと………。
 で、さらにこの格差は開く一方だという。というのは学歴社会の競争を降りた子は、それによってなぜだか、自己有能感を得るからだ………

「相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、『将来のことを考えるより今を楽しみたい』と思うほど、『自分は人よりすぐれたところがある』という〈自信〉が強まるのである。同様に、(…)社会階層の下位グループの場合にのみ、『あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない』と思う生徒(成功物語・否定)ほど、『自分は人よりすぐれたところがある』と思うようになることがわかる。」
つまり、「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」

 そこから導かれる暗澹たる結論は次のようなものである。
「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。」



 こうして内田さんは例の「自己肯定」とか「自己満足」という言葉で定義されたオルテガの大衆論に、階層化した日本社会の分析を接続するのである。つまり階層の二極分化の進行の結果生まれ、どんどん増殖してくるであろう「大衆」=自分以外のいかなる権威にもみずから訴えかける習慣をもたず」、「ありのままで満足している」ことを「大衆」の条件とした。オルテガ的「大衆」は、自分が「知的に完全である」と思い上がり、「自分の外にあるものの必要性を感じない」ままに深い満足のうちに自己閉塞している……=「バカ」が登場し、蔓延するのを………その「大衆」の「自己肯定」はファシズムにまで行き着くらしいのだが………内田さんは背筋に寒いものを感じながら怯えている、ということらしいのだ。
 この状況に対してどうすべきだと内田さんが考えているのかは知らないが、気味悪いのは、臆面もなく表明された体制エリートとしての内田さん自身の「自己肯定」である。

 「大衆」の対称点にあるのは、「貴族」であり「エリート」だ。つまりこの内田さんの文章中にでてくる、学習意欲を持って努力する生徒、学歴社会のシステムの土俵の上で競争に励む「上層階級」である。「下層階級」がオルテガのいうところの「勝ち誇った自己肯定」をする「大衆」に接続されたように、「上層階級」はオルテガのいうところの「貴族」や「エリート」に接続される。そしてその具体像は『ニーチェとオルテガ 「貴族」と市民」』において詳しく展開されている。曰く………

 自己充足と自己閉塞のうちにあるこの大衆の対蹠点に、オルテガは「エリート」を対置する。「エリート」というのは、まことに誤解を招きやすい語だけれど、オルテガによれば、その特性は自己超越性と自己開放性にある。
 「すぐれた人間をなみの人間から区別するのは、すぐれた人間は自分に多くを求めるのに対し、なみの人間は、自分になにも求めず、自己のあり方にうぬぼれている点だ、(・・・)一般に信じられているのとは逆に、基本的に奉仕の生活を生きる者は選ばれた人間であって、大衆ではない。なにか卓越したものに奉仕するように生をつくりあげるのでなければ、かれにとって生は味気ないのである。(・・・)高貴さは、権利によってではなく、自己への要求と義務によって定義されるものである。高貴な身分は義務をともなう。」

「私にとっては、貴族とは努力する生の同義語であって、つねに自分に打ち克ち、みずから課した義務と要請の世界に現実を乗りこえてはいっていく用意のある生である。」

オルテガがたどりついた結論は「努力」とは「自分自身との不一致感」によって担保されるという、平明な事実であった。
おのれのうちに「埋めがたい欠落感」を抱いている人間はそれを埋めようとする。
「ことばにならない欲望」を抱いている人間はそれを「ことばにしよう」とする。
おのれのうちで「聞き慣れないことば」が語ることを知っている人間は、「聞き慣れないことば」を語る他者からその意味を知る術を学ぼうとする。

オルテガのいう「貴族」とは、畢竟するところ「自分のことがよくわからず、自分が何を考えているのか、何を欲望しているのか、ついに確信できない人間」のことである。

オルテガが「貴族」という語に託したのは、外形的な「人間類型」や「行動準則」のことではない。
そうではなくて、自分の行動もことばもどうしても「自分自身とぴたりと一致した」という感じが持てないせいで、そのつどの自分の判断や判定に確信が持てない。だから、より包括的な「理由」と「道理」を求めずにはいられず、周囲の人々を説得してその承認をとりつけずにはいられず、説得のために論理的に語り修辞を駆使し情理を尽くすことを止められない…
という「じたばたした状態」を常態とする人間のことをオルテガは「貴族」と言ったのである。
自分が単独で生きている経験そのものがすでに「見知らぬ人間との共同生活」であるようなしかたで複素的に構造化されている人間だけが、公的な準位で「見知らぬ他者との共同生活」に耐えることができる。
つねにためらい、逡巡し、複数の選択肢の前で迷う人間。
オルテガはそのような「複雑なひと」のことを「貴族」と呼び、「市民」と呼んだのである。




 ………それにしてもこの「貴族」って一体誰のことだろう? ひょっとして内田先生自身のこと? って思ってしまうのは僕だけではないだろう。「貴族」/「大衆」という分類は、実在について語ってるのではなく、人間の内面のファクターであるってことなんだけど、いずれにせよ内田さんが、学歴社会のシステムの競争の土俵から降りてしまった人は、自己肯定、自己満足、自己閉塞という特徴をもつ、無神経で傲慢な「大衆」の要素を抱えていて、システムのカリキュラムを辛抱強くこなし、勤勉で、努力する人こそ「貴族」の要素をもっているのであり、それは社会のために奉仕する「自己開放性」なのだ、と言いたいのは間違いないだろう。

 ようするに内田さんが認める存在は、現行の教育システムを受け入れ、肯定し、その土俵の上で競争を演じる、真面目かつストイックに努力する勤勉な人、なのであって、そこからなんらかの形で逸脱し競争から降りてしまう存在は、認めがたい危険な存在だと決めつけられてしまう。享楽的で、努力をしない怠け者として否定されなければならないはずであるにもかかわらず、どうしたことかそいつらは「自己肯定」してしまい、放っておけばその「自己肯定」や「自己満足」はオルテガのいう「大衆」のごとくに増長し、あげくの果てには「ナチズム」に到達しかねないというのだ。
 内田さんの議論をまとめれば、階層化を放っておけば、システムを否定する「バカ」が増え、ファシズムが再来するぞ! ということになって、それに対する処方箋は、と言うと、そのような取りこぼしのないシステムをつくる、ってことになるのだろうか? つまりすべての人、すべての子供を学歴社会の土俵に乗せ、努力させ、競わせることのできるシステムの構築しかあり得ないんじゃないだろうか? これはまた見事に産業社会の要請に応えた回答ではないか。(ま、これはぼくの勝手な想像なわけだけど、当たらずとも遠からずってとこじゃないかな?………。)

 ニーチェの誤読以前に、薄気味悪い論の展開がここにある。システムに従順で、一縷の疑問をもたずに刻苦勉励する人間がそんなに偉いのか? システムを降り、現在を享楽的に過ごすことにネガティブな評価のみを下せるのか? そこにポジティブな可能性を探ろうとする努力もなく、何をもって一方的に、競争のシステムから降りた人を、勝ち誇った自己肯定をする「大衆」なんてものに直結してしまえるのか? 本当に内田さんが自分が単独で生きている経験そのものがすでに「見知らぬ人間との共同生活」であるようなしかたで複素的に構造化されている人間であるというのなら、そのような努力もなしに、システムから逸脱した人間を「大衆」だとか「バカ」呼ばわりすることはできないんじゃないだろうか………、正直言ってここにあるのは、自分自身の乗っかってきたシステムを疑うこともなく、苦悩し、逡巡し、迷いながら生きる繊細かつ複雑な人間として自らを描きうる、臆面もなく無邪気で、勝ち誇った体制エリートの「自己肯定」以外のなんであろうか。ここにあるものこそむしろ「排除」であり、「差異化」であり、「断絶」であり、「内輪の言語」ではないのか。そしてこのような態度こそ、自分とは異質な者と対話を試み、ある種の公共性の水準を構築し、コミュニケーションを成り立たせようとする指向が欠如している………としか僕には思えないのだ。
 このような言葉が、何冊も本を出してる大学の先生の口から吐き出されていることに、むしろ僕は背筋が寒くなる。いや、大学の先生(御用教授)だからこそいえるのかもしれないが………。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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