泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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希望格差社会

 内田樹氏の本は読んだことがないのだけど、名前だけはネット上でよく見かけたため知っていた。とても好意的な評価があちこちで見かけられた。構造主義についての本を出しているのも本屋で見たことがある。僕自身はと言えば、不勉強なことに、構造主義の本など一冊も読んだことがなく、入門書なんかでボンヤリとイメージを持ってる程度だった。
 内田氏のブログにニーチェという文字が出ているのを知って、これなら何とかなるかもしれない、と思って『ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」』を読んでみたのだ。するとニーチェの解釈が通俗的なのにビックリ、また他のエントリーの内容も、エーッ !? って感じで、これが大学の先生なのか? と思った。
 僕は、構造主義というのはてっきり反近代の、っていうか、システム批判の思想だとばっかり思い込んでいたので、内田氏の文章の中に見え隠れする、体制的な言説にちょっと虚を突かれてしまった。
 それ以上に驚いたのは、それらのエントリーについてるトラックバックやコメントが、ほとんど内田氏の書いたものを絶賛していることだ。そんなバカなことって………と思ったけど、ま、そういうもんだよな。あらためて僕は自分がマイノリティであることを思い知らされた。常日頃、マイノリティとしての道を突き進むべきだ、なんて言ってるにもかかわらず………忘れてしまうんだよ、自分の立場ってものを。
 相手にしてくれるわけでもなし、いつまでも内田氏の語る言葉にひっかかっているつもりはないのだけれど、もう一つだけ別のエントリーに食いついてみたい。『希望格差社会』というエントリーだ。

 『希望格差社会』というのは山田昌弘氏の本で、これも僕は読んだことがないのだが、内田氏のエントリーに引用されている文を読むかぎり、どうも胡散臭さ満点の本である。内田樹氏はこの山田氏の社会分析を共感をもって紹介する。

 

「言いにくいこと」がはっきり書いてある本である。…………(山田氏は)「若者が社会的弱者になりつつある」ということと、「やがてこの弱者たちが社会に危険をもたらすであろう」ということの二点を指摘している。



 社会的弱者になった若者が危険? ……内田氏はまた何に怯えているのだろう? 山田氏の『希望格差社会』という本の内容を強引にまとめると、現代の日本は「リスク社会」であると、そしてそのような社会では、自身でリスクをヘッジできる能力の高い強者と、生活能力の低い弱者とに階層分化がおこる、ということらしい。これは僕もいつだか読んだことのある、ネオリベラリズム権力下の人間のあり方を思わせる分析だ。この社会においては何事も自己責任において行われなければならない。つまり………

 

自分のことに対しては、自分が決定する。これが自己決定の原則である。そして、自分で選択したことの結果に対しては、自分で責任をとる、これが『自己責任』の原則である。リスクの個人化が進行するということは、自己決定や自己責任の原則の浸透と表裏一体である。リスクに出会うのは、自分の決定に基づいているのだから、そのリスクは、誰の助けも期待せずに、自分で処理することが求められている。
 失業したり、フリーターになったりするのは、自分の能力の問題である。離婚したのは、離婚するような相手と結婚したからである。(………)リスクが避け得ないものとなると同時に、個人は、そのリスクをヘッジすること、そして、生じたリスクに対処することを、個人で行わなくてはならない時代になっている。



 ………ということだ。かつては社会の内部にあった中間共同体(例えば、国民国家や地域共同体や血縁集団や「親方日の丸」的企業など)が、ある程度リスクの受け皿になっていた。しかし、構造改革の流れの中で、このような中間共同体はもはや破壊されつくされてしまった。………内田氏はそのへんの事情をこう説明する。

 

 戦後日本はひたすら「中間的なセーフティネット」を破壊してきた。
都市化・近代化で、まず農村的な地域共同体と血縁集団が破壊された。
しばらくは「親方日の丸」的な企業が終身雇用と年功序列制によって失われたこの共同体を代補した。
 だが、「社畜化」したサラリーマン男性が家庭より企業に優先的に帰属感を抱いているうちに、最小の血縁集団であった核家族が解体してしまった。
 ポスト産業社会化とともに、サラリーマンにとっての最後の共同体的よりどころだった企業も解体して、とうとう「中間的共同体」が何もなくなってしまった。
まるはだかにされて、正味の個体の生存能力をフル動員して生き延びるしかない、リアル・ファイトの闘技場に私たちは放り出されたのである。

 

 このような熾烈な競争状態におかれた個人は、その生活能力によって「勝ち組」と「負け組」に分かれ、例えば「勝ち組」の男はやはり「勝ち組」の女を配偶者に選ぶだろうし、「負け組」は「負け組」同士でパートナーを見つけねばならなくなるだろうから、子孫の代までもこの格差は引きずられ、さらには差は開くばかりとなる。つまり………

リスク社会は「勝つ人間は勝ち続け、負ける人間は負け続ける」というフィードバックを繰り返して短期的に二極に分化する。



 ………というのが、「リスク社会」において階層の二極化が進むメカニズムだ。その結果、出現する暗鬱な未来は山田氏によってこう描かれる。

 夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である。全ての人が希望通りの職に就けることはあり得ない。『一生』大学教員になれない博士課程入学者は年に一万人ずつ、『一生』上場企業のホワイトカラーや技術職につけない大学卒業生は、多分、年に数万人ずつ、『一生』中小企業の正社員にさえなれない高校卒業生は、年10万人ずつ増えてゆく。これに呼応して、正社員と結婚するつもりだが、一生結婚できないフリーター女性は、年20万人ずつ発生していくのである。(………)
 いつかは受かるといって公務員試験を受け続けても、三十歳を過ぎれば年齢制限に引っかかる。どうせ正社員に雇ってくれないからと就職をあきらめ、単純作業のアルバイトをしていた高卒者は、仕事経験や能力が身に付かないまま、歳だけとり続ける。よい結婚相手に巡り会えないからと結婚を先延ばしにしていた女性は、四十過ぎれば見合いの口もかからなくなる。当の若者は、考えると暗くなるから考えない。若者自身が、不良債権と化すのだ。(………)
 結婚や子供を作ることなく、高齢を迎える元フリーターの中年男性、女性が100万人規模で存在する社会はどのようなものになるだろうか。



 もっともらしいようでもあり、ホラ話のようでもある、ずいぶんと断定的な分析なのだが、ようするに、このままではいまの若者は不良債権化(生活を保護しなければならなくなり、そのような生活に陥った不満から犯罪を起こすことを考えれば、治安コストも必要になる………)してしまう。どうやら内田樹氏は、そのせいで若者が危険をもたらすと言っているようだ。
 まあ、それはいいとして、じゃあ、どうしたらいいか? が問題である。山田昌弘氏の議論を用いながら内田氏はこうまとめる。

 「私は、リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的支援によって作り出せるかどうかが、今後の日本社会の活性化の鍵となると信じている。(………)
 能力をつけたくても資力のない者には、様々な形での能力開発の機会を、そして、努力したらそれだけ報われることが実感できる仕組みをつくることである。(………)
 学校システム、職業訓練システムでは、これくらい努力したら卒業、もしくは、資格をとれば、これくらいの仕事に就ける、収入が得られるという保障をつけたメカニズムをつくるべきである。」(241頁)
 なるほど。
 もうひとつの提案はもっとシビアだ。
 「自分の能力に比べて過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策をとらなければならない。そのため、過大な期待をクールダウンさせる『職業的カウンセリング』をシステム化する必要がある。」(242頁)
 この「過大な期待を諦めさせる」ということは子どもを社会化するためにたいへん重要なプロセスであると私も思う。
これまで学校教育はこの「自己の潜在能力を過大評価する『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」ことをだいたい十数年かけてやってきた。
中学高校大学の入試と就職試験による選別をつうじて、子どもたちは「まあ、自分の社会的評価値はこんなとこか…」といういささか切ない自己評価を受け容れるだけの心理的素地をゆっくり時間をかけて形成することができた。
 しかし、「オレ様化」した子どもたちは、教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない。
彼らは過大な自己評価を抱いたまま、無給やそれに近い待遇で(場合によっては自分の方から「月謝」を支払ってまで)「クリエイティヴな業界」に入ってしまう。
「業界」そのものは無給薄給でこき使える非正規労働力がいくらでも提供されるわけだから笑いが止まらない。
自己を過大評価する「夢見る」若者たちを収奪するだけ収奪して、100人のうちの一人くらい、力のある者だけ残して、あとは「棄てる」というラフな人事を「業界」は続けている。
 時間とエネルギーを捨て値で買われて、使い棄てされる前に、どこかで「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」というカウンセリングが必要なのだけれど、そのような作業を担当する社会的機能は、いまは誰によっても担われていない。



 そして内田樹氏の結論はこうだ。


 重要なのは「哲学」だと私は思っている。
人間の社会的能力は「自分が強者として特権を享受するため」に利己的に開発し利用するものではなく、「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」、その成果をひとびとと分かち合うために天から賦与されたものだ。
そう考えることのできる人間たちによって、もう一度破壊された「中間的共同体」を再構築すること。



 驚かざるを得ないのは、内田氏自身が日々たずさわっている教育の機能が、「過大な期待を諦めさせる」ことや「自己の潜在能力を過大評価する『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」ことにある、なんてことを堂々と告白なさっていることだ。確かに内田氏はある意味、教育の機能を正しく認識しているといえるかもしれないが、何のためらいもなくポジティブにこう語られてしまうと少々ビビってしまう。現実的に学校教育が、若者のためになされている、なんてナイーブなことは言わないにしても、建て前でもいいから学校のセンセーには「君たちの未来のために働いているんだ。」ぐらいのことは言って欲しいものなのに、内田氏によると「君たちの未来への熱い夢をクールダウンさせ、システムの秩序を維持するために働いているんだ。」ってことらしい。
 僕自身のことも含め、すべての職業のことを突き詰めてゆけば、こういうニヒルな認識に到達するのは確かだ。(例えば自動車産業は、殺人、環境破壊のマシーンをつくる産業だ、といった感じに)しかし、自分の仕事が子どもたちに「まあ、自分の社会的評価値はこんなとこか…」といういささか切ない自己評価を受け容れるだけの心理的素地をゆっくり時間をかけて形成すること、だなんて公にできる教育者ってどうなんだろう? 内田氏の下で学ぶ学生はこれ聞いてどう思うんだろうかと心配してしまうのだが………。しかも「オレ様化」した子どもたちは、教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない、だなんてケチまでつけてるし………。確かにクリエイティブ業界なんてものはインチキだ。そんなの3ヶ月も働いてみればハッキリわかるだろう。だからって社会システムを安定的に維持させるために、若者の人生にもっと否定的に介入しなければならないってのはいかがなものだろう? 「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」というカウンセリングが必要だ? 大きなお世話じゃないか!
 それにしても、「過大な期待を諦めさせる」なんて言い方で教育について語る山田、内田、両氏のポジションはもう明らかに高みから若者を見下ろしたそれであり、人をコマのように配置する社会政策を云々するエリートの政治的な視点であることは確かだ。この人たちにとって人間とはシステムのためにあるものなのだ。本来、人間のためにこそシステムはあるべきものなのに………。

 このふざけた議論の結論は、破壊された中間的共同体を再構築することだっていうんだけど、そのような共同体は何によって破壊されたのかと言えば、それは「競争」によってでしかあり得ないだろう。
 歴史的にも、「競争」こそが、相互扶助的な共同体の絆や連帯をバラバラの個人に分断し孤立させてきた当のものである。したがって、この苛烈な競争社会の中に、「中間的共同体」を再構築しようとする試みは、どんなやり方をするのか知らないけど、たぶんスタートからして躓かざるを得ないんじゃないだろうか。

 つまり、問題にしなければならないのは、「リスク社会」がはらむ階層化への不安などではなく、「競争社会」そのものなのだ。結局のところ内田氏は、「競争社会」の是非についてはまったく不問にし、この「競争社会」のシステムをどのようにしたら維持できるのか、ということについてのみ心を砕いている。
 しかし僕らが問題にし、吟味と批判の俎上に載せなければならないのは、「競争」すること、そして競争の結果得られるもの………富、社会的地位などといったものの価値、さらに競争を強いる社会の真の目的………無制限の利潤の追求という資本主義的な価値感………などに他ならない。
 であるにもかかわらず、内田氏や山田氏が行っているのは、経済的な格差のみで、勝ち/負けを判断するという月並みな人生観をそのまま受け入れ、競争そのものを無条件に肯定するとともに、競争に敗れた社会的弱者を「不良債権」だなんて言い放って、何やら迷惑で、疎ましい存在にまで貶めることだ。そして、この「不良債権」をなんとかするために早めに手を打っておかなければ、危険だと……。
 え? 何が危険? ………つまりこの「競争社会」のシステムが機能不全に陥る暗澹たる未来が訪れかねない(だって階層の二極化が行き着くのは大衆化でありファシズムだと内田氏はいうのだから。)………詮索だと揶揄されるのをのを怖れずにいえば、内田氏自身が肯定し、乗っかってきた競争社会のシステムが崩壊する=このシステムの規範に従い努力をしてきた内田氏の自我の支えが崩壊する………という危険を怖れているのではないだろうか? この山田氏や内田氏による社会分析と提言はひょっとして口ほどにもなく、「自分が強者として特権を享受」し続けるためになされているのではないだろうか? こないだと同じようなことを繰り返すことになるけど、社会的弱者を「不良債権」なんて呼ぶ態度はどうしても「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れる」なんて言葉とつながってくるとは思えないのだ。

 だが、「競争社会」を批判の俎上に載せたところで、社会がひっくり返るわけじゃないし、問題が解決されるわけでもない。システムは僕らの想像をはるかに超えて堅牢かつ柔軟だ。システム批判の叫びやアクションの一つや二つ、痛くも痒くもないだろう。だが、僕はそうし続けねばならない、と思う。それはシステムの規範を踏みにじることであり、ある意味、競争を降りることだ。したがって、けっして競争社会における強者たり得ないだろう。むしろ、マイノリティとして弱者への道を突き進むことなのかもしれない。だが、それが僕の「哲学」であり、人間の社会的能力の利用の仕方であり、迂遠だけれど、私たちが将来に「希望」をつなげることのできる唯一の道なのだと思うのだ。
 まあもっとも、内田氏だったらこんな僕の立場を大衆の自己肯定=ファシズムと理解するのかもしれないが。

 以下参考ブログ

     生存適者日記

     Demilog@はてな

     格差ムチャクチャ社会(『希望格差社会』その1)

     階層化について思った雑文

     「現実肯定」社会の行方

Comments
 
くだらない年長者に付かざるを得ない若者は不幸だ】
 初めてコメント差し上げます。荒井さんのblogは時々読ませていただいています。そして、勉強させていただいています。
 最初に断っておきますが、僕はほとんど本を読みません。読んだと言えば、若い頃に三島や漱石、鴎外など学校で読まなくてはいけない本くらいです。もうずいぶん昔なので内容もほとんど思い出せません。こんな僕ですが、教育者でもあるらしき山田氏、内田氏(「らしき」と言うのはお二人とも知らないからです)のこの薄っぺらい論述には腹が立つやら情けなくなるやら・・・。このような価値観を家の息子には植え付けないでほしい。まぁ、大丈夫だろうけど。
 彼らの自信に満ちた論文には、もっともな事もありますが、如何せん思考が薄っぺらいので「ボタンの掛け違い」のごとく、それらの分析と論理の構築が曲がってしまっています。また、彼らの若者を見る眼力は絶対であり、間違いがないと言う事らしいですね。これは想像でしかありませんが、このような浅い眼力でいくつもの才能を潰してきたのでしょう。こんな事を書くと二人に反論されるかもしれませんが「では、なぜ僕はあなたの論に同意できないのでしょう?」と聞きたい。その答えを知りたい。
>「しかし、『オレ様化』した子どもたちは、教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない。」
 なぜ「受け付けない」かを「『オレ様化』した子どもたち」と片付けている時点で教育者としての能力が無いと感じてしまう。彼らこそ「下方修正」するべきだと言いたいですね。
>「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」、その成果をひとびとと分かち合うために天から賦与されたものだ。
 いろいろ書いてきた結論がこうなるとは驚きです。どこから引用したのかわかりませんが「分かち合う」と言う事が本当にわかっているのでしょうか? そこには上下も差別も区別もなく「私に与えられた力はあなたのものでもある」と言う事だと思うのですが、彼らは「勝ち組(と思っている)」である自分たちの社会を中心に捉えているようです。
 元々本を読まないので彼らの本を手にする事は無いでしょうが、彼らの考え方を知る事ができ勉強になりました。ありがとうございました。
 
chankin1さん、はじめまして。書き込みありがとうございます。
えてして保守派の思想っていうのはこんなもんなんでしょうね。それにしてもこの内山田の両先生のような方々が、人気があって本も売れ、マスコミまでにぎわせていることに唖然としてしまいます。『希望格差社会』というこの本も話題になっていたみたいなので読んでみようかな、なんて思ってたんですけど、その必要はなさそうですね。
リンクを貼っておいた、『格差ムチャクチャ社会』という記事、痛快に山田先生をブッタ斬ってくれちゃってます。まだでしたら是非お読みください! それでは。
 
再び・・・です。(^_^;)
butterflyjoeさんの『格差ムチャクチャ社会』も読ませていただきました。ほんとうに彼の投稿は痛快で共感もできるます。
また勉強させてください。
 
だいたいねぇ・・・
『マスコミでも話題になるような、学者が書いた本なんてのはそもそもろくな本があったためしがない』
ような気がしませんか?
 
おしゃる通りです。結局、彼らはタレントですよ。本物っていうのはいつも目立たず、ひっそりと道ばたに咲いているのさ。………え? 本物って誰? ひょっとしてボキ? (嘘)。
毎週やきもきしながら、テレビでサッカーを観てるんですが………やっと勝ったよ。ヤレヤレですよ。ようやく浦和もエンジン始動ってとこですかねえ?
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秀 さん、こんにちは。トラックバックありがとうございます。1つは削除しておきました。秀 さんのエントリーの内容も読ませていただきました。少し考えてお返事したいと思います。少々お時間を………。
 
希望格差社会、読みました。とても面白かったです。
>内田氏の自我の支えが崩壊する
というところは、すこし深読みかな?と思いましたが、
でも、たぶん、正しいと思います。
また面白い文章を載せて下さい。
 
kenkenさん、感想ありがとうございます。
ま、確かに私も「内田氏の自我の支えが崩壊する………」と思ってるわけじゃないのですが、あんまりな文章に思えたので、からんでみました(笑)。これからもヨロシクです。
 
こんにちは、はじめまして。トラックバックさせて頂きました。
http://d.hatena.ne.jp/snusmumrik/20050429
 
こんばんは。内田氏の「希望格差社会」について、僕なりの考えをエントリーしました。
どこにTBしようか迷いましたが、結局ここになっちゃいました。

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荒井賢 (Ken Arai)

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 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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