泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: アート・建築・デザイン   Tags: 思想  芸術  岡本太郎  

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岡本太郎は芸術の終わりなき脱構築の実践者である その2

 岡本太郎はアンドレ・マルローとの対談の中でこんな発言をしている。

 「だけど、芸術家が、もし真に”自由”であるなら、なにも無理して絵を描く必要もないんじゃありませんか。」
 「それにしても、なぜ芸術家が商品をつくらなければならないのか。それが現代の一番の問題だとおもいますよ。」
 「芸術家にとっては、自分の死後、自分の作品が残るのこらないはどうでもいいことじゃありませんか。むしろ残さないという意志も芸術家にはあるのですよ。芸術が残っていてどういう意味があるのだろう。作者がそのとき、現時点においてつくったということが絶対の時間、瞬間なのであって、 作品が残る残らないは、作者が考えるべきことではないと思う。」


 芸術作品の価値を擁護するマルローに対して、岡本太郎は作品的に「無」であることの意義を執拗に主張し、噛み付いている。岡本太郎のイメージは、一般的にはストレートにポジティヴな芸術の礼賛者であり、非常に生産的な芸術家だと思われているのではないかと思うが、意外なことに作品的には「無」であることを意識的に選択したシチュアシオニストのような発言をしているのである。(とくに『曼荼羅頌』というエッセイでは、太郎の芸術に対する距離感がまざまざと表明されている)また逆に、そんなこというなら何で岡本太郎は絵や彫刻をせっせと作ってたわけ? という疑問も出てくるかもしれない。

 芸術家の両親を持ち、本場フランスで自分を磨こうとしていた岡本太郎にとって芸術は彼の全てであったはずであり、だからこそその意味についても悩んでいた。前衛芸術の仲間たちや知識人たちと交わり、触発され、前述のパリの暗い映画館での決意──安全な道と危険な道の岐路に立たされた場合、危険な道を選ぶ──に至るのだが、おそらくそのとき太郎は自分が「芸術」といかに関わるかについて一定の解を得たのではないかと思う。
 そのとき岡本太郎はスペクタクル化装置としての「芸術」──成功と失敗、作品につけられた値段の序列が織り成す、ブルジョワジー(資本)によってアレンジされ始めた価値の空間──の外部にはっきりと立ったのだ。危険な道を選ぶのであれば、成功や喝采は(ましてや金は)追求すべきものではないだろうし、あえて失敗することを望むかもしれない。それどころか「作品」を作らないことすら意志することもありうるだろう。この地点において太郎は「芸術」を自分から突き放すことに成功し、以降「芸術=作品」は、彼にとって自ら「危険な道」を歩むための手段としてのみ是認されるものになったのではないかと私は想像する。
 つまりこの危険な道を選ぶという岡本太郎の実践は、同時に「芸術」(のスペクタクル)の解体(=脱構築)の一面を持っているということだ。これはシチュアシオニストの「状況の構築」の実践が、同時に芸術の脱構築でもあることとまったく同じである。ということはシチュアシオニストにとって「状況の構築」に奉仕する作品は「転用」と呼ばれたように、岡本太郎の「芸術」は、実は「芸術」の「転用」──スペクタクル化した「芸術」の、「危険な道」を歩むための手段への「転用」なのである。こんなことは誰も言ったことがないかもしれないが、有名な太郎の絵画「森の掟」や「明日の神話」は「転用」絵画である。ドゥボールの映画が「転用」映画であるように、「太陽の塔」は「転用」モニュメントであって、「芸術」ではないのである。もちろん岡本太郎は「転用」という言葉を用いず、あくまでも「芸術」という言葉で自分の活動を表現しようとしていた。それで彼は「芸術」という言葉の定義のほうを変えて、「芸術ではない」芸術(太郎の言葉を借りれば「絵でない絵」)という言い方をしなければならなかったのだ。

 近頃、アンチ資本主義的な文化的アクティヴィズムのなかで岡本太郎が最評価されている。芸術の商品化が問題になったのは今に始まったことではない。が、金融資本主義のカネ余りの投資先としての「芸術(アート)」がクローズアップされているなんていう悲惨な時代において、芸術の無償性を主張し続けていた太郎を評価する理由は痛いほどよくわかる。
 繰り返すがそのような岡本太郎の理解は間違いではない。しかしそこから浮かび上がってくる太郎のイメージには、どうも気の抜けた炭酸飲料を飲まされているような甘ったるい物足りなさを感じてならないのだ。岡本太郎には一筋縄ではいかない、容易に舌が受け付けられぬ「苦さ」があって、そういう苦味がどこかに飛んでしまっているのだ。この飛んでしまった部分とは、「芸術」への斥力であり、「芸術」を「脱構築」しようとすればほとんど生理的に生じてくる「芸術」への距離感である。
 それはシチュアシオニストの理解に関しても言える。シチュアシオニストを反体制的パフォーマンス・アート集団であるかのようにみなして、例えばフルクサスなんかと並べて論じたりしているのを目にするのだが、これもまったく同様の取り違えに基づくものだ。シチュアシオニストが運動の内外に対して結構なビター風味だったのは御存知の通りで、「状況の構築=芸術の脱構築」という運動の方針を理解しない者には、内部からは除名という形で、外部に対しては類似の文化的アクティヴィズム(プロヴォやパンクなど)への批判という形で、厳しく対処していた。
 一般に反資本主義の文化的アクティヴィズムは「芸術」との関係ではオプティミカルであり、運動の手段として「芸術」をポジティヴに活用している。定式化すれば「運動+芸術(アート)」という形になるだろう。一方、岡本太郎やシチュアシオニストは「芸術」への絶望──「芸術」そのものがスペクタクル化の装置になってしまっていることへの絶望──からスタートしていて、「芸術」から距離を取ろうとするネガティヴな「脱構築」のベクトルに貫かれている。このような差異はたぶんスペクタクルという概念の理解の差異に関わっていると思われる。木下誠氏によると

「スペクタクル」とは、単に権力やマスメディアが大衆に与える政治的-社会的イヴェントとしての「見せ物(スペクタクル)」とか、スターや人気商品を情報や広告・宣伝を大量に用いてこの社会での生き方のモデルとして提示する「イメージの大量伝播技術」といった狭い意味に限られたものではない。「スペクタクル」とは、政治や経済、生産や消費から個人の生活や趣味、人間関係に至るまで、すべてのものを動かす仕組みとして、「表象」に支配された「近代」社会を根底的に支える本質的構成原理である。


 ……ということで、スペクタクルの原理は資本主義社会の上に「イメージの大量伝播技術」として覆い被さっているようなものではなく、想像以上に私たちの生活の奥深くまで食い込み、ほとんど資本主義そのものの謂となっているのである。そこから、岡本太郎やシチュアシオニストは「スペクタクル化装置となってしまった芸術はもはや資本主義批判に使えない」という絶望的な認識を引き出しているのである。つまり彼らにとっては「運動+芸術(アート)」という定式はナンセンスであり、「運動=芸術の脱構築」という定式にとって変えられねばならない。そしてもしこの定式の中に「作品」が入り込むとすれば、それは「転用」作品なのであり、「芸術」ではない。しかしその差を見抜けるのは、「スペクタクル」という概念の深い意味をを見抜ける、前述の「目利き」だけでなのだ。
Comments
 
数年前フリーダ・カーロ展がありましたが「添え物」である夫君ディエゴ・リベラがカーロやシケイロスを凌駕する表現者ではないかと驚嘆しました。ブルジョワで共産主義者でスケベオヤジである点も高ポイントです。あとはつぶやき。
http://www.diegorivera.com/murals/
●デリダ(ハイデガー)は哲学が「西欧」という限られた地域の歴史性に規定された極めて特殊な知のあり方である事を喝破したが美術/絵画という表現/観賞形式もまた相同である。
●岡本太郎やディエゴ・リベラの様に非西欧的周辺に出自を持つ表現者にとって西欧=絵画は伝統的共同体にとっての異物であり外部から強制されたものであった。ここに彼らの二重の意味での「よるべなさ」がある。
●しかしリベラはメキシコ革命と結びつくことにより「壁画」という表現形式を自家薬籠中のものとした幸福な表現者であり、革命なき日本の岡本の孤独は察するに余りある。
●壁画は好事家により収集、秘匿されることの無い(不可能ではないが)公共空間に置かれ、反対者から汚物を投げつけられ、削り取られることもある。シケイロスがあまりの妨害に作品を放棄したことすらあるように存在自体が闘争である。
バルタンさん 
最近、ニューヨークなんかのグラフィティに興味を持っていて、そのルーツの1つはメキシコの壁画運動だということなんですが、アングラな感じのするニューヨークの壁画に比べて、普通にすごいですよね、メキシコ。青空の下にああいう絵画があるのがすごい。

>デリダ(ハイデガー)は哲学が「西欧」という限られた地域の歴史性に規定された極めて特殊な知のあり方である事を喝破したが美術/絵画という表現/観賞形式もまた相同である。

これ、ちょっと気になってるとこ。実はいま「存在と時間」をちびちび読んでいます。ハイデガーっていうと神秘的な存在の哲学って先入観を持ってたんですが、読んでみると、「あ、現象学じゃん」という印象です。訳がいいのか、意外とすらすら自分の中に入ってきます。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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 職業 アニメーション背景制作
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