泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
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1票の力より、反-力な祭りにこそ意味がある

 3・11後の東京での反原発デモに対して、お祭りみたいなデモやってるより、被災地へ行ってボランティアしろよ、みたいな喧伝を右翼がしているのをネット画像で見た。右翼って真面目なんだなと思った。ま、右翼はともかく、反原発デモは迷惑だからやめるべきだと発言した代議士がいたり、デモをする若者に対して、失業の増大を招く自爆デモだと説く経済学者などがいたりで、万単位の参加者を数えた、日本では近年まれに見る規模のデモにたいして、いろんなケチがついている。
 でも足元をすくわれた気がしたのはこれ↓。

政治家を動かすのは票の力

 シンポジウムの逐一をここで紹介することはできないが、いくつか興味深い考察があった。たとえば、4月10日に高円寺で行われた反原発のデモのビデオが映された。おもに若い人が集り、コスプレあり、音楽ありの、ロックフェスティバルのようなデモだ。主催者の発表によれば、参加者は1万5000人とかなりの規模だ。
 これをどう評価するかという司会者の質問が、まず日本人の私に向けられた。私は、「将来デモが国民の間に定着し、ドイツのように老若男女が参加するようになるとは思わない」と答えた。「デモという表現手段は、そもそも日本人のメンタリティーに合わない」、「日本人が反原発を主張するなら、デモ以外の方法を考え出さなければいけないだろう」。
 それを受けて、フォリアンティ-ヨスト教授が言った。「たしかに、このデモは借り物のように見える」、「メルケル首相が脱原発に方向転換をしたのは、政治的圧力、つまり、支持者を失うという危惧が芽生えたからだ。しかし、日本のこのデモは政治的圧力になり得ない。なぜなら、この若者の大半は選挙に行かないからだ」。
 何と分かりやすい説明だろう。政治家を動かすのは票の力なのに、多くの日本人はその権利を端から放棄してしまっている。これでは、デモはただのお祭りでしかない。だから、マスコミもまともに取り上げない。

「感動的演説」のもと脱原発法案が可決したドイツで、「日本の高円寺デモは政治的圧力にならない」とクールに切り捨てられた理由  川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」


 つまり若者による高円寺系の反原発デモは全く無力で、そんな事やったって原発は止まりゃしないよ、お祭りしてないで選挙へ行けよ、って、右翼の喧伝とよく似た構図なのである。脱原発の方向性を民意で勝ち取ったドイツ人はたしかに偉大だと思う。が、そのドイツ人に「このデモは借り物のように見える」とか言わせて、日本の若者のアクションを貶めているこの川口さんとやらのやり方には大きな疑問を感じる。 
 議会の決定がなければ原発は停止しない、代議制民主主義の手続きに則り、1票の力を行使せよ、というのは間違いでも何でもないが、この若者たちが選挙に行かないことや、マスコミがこのデモを取り上げないのは、ただのお祭りでしかないからだ、という判断には根拠らしいものは示されておらず、高円寺系のお祭りデモの中に、日本の若者の政治的無気力や不能さを、この人が勝手に読み込んでいるということでしかない。デモはそもそも示威行為であり、社会の矛盾を可視化し、力へと変えてゆく方法であって、スタイルはどうあれそれが全く無力であるなどとは言えないし、さらにマスコミの沈黙に関してはむしろ違う解釈をすべきであり、マスメディアの中立性や良心を前提にしたこうした主張は、(とりわけ3・11以降)ナイーブ過ぎて問題にならない。
 よしんばお祭りデモの若者たちが1票の力の行使を放棄していると仮定したとしても、それが政治的な無気力につながるとは必ずしも言えない。そもそも高円寺系のデモの意義は、力の行使にあるのではなく、反-力(アンチ・パワー)な「祭り」であるところにこそある。1999年シアトルの抗議以降のデモのスタイルは一部でそうした方向へ大きく変わっており、高円寺、渋谷、先日の新宿でのデモもその延長にあるのだが、その意味するところが理解されていないのではないか。
 上にあげたようなトンデモな人たちはともかく、もうちょっとまともなところ、、、例えば国会議員の河野太郎が、「デモをしているだけじゃダメなんで、(反原発の)仲間が大勢いることを確認したら、地元の政治家の事務所におしかけて、原子力発電に対する姿勢を問いたださなければならない」と言っていた。有権者に向けた政治家の当然の発言ではあるが、デモそのものの意義はほとんど問題にしていないのがわかる。また社会学者の宮台真司がデモ会場でスピーチに立って、「デモなんかしても原子力村は痛くも痒くもない」として東芝や日立製品の不買運動を奨励していた。珍しくこの人の「一極集中型の巨大技術社会から自然エネルギーと共同体自治へ」の話に共感を持ったものの、やはりデモそのものへの関心は薄いことを強く感じた。
 つまりこの人達にとって政治とは「力」であり、議会における票の争いがすべてであって、政治の場面において民は「数」であるべきと考えているのだろう。ある種の特権的な地点から俯瞰的に社会を見下ろすときわれわれ民はアトム化し、小さな1票の力だったり、合理的あるいは不合理に振舞う消費者なんてものにまで切り縮められて、個々人のトータルな実存の重みは消滅してしまう。ところがエリートである彼らはそうした政治や知の権力性に自覚的、あるいは無自覚に同一化し、一般のわれわれにも「数」であることを求めるのだ。それに対して高円寺系のデモはむしろ「数」の論理から切り捨てられた実存のエモーショナルな要請に応える「祭り」として行われている面が強い。しかし、そのことをもって反原発デモに参加する日本の若者の政治的意識の低さを結論付けるのは間違いだと言わなければならない。
 高円寺では何年も前から「素人の乱」によってこうしたお祭りデモが小規模ながらおこなわれてきた。「放置自転車撤去反対」「電気用品安全法反対」「家賃をタダにしろ!」など、いろいろな主張を掲げてデモが企画されたが、どちらかといえばそれは口実であり、むしろデモ隊による「都市空間の占拠=路上解放」こそが目的だった。これは、デモという従来の(古臭い)政治的抵抗の手法を「転用」することにより、街路(ストリート)を「再領有」しようとする実践だと考えることができる。
 われわれの都市(公共)空間は高度に資本主義的に組織されていて、機能性、効率性のためにつるりと舗装された直線的な自動車道路が幅を利かせ、そのうわべを商業的な広告やデザインが埋め尽くしている。バブルの頃からか、街並みがお洒落で清潔なものに変っていったが、それは消費資本主義に適応していないマイノリティや、消費のステージに上がれない貧者の居場所を奪うような遠まわしな圧力にも思えて、都市の公共空間は非常によそよそしく、非寛容な、そこで行うべきこと/行ってはいけないことを暗に決められた息苦しい空間へとじわじわと変貌してきた。
 このように資本主義システムの生産および再生産に最適化されてしまっている街路(ストリート)を、システムの意のままに受動的に使うのではなく、システムからはみでた自分たちの欲望に沿った形で使用する(再領有する)=「革命後の世界を先取りする」状況の構築の実践、、、これはシステムに対して侵犯的な性格を持ったきわめて政治的なアクションなのである。さきの反原発デモはこの「素人の乱」のデモの拡大版である。放射能への不安や、原発事故以降暴露されてきた現実への危機感が、多くて数百人の参加者しかいなかった高円寺のデモに桁違いの参加者を集めてしまったのだろう。
 しかしこう説明すると、「反原発」はお祭りデモの口実に過ぎないのか、と考える人も出てくるかもしれない。が、もちろん「原発」と資本主義は深く結びついている。経済的な力を持った権益者たちが社会制度を自分に都合のいいように作り、維持してゆくのが資本制の特徴のひとつであり、その権益の維持や強化ために、彼らはありもしないニーズ(スペクタクル)を作り上げることで無産者を支配するという手管を弄するのであるが、いうまでもなく電力会社を中心とした利権構造は典型的な資本制のそれである。高円寺系のデモが資本主義を標的にしたものであるなら、間違いなく原子力発電もその射程に含まれるのだ。
 反-力(アンチ・パワー)の祭りには、直接的に原発を停止する力はないには違いない。だがそれは1票の力の集積のように現実を動かすのではなく、資本主義的に組織された空間(スペクタクル)をある時間にわたって切り裂くのだ。ちょうど地震と津波が日本社会にのしかかった電力利権の巨大怪獣の脇腹を一瞬にして切り裂いたように。自然の暴力によってスペクタクルに生じた亀裂がどれだけわれわれの日本社会の見方を変えてしまったか、多くの人が今も生々しく感じているだろう。スペクタクルが切り裂かれるとわれわれも覚醒し、自明であったことに疑問符がつけられ、システムへの問い質しを迫られる。そしてこの傷口の衝撃は社会全体に広がり、具体的な社会構造の転換へ向かって動き出すきっかけになるのだ。
 スペクタクルという言葉を知っている人にとっては、マスメディアは中立などではなく権力に奉仕する機関であることは常識である。3・11以降、その事実はあまりにも鮮明に、かつ滑稽に白日の下に晒され続けている。マスメディアは自らが国民をたぶらかしてきた電力利権の巨大怪獣の一器官であることを忘れたまま、国民に対して報道の正義を貫いているつもりになっている。マスメディアが反原発デモに関して沈黙し、まともに取り上げない理由は、社会構造の転換を阻むマスメディア自身のこうした体制翼賛的な役割から理解されなければならないのは当然のことのはずだが、日本の若者の政治的意識やデモの程度の低さへその理由を落し込むような議論を聞くと、逆にスペクタクルの並々ならぬ力を感じてしまう。
 同様に、スペクタクルのベールが剥げた政府や官僚、電力会社や経済界もメディア以上に滑稽な姿を曝している。パックリと開いた脇腹の傷などないかのように、両手を広げてニッコリ笑いながら「どうしたの? 大丈夫、大したことないって、、、さあさあ、はやく復興しなくっちゃ、、、さっそく原発の再稼動だー!」などとこの利権怪獣は宣っているのだが、傷口からは血まみれの内臓が垂れ下がっていてどう見ても大丈夫じゃない。脱原発だなんてわれわれが言おうものなら「ダメダメ、原発ないと電気代が上がって、企業が去り、失業者が増えちゃうよ」という破れて解体しかかっている原子力スペクタクルを前提にした脅しや懐柔の言葉をいまだにふりまいている。こんな無様で滑稽なシステムの姿を目に焼き付けることができるのは、震災が切り裂いた亀裂のおかげである。しかしどうもこの怪獣は笑顔で事態の深刻さをごまかしながら、事故処理の不手際ぶりからは想像もつかないほど素早い手さばきで、はみ出た内臓を無理くり腹に収めて傷口を縫合しはじめているようだ。まだまだこいつは生き延びようと必死なのだ。この亀裂を閉じさせてはいけない。目先の利益だけを貪欲に追いかけ、未来への責任など持ち合わせていないこのスペクタクル怪獣には引導を渡す時なのだ。閉じゆく傷口を別の方向に引き裂き新たな亀裂を作り出し、われわれにのしかかっていた怪獣の重みから自分たちの生きる空間を奪回し続けなければならない。そのために、われわれが受け入れさせられている自明性を係争に投げ入れる高円寺系のデモのような実践が必要とされるのである。
 6月11日、新宿東口には束の間の解放区が出現した。普段は通勤通学、ショッピングなどのために受動的な形で使われている空間が、エモーショナルなコミュニケーションの広場に変った。歌があり、踊りがあり、いろんな出会いもあったと思う。夜、スタジオアルタビルの壁にプロジェクターで政府への要求を映し出すという面白い試みもあった。たいした事やってないと言う人もいるだろうが、かつてこの新宿という労働と消費の中枢に位置する空間を、何千人という数の人で、このような使い方をした事なんて一度もなかったではないか。きっと、デモ参加者はこの空間を占拠し、独占的巨大マスコミ企業の看板番組のスタジオの入ったビルの壁をジャック(転用=再領有)することの痛快な面白さをみんなで分かち合っていたんじゃないだろうか。いや、それでもまだこのデモでふるわれた剣はスペクタクル怪獣の固い皮膚をまだ大きく切り裂くにはまだ弱いのかもしれない。しかし、デモの参加人数があと一桁二桁増えたとしたら、、、とてつもないことが起こるかもしれない。今度はいっそのこと、永田町や霞が関、東電本社あたりのメルトダウンする日本の中枢をジャックしてしまえばいい。


Comments

こんにちは。


 「ある種の特権的な地点から俯瞰的に社会を見下ろすときわれわれ民はアトム化し、小さな1票の力だったり、合理的あるいは不合理に振舞う消費者なんてものにまで切り縮められて、個々人のトータルな実存の重みは消滅してしまう。」


 という言葉に痛く共感しました。


 共感ついでにこんな記事も書いて見ました。御笑覧くださればうれしいです。

 http://d.hatena.ne.jp/chihiro625/20110720/1311142590
chihiroさん
コメント有難うございます。ご指摘の言葉は小田亮さんの「日常的抵抗論」からの受け売り? です。chihiroさんのブログの記事の内容からしても一度目を通しておいて損はないと思います。

http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/mokuji.htm

ひょっとすると、とっくにご存知かもしれませんが。

ではでは。
 いえ、はじめて知りました。ありがとうございます。

 小田さんという方は、文化人類学(?)の畑の方ということでどのようなことを述べているのか、興味がわいてきました。

 すこしずつ読んでみたいと思います。
 
そう、文化人類学の
人です。chihiroさんの書いてるものを読んでブリコラージュというレヴィ=ストロースの概念を連想しました。

って、私もまだレヴィ=ストロースのレの字も読んでないので、これから勉強します。トホホ。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。


 

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