泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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センセーそれはあんまりじゃございませんか………その2

 内田樹氏は『階層化=大衆社会の到来』というエントリーにおいて、苅谷剛彦という人の議論を援用しつつ、山田昌弘氏の社会的弱者と化した若者の不良債権化という問題にもうひとひねり付け加える。つまり、不良債権化した若者のようにシステムの周辺や外部にいる人たちが自己肯定するというメカニズムについて述べるのである。

 この階層分化が急速に進んでいるのは、「インセンティヴが見えにくくなることは、学校での成功から降りてしまう、相対的に階層の低いグループの子どもたちにとって、あえて降りることが自己の有能感を高めるはたらきをももつようになっている」(210頁)からである。
 不思議なことだが、「勉強しない」という事実から自己有能感を得る人間が増えているのである。これについては苅谷さんが恐ろしい統計を示している。
 私たちは「勉強ができない」子どもは「自分は人よりすぐれたところがある」というふうになかなか考えることができないだろうと推測する。ところが統計は微妙な経年変化を示している。もちろん、いまでも勉強ができない子どもが有能感をもつことは少ない。しかし、階層間では有意な差が生じている。
「相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、『将来のことを考えるより今を楽しみたい』と思うほど、『自分は人よりすぐれたところがある』という〈自信〉が強まるのである。同様に、(…)社会階層の下位グループの場合にのみ、『あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない』と思う生徒(成功物語・否定)ほど、『自分は人よりすぐれたところがある』と思うようになることがわかる。」(198頁)
 つまり、「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」(199頁)


 「学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱すること」すなわち「競争」を降りることが逆に「競争」を降りた人の自己肯定につながっている………。これはとても大事なポイントだと私も思う。例えば登校拒否児が学校へ行かない自分を肯定するときのように、ここには反システム的な自己価値化への契機があると思うからだ。資本の押し付ける一元的な「競争」の価値観の外部へ視野がここから開かれるのだ。(これについては後ほど詳しく述べよう。)ところが、内田氏はこの事態を「ねじれ」であると断罪する。本来「競争」を降りた人間は否定されるべきである。なのにこいつらはどういうわけだか自己肯定してしまう………そんなバカなことってあるだろうかってわけだ。 ようするに、内田氏にとってこのような価値の反転はあってはならないことなのだ。そして、内田氏のこの憤懣は劇的な形で展開してゆく。

 苅谷さんは97年の統計に表われたこのような「ねじれ」は1979年段階では見られない点を指摘している。
階層間で自己有能感形成のメカニズムに差異が生じたのは、ごく最近の現象なのであり、それは強化されつつ進行しているのである。
そこから導かれる暗澹たる結論は次のようなものである。
「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。」(211頁)
 どうして、「学びから降りる」ことが自己満足や自己肯定に結びつくのか、その理路はわかりにくい。けれども、このような状況は決して「いまはじめて」起きたことではないように思われる。私は苅谷さんが指摘したのと似た状況を記述したテクストを読んだ記憶がある。それは今から75年前にスペインの哲学者が書いた『大衆の反逆』という書物である。


 階層化の進行という事態に加えて、システムをはずれた人間の「自己肯定」という奇妙な事態が起こる。で、内田氏はこの「自己肯定」という言葉だけをたよりに、この問題をニーチェの貴族/畜群論、そしてオルテガの大衆論へと強引に接続するのである。
 内田氏のニーチェ解釈は研究者にはあるまじき通俗的なものだが、それは問題にしないでおこう。内田氏がニーチェを持ち出してきた理由は、ニーチェの言うところの「貴族」の特質が「勝ち誇った自己肯定」である、って言葉が必要だったからにすぎない。そしてどこか傲慢なにおいのするこの「勝ち誇った自己肯定」という言葉を、先ほどの「競争」を降りた人間の「自己肯定」と重ね合わせることで、オルテガの大衆論へとつなげる………そのための連結器としてニーチェを利用しているに過ぎない。
 オルテガの言うところの「大衆」の特質は、「競争」システムを降りた人間のあり方を示すものとして引用されるのだが、これを読めば内田氏がどのようにシステム外部の人間を見なしているか、いかに彼らを不審に思い、信用せず、軽蔑しているかってことがよくわかると思う。オルテガの「大衆」の特質を内田氏のエントリーから書き出してみよう。

「いま分析している人間は、自分以外のいかなる権威にもみずから訴えるという習慣をもっていない。ありのままで満足しているのだ。べつにうぬぼれているわけでもなく、天真爛漫に、この世でもっとも当然のこととして、自分のうちにあるもの、つまり、意見、欲望、好み、趣味などを肯定し、よいとみなす傾向をもっている。(・・・)大衆的人間は、その性格どおりに、もはやいかなる権威にも頼ることをやめ、自分を自己の生の主人であると感じている。」

「勝ち誇った自己肯定」はニーチェにおいては「貴族」の特質とされていた。オルテガにおいて、それは「大衆」の特質とみなされる。
ニーチェの「蓄群」は愚鈍ではあったが、自分が自力で思考しているとか、自分の意見をみんなが拝聴すべきであるとか、自分の趣味や知見が先端的であるとか思い込むほど図々しくはなかった。ところが、オルテガ的「大衆」は傲慢にも自分のことを「知的に完全である」と信じ込み、「自分の外にあるものの必要性を感じない」まま「自己閉塞の機構」のなかにのうのうと安住しているのである。
ニーチェにおいては貴族だけの特権であったあの「イノセントな自己肯定」が社会全体に蔓延したのが大衆社会である。

自己肯定と自己充足ゆえに、彼らは「外界」を必要としない。
ニーチェの「貴族」は「距離のパトス」をかき立ててもらうために「劣等者」という名の「他者」を必要としたが、オルテガの「大衆」はそれさえも必要としない。彼らは「外部」には関心がないからだ。

「今日の、平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことに関して、ずっと断定的な《思想》をもっている。このことから、聞くという習慣を失ってしまった。もし必要なものをすべて自分がもっているなら、聞いてなにになるのだ?」

いまや大衆が権力者として「判断し、判決し、決定する時代」なのである。彼らは彼らの判断の妥当性を基礎づける上位審級をもう要請しない。

「サンディカリズムとファシズムの種族のもとに、はじめてヨーロッパに、理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、ひたすら自分の意見を押しつけるタイプの人間が現れたのである。(…)理由を持たない権利、道理のない道理である。」


 ようするに聞く耳を持たない、傲慢で自分勝手なものとして「自己肯定」する存在の特質が描かれている。それに対して、オルテガの「貴族」とか「エリート」の概念を内田氏は示す。それは明らかに「競争」のシステムの中心に留まり、あくまでもそのシステムを肯定するものの立場、内田氏自身がそうであるところの人間の姿である。長くなっちゃうから引用はしないが、興味ある人は直接内田氏のエントリーにあたって欲しい。(ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」

 この記述は以前にも指摘した通り、内田氏自身の、あるいはシステムの中心に位置する「エリート」の自画像である。実に美しい言葉のオンパレードだ。自己超越性と自己開放性、奉仕の生活、「自分とは違うもの」を同一の共同体の構成員として受け容れること、「自分と異質な他者と共同体を構成することのできる」能力、対話する力、努力する生、つねに自分に打ち克ち、みずから課した義務と要請の世界に現実を乗りこえてはいっていく用意のある生……などなど、である。そういう人は自己中心的で傲慢な「大衆」と違って、迷いや苦悩ももっている。「自分のことがよくわからず、自分が何を考えているのか、何を欲望しているのか、ついに確信できない人間」であり、「じたばたした状態」を常態とする人間であり、自分が単独で生きている経験そのものがすでに「見知らぬ人間との共同生活」であるようなしかたで複素的に構造化されている人間であり、つねにためらい、逡巡し、複数の選択肢の前で迷う人間である。
 臆面もなくとはこのことだ、と思わずにいられないのだが、間違いなく御本人の口からでた言葉である。自分はエリートとしてこのような逡巡と苦悩の生を送っているが、それに対して「競争」の努力を降りたものたちは、はっきりいって………

 思想家たちは、「邪悪な人間」と「バカな人間」のどちらを優先的に憎むかによって、二つのカテゴリーに分けることができる。「バカ」を「悪人」よりも憎むタイプの思想家たち(ニーチェ、ハイデガー、ポパー、フーコー)の系列にオルテガも間違いなく属している。
アナトール・フランスの「愚か者は邪悪な人間よりも始末が悪い」という金言を引いたあと、オルテガはこう続けている。「邪悪な人間はときどき邪悪でなくなるが、愚か者は死ぬまで治らないからだ。」(階層化=大衆社会の到来)


 ………死ぬまで治らない「バカ」である。暗示的にではあるがそうおっしゃっている。内田氏の怖れるのはこの「バカ」の増殖した大衆社会の到来である。

 ニーチェにおいて「貴族」の特権であった「勝ち誇った自己肯定」が社会全体に蔓延した状態、それが、オルテガの「大衆社会」なのである。(現に、『大衆の反逆』の刊行の一年後に、ニーチェの「貴族主義」を看板に掲げた20世紀最悪の「大衆運動」がドイツで政権の座に就くことになる)


 つまり、内田氏の考えのなかでは、かたや、不良債権化した若者=システムを逸脱した人間=勝ち誇った自己肯定をする大衆=ナチ(ファシズム)=「バカ」という系列があり、「競争」システムにの中心にいるもの(内田氏自身?)=「貴族」「エリート」という系列と対峙しているのだ。もちろん内田氏が認める人間は後者である。すなわち業績主義的な競争原理に則って、学習意欲を持ち努力する人間である。このような人は努力するだけでなく、奉仕し、対話をし、逡巡し、苦悩するといった具合にとても人間的に描かれている。逆に前者の人間は、そのような努力をせず『将来のことを考えるより今を楽しみたい』、「現在の享楽を志向」する人間として、描かれている。
 ようするに内田氏が認めるのは、禁欲的で勤勉な人間、近代資本主義のエートスを内面化した人間なのだ。そのような労働倫理を逸脱するものは、享楽的、浪費的、非生産的で破廉恥な穀潰し的存在として端からネガティブな存在として危険視されている。それは妄想的にファシズムにまで到達するほどの危険視だ。このような一方的な危険視を私たちは普通「排除」とか「自己閉塞」と呼ぶ。
 
 私がなぜ内田氏の言葉を素直に受け入れられないかというと、ご自身では自分の立場を「自分とは違うもの」を同一の共同体の構成員として受け容れるなんてホスピタリティあふれることを言ってるくせに、システムを逸脱する存在(他者)を「バカ」呼ばわりし、まるで人間扱いしてない(異邦人をわが幕屋のうちに招き入れてくれるんじゃなかったの?)………といった明らかな矛盾(排除)を犯しているからだ。どんなにきれいなこと言ったって、内田氏にとって信用することのできるのは、きっと「リスク社会」の土俵の上でリアル・ファイトを繰り広げることのできる人間だけなのだ。
 内田氏には外部(他者)への視線が欠如している。だからこそ「競争」のシステムは維持されなければならないのだ。だからこそ若者の夢を断念させるための中間的共同体が必要だなんて言うのだ。だからこそ「競争」原理そのものを問題にしないのだ。いや、問題にし得ないといった方が正しい。内田氏にとって生きることは即「競争」することだろうから。
 勤勉であることや、「競争」し、ストイックに努力することが悪いなんて言うつもりはない。競い合うことがすべてマイナスだとも思わない。が、人間的な価値はそれだけではないはずだ。資本のつくりだしたゲームのルールによってのみ勝ち/負けの序列が決定されていることが問題なのだ。むしろ私たちが改めて発見しなければならないものは、そのような「競争」によってせき立てられ奉仕させられ続けている、生産(利潤、富の追求)の秩序や価値の外部にあるのではないのか。ひょっとして、内田氏や山田氏(苅谷氏も?)たちがはじめからあやしい色メガネで見ている、「享楽的」な生き方の中にこそ何かを見いだせたりするんじゃないのだろうか。

 ちょっとネットで調べてみたら内田氏には『ラカンによるレヴィナス』という本があって、『ラカンの精神分析理論を手掛かりに,レヴィナスの「他者」論を読み解く。』なんてうたい文句が記されてるみたいなんだけど、内田先生は「他者」が何であるのか理解なさってるんだろうか? まえがきで『私はレヴィナスについてはかなり長期にわたって集中的な読書をしてきたが,いまだにレヴィナスが「ほんとうは何を言いたいのか」よく分からない。』なんて発言なさってるようなんだけど、これレトリックでもなんでもなくて、正直な告白なんじゃないかって勝手な推測をしたくなってしまう。いや、私自身はラカンもレヴィナスも知らないし、内田氏の本も読んだことがないから、これ以上何も言えないんだけど………。

   


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荒井賢 (Ken Arai)

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