泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
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センセーそれはあんまりじゃございませんか………その3

 内田樹(山田昌弘)氏は「リスク社会」の暗澹たる未来、すなわち階層化の進行を食い止めるために、いくつかの提言をする。私が今までさんざんケチをつけてきたのは、若者を「断念」させるためのシステムが必要だ、という提言だ。これが私には後ろ向きなものにしか思えない、と言ってきた。どのへんがどう後ろ向きなのか………翻って、では前向きな姿勢とはどういうものなのか、という問題に移ってゆこう。
 
 内田氏らの提言が後ろ向きに思えるわけは、まずはそれがなんら「リスク社会」の抱える問題の解決につながりそうにないからだ。私はそれに対して、「競争」社会そのものを問題にするべきだ、と言ってきた。では、「競争する」とはどういうことなんだだろう? まずそこから考えてみよう。
 「競争」とは単純に言って、自分が勝ち上がるために他人を蹴落とすとことである。野球やサッカーなどのチームスポーツにおけるポジション争いを見ればすぐわかると思うが、限られたレギュラーポジションを獲得するために、選手たちはライバルとなって緊張関係を強いられる。自分がレギュラーポジションを獲得したということは、他の選手が控えに回ることである。誰かが勝つことは、他の誰かが負けることを前提にしているのだ。そして勝ち負けは勝利への貢献度というわかりやすい一つの物差しによって、他の選手と比較されることで決定される。チームが一つにまとまっていられるのは、チームの勝利という共通の利害があるからに他ならない。選手たちは自分がレギュラーポジションを獲得し選手として成功するために、自らのスキルを磨くための練習を怠ることはできない。ゲームへの出場を果たしても、結果をアピールするためにくたくたになるまで全力でプレーする。チームの狙いはそのようなライバル関係を利用し、選手から最大のパフォーマンスを引き出し、チームの勝利に結びつけることだ。
 「リスク社会」における人間関係もチームスポーツ内でのそれとまったく同じである。スポーツにおいてはチームの勝利が最終的な課題だが、現実の社会において問題なのは、社会を組織する「資本」の利潤の獲得である。違うのはたぶんそこだけである。
 私たちは社会内部の序列における、より高いポジションを獲得することにモチベートされ、他人と「競争」を繰り広げる。そのような高いポジションは限られているため、誰かが勝ち組になるためには、誰かが負け組にならねばならない。ここでも誰かの勝ちは、他の誰かの負けを前提にしている。勝ち負けの判断はシステムへの貢献度(業績)によって、またその貢献への報酬(つまり経済的な格差)という一つの物差しで他人と比較することで成り立つ。資本はそのような労働者のライバル関係を利用し、労働者から最大の労働パフォーマンスを引き出し、生産性を向上させ、最大の利潤を手にしようとする。
 
 この「競争」の原理が、歴史的に見ても「共同体」という人間同士の横のつながりを破壊してきた。資本主義が興隆するとともに、伝統的な身分社会は崩れはじめる。メリトクラシー(業績主義)は、相互扶助的であった伝統的な共同体に楔を打ち込む。努力すれば地位を上昇させることができるという考えが、同一身分内部に競争関係を引き込むのだ。その結果、資本主義社会下の人間は原子的な個人に分解される。労働組合のような中間的共同体が、資本の専制に対抗するため労働者たちによってつくられたが、そのような共同体も労働者階級内部に競争意識が浸透すると力を失ってしまった。その結果現れたのが内田氏の言っているところの、個人個人が競争の舞台に引きずり出されるリアル・ファイトの闘技場、すなわち「リスク社会」なのである。
 したがってこの非情な「リスク社会」の引き起こすであろう問題(例えば格差の増大やそれによる社会不安)を根本的に解決するには「競争」原理そのものを問題としなければ埒があかないだろう。内田氏の言ってる中間的共同体の再構築の案は、最終的に「競争意識」によって解体されるであろうことは目に見えているからだ。
 それに、内田氏の提案する中間的共同体ってどんなものなんだろう。具体的には何も示されていないが………。代わりに私が勝手に想像してみるとするなら………。
 
 先ほどスポーツのたとえを用いたときに、チームが結束する条件として「チームの勝利という共通の利害」ということを述べた。つまりある共同体の外部に競争相手や敵を立てれば(つまり共同体の成員に共通の利害、共通の敵を作ってやれば)、その共同体の横のつながりは活性化する。フォア・ザ・チームというやつだ。これはフォア・ザ・ファミリーでもフォア・ザ・カンパニーでもいい。このようなリアクション的な手続きによってつくられる共同体の代表は、「ファシズム」つまりフォア・ザ・ネイションである。資本(競争)によって分断された地域的な共同体意識を諸外国に対する民族意識として高揚させるとともに、社会内部での競争に敗れたもののルサンチマンを吸い上げるものとして「ファシズム」は機能していた、と何かで読んだが………。内田氏はまったく別なところに「ファシズム」の可能性を見ていたようだが、ご自身の中間的共同体の再構築論も何かキナ臭いものに思えなくもない。

 人間の社会的能力は「自分が強者として特権を享受するため」に利己的に開発し利用するものではなく、「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」、その成果をひとびとと分かち合うために天から賦与されたものだ。
そう考えることのできる人間たちによって、もう一度破壊された「中間的共同体」を再構築すること。


 確かにこのような美しい魂の持ち主が共同体をつくるのならそれらしいものになりそうな気もするが、前のエントリーで書いた通り、内田氏自身や内田氏のいわゆる「エリート」の方々は、かなり排他的な視線の持ち主だったことを考えると、むしろヤバイものができあがってしまうんじゃないだろうか?


 だからこそ私はまず「競争」そのものを問題視すべきだと言っているのだが、内田氏らは「競争」の原理そのものをまったく問題にしていない。非情なリアル・ファイトの闘技場の存在そのもの、そしてそのルール、勝ち/負けの序列、といったものには一切疑義を差し挟んでいない。「競争」ゲームのルールはあくまでも動かしがたい前提条件なのだ。内田氏らの教育についての「内輪の言語」もこのような条件から生まれる。
 学校教育の役割は「選別」にあると内田氏は断言する。人間をシステム内に適切に配置するための選別、この冷徹な教育の機能の分析はしかし、批判的にではなく資本の権力(ゲームのルール)をそのまま肯定するために利用される。

 「自分の能力に比べて過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策をとらなければならない。そのため、過大な期待をクールダウンさせる『職業的カウンセリング』をシステム化する必要がある。」(242頁)
この「過大な期待を諦めさせる」ということは子どもを社会化するためにたいへん重要なプロセスであると私も思う。
これまで学校教育はこの「自己の潜在能力を過大評価する『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」ことをだいたい十数年かけてやってきた。
中学高校大学の入試と就職試験による選別をつうじて、子どもたちは「まあ、自分の社会的評価値はこんなとこか…」といういささか切ない自己評価を受け容れるだけの心理的素地をゆっくり時間をかけて形成することができた。


 勝ち負けの序列内において、勝ち組のポストは限られた数しかない。とすれば、負けるものの発生は不可避である。だから負け組になる人たちの「夢」を断念させなければならない、ということになる。なぜなら、満たされなかった「夢」は恨み(ルサンチマン)に変わり、自暴自棄的な犯罪や社会不安の元になるから、というのである。
 何度読んでも腹立たしく、不快な気分にさせるのはこの「過大な期待をクールダウンさせる」であるとか「『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」とか「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」とかいう断念を求める後ろ向きの言葉だ。これらの言葉をポジティブな提言として理解することができる人が多いのには正直驚いてしまう。
 諦めろ! と言うってことは、何かを断念してまで守らなければならないものがあるっていうことだ。………私たちの「夢」を捨てさせてまで守らなければならないものって一体なんなのでしょうか先生? それは非情な競争社会を守るということなのですか? それともまさか、エリートとして教育システムの上に立っている先生ご自身のポジションを守りたい、なんてことはないでしょうね? 何か他の道はないのでしょうか? 結局、誰かが勝つためには誰かがあきらめて負けを受け入れなければならないんでしょうか先生?………

 内田氏はこのような不気味な断念のシステムを導入してまで現行を維持させなければならないと思っているのだ。システムのために行われる若者への抑圧的な介入の提言、これを後ろ向きといわずなんて言おう。たぶんそれに代わるアイディアを………人間のための社会という「夢」や「ビジョン」を内田氏はお持ちではないのだ。なぜなら内田氏には「外部」が見えていないからだ。現行以外の可能性は初めから勘定に入っていないのだ。だから内田氏にとって「システムを降りる」という選択は狂気の沙汰である。だが私は内田氏とはまったく逆に、「競争のシステムを降りる」という選択に唯一の希望を見る。内田氏が「ねじれ」と称した「競争を降りたものの自己肯定」にこそ前向きなアクションを見る。したがってそれは私たちにとって「夢」とは一体なんなのか、ってことも考え直させるものとなるだろう。

   


Comments

きはむさん、どうもで〜す。
きはむさんの考えたことを私流に言い直してみましょう。………「競争を降りた者」を前向きなアクションととらえられるのは、同じように「競争を降りた者」だけだと思います。逆に「競争」のシステムに乗っかっている人には「競争を降りた者」の存在が階層化を進行させているように見えるんじゃないでしょうか。きっと内田さんには後者のようにしか見えていないんだと思いますよ。「平等な競争社会」だろうと「選ばれたものだけの競争社会」だろうと、結局のところ内田さんには「競争」以外のものは目に入ってこない。そういう人にとっては「競争を降りた者」は、「希望」に格差があって、「夢」を実現するコストを持っていない敗者にしか見えない。でも「競争」を降りるってことは、「夢」の形もまったく変貌してしまっているんだ………っていうことを次のエントリーで書こうと思ってます。
ところで、きはむさんのエントリーにも目を通しましたが、続きがあるみたいなんで全部読んでから、何か言えることがありそうならまたコメントします!
ゆとり教育は新自由主義改革の一環だと考える方によれば、子供は能力や意欲に応じて差別化され、一方はエリート教育、他方はそれこそ競争を降りた自己肯定に向かうわけです。これはつまり階層化を推進し固定化する動きとして捉えることができる。
だから「競争を降りたものの自己肯定」にはゆとり教育への態度同様、両義的な意味があると思います。araikenさんのように前向きなアクションと捉える方もいれば、階層社会を肯定する立場からの推進者もいて。
内田氏はたぶん、自己肯定メカニズムによって「平等」だった競争社会から階層が固定化された「選ばれたものだけの競争社会」になることを危惧しているんじゃないでしょうか。
夢をあきらめさせることを肯定的に見ているのは、最初から競争から降りて(それは「脱社会」に見えるのでしょう)自己肯定に走るより、しっかり社会にコミットした上で社会の中に自分を自覚的に位置づけろ、ということなのか。下層の人間が叶わぬ夢を追ってる姿を上層のエリートが見て笑っている、という構図より総中流もしくは非固定的階層間の競争社会のほうがまだマシということでしょうか。どっちみち下層に固定化されたヒトはコストのかかる夢は追えない気がしますが。
araikenさんには、同じ非競争社会でも、固定的階層社会に肯定的でない方向を是非考えていただきたいと、わがままを(笑)。
どうも、お邪魔しました。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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