泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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センセーそれはあんまりじゃございませんか………その4

 この間、snusmumrikさんという方から意見をいただいた。snusmumrikさんは山田氏や内田氏の言葉を私とまったく正反対に解釈しておられるのだが、なるほどと思わされる面もあった。いい機会なのでsnusmumrikさんのエントリーの文に寄り添いながら内田、山田、両氏と私の考えの差をはっきりさせようと思う。

 山田氏や内田氏は、得るべき価値を限定し、敗北者を救済しない競争社会について、「競争社会に乗らない」という方向性を示している。自分の身の程を知り、自分の能力内で社会参加することができ、自己肯定と他者への配慮が可能なネットワーク(中間的共同体?)を作り出す、ということだと思う。

 対して、荒井さんも結論部分では「競争社会=システム」に対して戦う、という宣言をしていらっしゃる。その結果、自分も「競争を降りる=強者たり得ない」だろうとしている。山田氏や内田氏と言っていることは同じように思うのだが、何が違っているのだろう。


 つまりsnusmumrikさんによると、山田、内田、両氏は「競争社会に乗らない」という提言をしていて、それは結局私の主張と同じじゃないか、とおっしゃっているわけだ。確かに私自身はそう主張している。しかし、山田氏や内田氏は本当に「競争社会に乗らない」という主張をしているのだろうか? 私の前々回のエントリーを読んでいただければわかると思うのだが、お二人は「競争」のシステムの敗者を危険視し、内田氏にいたってはシステムを降りたものを「バカ」呼ばわりし、ほとんど人間扱いしていないかのようだ………。したがって、お二人が「競争社会に乗らない」という方向性を示している、なんてことはあり得ないと思う。もしそうであればシステムを降りたもの(外部の存在)をもっとポジティブにとらえてるはずだが、お二人にとって「競争を降りる」ことは人の道をはずれることのようだから………。
 とすれば、snusmumrikさんが「自分の身の程を知り、自分の能力内で社会参加することができ、自己肯定と他者への配慮が可能なネットワーク(中間的共同体?)を作り出す、ということ」と解釈した内田氏、山田氏の言葉は、決して「競争社会を降りる」ということではなく、文字通り「断念することで、競争社会内での負け組の地位を受け入れろ」と言ってるとしか理解できないのであって、競争社会の序列はそのまま肯定され前提とされていると思うのである。
 またsnusmumrikさんの指摘でなるほどと思ったのは、私の主張が「競争を降りる=強者たり得ない」=弱者となるだろうということであるなら、「身の程を知って自分の能力内で社会参加している」負け組=弱者という立場と結局は同じじゃないかっていうところだ。結果だけを見れば確かにその通りかもしれない。が、それは全然意味が違うのだ。

 「諦める」ということは、諦めなければならないものに対して価値を感じているってことだ。あくまでも「競争」のシステムにおける「勝ち組」のポジションは意味のある「夢」であり続けているいうことだ。
 逆に、「競争」を降りているのなら、そのような勝ち/負けの序列はもはや問題になってはいない。
 例えば好きな女がいて、なんらかの理由でその女を諦めなければならないという状態と、他に気になる女ができたために今まで好きだった女に無関心になってしまう状態、との間と同じぐらいの差があると思う。
 好きな女を諦めなければならないと苦悩するときって、やっぱりその女は私にとって大きな価値をもってるからこそつらいのであって、他に好きな女ができて興味がそっちへ行ってしまったら、元の女のことなんてびっくりするほど気にならなくなってしまうだろう。
 だから内田、山田、両氏のような「格差」とか「階層化」を論じる人たちが、よく「ルサンチマン」なんて言葉を使って下層にいる「負け組」の挫折した精神状態を云々するわけだけど、それはあくまでお二人のような人たちが「競争」を肯定していることの表明でしかないし、また現実に「負け組」の地位にいるらしい人たちが、そのことに関して心にモヤモヤを残したり、システムに対する恨みをグツグツと煮えたぎらせていたり、また逆に自分の負けを受け入れ「身の程を知ってできる範囲で社会に貢献しよう、そしてその中に小さな幸せを見つけていこう」という諦め(クールダウン)の境地に達していたりするとすれば、それはやはり「競争」原理による序列にとらわれたままでいるということだ。そのような人たちにとって「競争」を勝ち抜くことによって獲得できたはずの「夢」は、諦めきれない女のようにいまだに心を占領する「価値」なんだってことだと思う。

 そのような「競争」によって得ることのできる「夢」に価値を感じてこだわり続けている人たちは、正直いって私にはすべて後ろ向きに見える。前向きであるということは、そのような「競争」を降りてしまうことだ、と私は思う。

 「競争を降りる」ということは、そのような競争原理内の「優劣」や「序列」に基づき、他者との比較によって自分の価値を推し量ろうとする一切の手続きとオサラバすること………まったく一面的で、おそらくは資本の生産性の増大に好都合なように人間を管理し、最大の労働力を発揮させるためにつくられた、業績主義的な優劣だけによって人間の価値を判断するシステムから身を引き剥がすことだ。
 このような身の引き剥がしはシステムの外部への視線なしには敢行され得ない。つまり外部の異質なものに対する親和性が同時的に発生しているはずである。しかし内田氏らの言葉にはそのような親和性は見当たらず、あったのはむしろ異質なものへの排除の視線でしかない。
 私たちはシステムから身を引き剥がした瞬間に、多様な形の「夢」や「欲望」が様々なベクトルをもって疾走し、交錯し、渦を巻いている空間の中に放り出されるだろう。そこには他者となんらかの比較をすることを可能にする基準もなく、物差しもないからだ。それゆえ私たちは自らの存在の価値や意味を自分自身で創り出し、発見してゆかなければならない。それが「自己価値化」そして「自己肯定」という言葉の正体なのだ。
 それがニーチェの言っていた「貴族」的な価値判断なのである。外部に基準をおき、そことの比較によって自分の価値を量る「奴隷」的な価値判断にたいして、自分の内側から、自分の充実から自らの価値を感得することなのだ。内田氏は「貴族」の特質を「勝ち誇った自己肯定」なんていう、自分勝手で何も考えてない人間の代名詞として使用していたが、どうなんだろう? むしろ私には他者との比較で自分を評価することの方が安易で、何も考えていないことのような気がする。 
 自分で自分が納得できるような生き方をしなければならない。自分で自分が「面白い」と感じられるように生きなければならないのだ。内面からの充実という手応えのある生き方をするということ………他者との比較で自分を評価しないというのはそういうことだと思う。そこには、外的な基準と比較することで生じる「ルサンチマン」なんてものは論理的にあり得ない。競争を降りた瞬間に私たちの前に晴れやかな空間が広がるだろう。ただし、常に「攻め」の状態になければならない、という条件付きではあるが………。というのは、自分が自分を「面白い」と感じるためにはつねにアクティブな「攻め」の状態にあるべきだと思うからだ。常に自分を前へ前へと押し出すことが必要なのだ。危険な「賭け」へと自分を投げ込み続けることで、一種の緊張を自らの内部につくり出す………。それが手応えのある生き方につながると思うのだ。

 しかし「競争を降りた者」は自己の内部に緊張をつくり出す「賭け」の対象には困ることはないだろう。というのも内面の問題はともかくとして、私たちは現実に「リスク社会」という「競争」が猛威を振るっている社会の中に生きていて、そこで生き抜くためにはどうしたって社会と闘ったり、折り合いを付けたりせずにやってゆくことはできないからだ。社会はあらゆる機会を捉えて私たちにシステムの論理を押し付けてくるだろう。「システムに逆らってたらあなたは生きていけないよ」というわけだ。かなりの確信を持って言えるのは、「競争」を降りた人は結果的に経済的にはかなりの低空飛行を強いられるだろうということだ。まったくもって「競争を降りる=強者たり得ない」ということなのだ。そのうえ、「競争」原理を内面化した人たちに囲まれて、マイノリティとして誤解や疑惑の目にさらされ続けるに違いない。(現に内田氏もそのような視線を飛ばしてるじゃないか……。)
 「競争」を降りたものの生は経済的にも精神的にも闘いの連続だ。しかしそれは晴れやかで陽気な闘いである。むしろその闘いを楽しむことに自らの価値の源泉を求めるべきだ。はっきりいって「競争」のつくり出す序列にしがみつき、必死に上に昇ろうとあがく人々の姿は「競争を降りた者」にとっては滑稽なものでしかない。その我を忘れた真剣さに対して、「競争を降りた者」が持っているのは遊び心である。彼らが生き抜くためのシステムとの闘いは陽気な戯れなのだ。いってみればこの闘いとは、自分の生を面白くするためにシステムを逆にサンドバックとして利用してしまうってことだ。
 このような生き方は一つの危険な(運が悪けりゃ死ぬだけさ………)「実験」に該当する。「競争を降りた者たち」はこのような実験を競い合うように押し進める。しかしその「競争」には(一元的な基準がないから)目的地もなく、方向もバラバラであるため、ある「実験」の成功は他の人の「実験」の失敗につながらない。ここでの勝利は他者の敗北を前提としないのだ。
 したがって、「競争を降りた者」の「夢」の形は、「競争社会」内部における「夢」と大きく様相を異なったものになるだろう。「誰も敗れることのない勝利」、これが彼らの合言葉である。(この言葉は実は受け売りだが……)なんらかのポジションを他人を打ち負かして獲得することが「夢」なのではなく、ひとりひとりがこのような危険な「実験」(そういえばニーチェは生とは実験だ、と言っていた)をその果てまで突き進むこと、そしてこの低空飛行(とは限らないが)の冒険をとことん楽しむってことが「競争を降りた者」の「夢」となるだろう………。

 なんだかこうやって書いてくると「競争を降りた者」のイメージは、内田氏の描いた「貴族」の姿もびっくりな「美しい」ものになってしまった………(汗)。でもまあ、内田氏にはずいぶんひどい描き方をされたんだからこれであいこだろう。
 私が考える前向きな提言とは、このように危険ではあるが、誰にも「諦めろ」などとは言わない前向きな、そしてそのあり方がそのまま「競争」のシステムに疑問符を突きつけるような一つの生き方を示すことなのである。
 この提言は内田氏の「中間的共同体の再構築」のような具体的な社会の改造や変革につながるものではない。だがこの問題はシステムを変えることで解決できるようなものではないと思うし、むしろシステムの分析は生を変革するためにある、と私は考えている。


 最後に、snusmumrikさんの指摘に戻りたい。snusmumrikさんは、私と山田氏や内田氏の考えに大きな違いがないのに、なぜ私がそんなにもいらだつのかを分析している。

 そのいらだたせたものとは、要するに「自分は大学の教育者という恵まれた身分(強者)なのに、なぜ他人がそうした地位に就こうとすること(競争社会に乗り、勝とうとすること)を否定するようなことを言うのか。それは逆に、既存の体制を維持することにつながるのではないか」ということではないだろうか。

 山田氏や内田氏が言おうとしているのは、限られた地位・限られた価値をみんなが求めようとすることではなく、それ以外の場所を「ふくらます」ことだと思う。それも民主的な(自己肯定と他者への配慮が可能で非暴力的な)場所として。その意味で、競争から降りることを奨励することにより、競争以外の場所にあるネットワークを豊かにしよう、既存の競争社会を痩せたものにしよう、と言っているのではないだろうか。


 私は山田氏や内田氏の現行社会内での強者のポジションについてとやかく言う気はない。人は生まれや運やその他いろんな要因で、いろんなポジションにいるものだ。問題なのはポジションではなく、その「向き」なのだと思う。
 できることならお二人がsnusmumrikさんの言ってるように考えて発言なさってくれていればうれしいのだが、内田氏は「競争から降りることを奨励する」どころかそれは「ねじれ」だとおっしゃっているし、「競争以外の場所にあるネットワーク」は内田氏によるとファシズムにつながるってことのようなので「既存の競争社会を痩せたものにしよう」とはお考えになっていないように思うのだ。(『階層化=大衆社会の到来』『ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」』参照)むしろ、結果的にお二人の言葉は「競争に取り残されると大変なことになるよ」という「恫喝」として、競争社会を維持し太らせることに役立つものにしかなっていない。そしてシステムを揺るがす元凶になりかねない弱者予備軍=若者は「諦め」させてシステムの下層へ軟着陸させなければならないと考えておられる。しかも若者を優しく気遣うそぶりを見せながらそうしている。

 自己を過大評価する「夢見る」若者たちを収奪するだけ収奪して、100人のうちの一人くらい、力のある者だけ残して、あとは「棄てる」というラフな人事を「業界」は続けている。
時間とエネルギーを捨て値で買われて、使い棄てされる前に、どこかで「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」というカウンセリングが必要なのだけれど、そのような作業を担当する社会的機能は、いまは誰によっても担われていない。
『希望格差社会』参照)

 内田氏には「外部への視線」が欠如しているので、このようなありがた迷惑なバックパスを出すことしかできないのだ。本当のインテリだったら皆があっと驚くような、ゴールに直結するスルーパスを通してみろ! 教育者だったら若者をアシストするようなプレーを見せてくれ!
 攻撃的センスのない「守り」の思想………私が苛立つのは、このような内田氏の「後ろ向き」さ加減に、なのである。(おわり)



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Comments
 
どうも。とりあえずこちらは3つで一区切りです。
反応があったら続けますんで、気が向いたらどうぞ。
 
458masayaさん、おつかれさまでした。
とりあえず458masayaさんのおっしゃるように内田さんのほかの文にも目を通して、それから何らかのお答えを………と思っとります。
 
はじめまして。TBさせていただきました。はじめはコメントで書こうと思っていたのですが、あまりにも長くなり、また引用に次ぐ引用で読みづらくなりそうだったので、エントリにしました。
数学屋のメガネさんと同じように、こちらもやたらと長くなりそうです(^−^;)が、読んでいただけると光栄です。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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