泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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センセー、やっぱり違うと思います! その1

 458masayaさんに、内田樹氏のブログのエントリーについての私の「読み」がおかしい、という意見をもらっているので(『解釈について考える』『同−2』『同−3』)、それに答えたいと思います。『数学屋のメガネ』の秀さんからも同様のTBを受けているのですが、微妙にポイントが違うようなのでとりあえずは458masayaさんへの答えを先に示しておくことにします。が、秀さんへの答えにもなっていると思いますので、目を通していただけたら、と思います。
 さて、読んでみてまず感じたことは、458masayaさんのおっしゃってることは、以前私にTBしてくれたsnusmumrikさんの考えとよく似ているということです。お二人とも内田氏の考えと私の考えは基本的にはそれほど離れていないんじゃないかと………どちらも競争の社会を批判するものである、と指摘しているように思います。snusmumrikさんのエントリーは短いものでしたから、具体的にどうして内田氏の考えが競争社会の批判になるのか、ちょっとわからなかったのですが、458masayaさんはその辺を詳細に書いてくれたので、なるほどそういうことか、と私も納得した次第です。で、内田氏と私の間に食い違いが生じてしまったのは、私の手ひどい誤読のせいだ、と458masayaさんは分析なさっているわけです。
 しかしながらもう一度はっきり言わなくてはならないことは、内田氏の考えと私の考えは180度逆を向いている全く別の思考だということです。前にも言いましたが、一見似てるけど全く別物なのです。ですから、そのことを示すためにはもう一度『センセーそれはあんまりじゃございませんか』と同じことを繰り返して説明することになりますが、今度は458masayaさんの論に沿ってそれを行ってゆきましょう。

 何度も書いて来たので詳しいことは省きますが、内田氏(山田昌弘氏)が現在の状況をリスク社会と捉えてることに対して私は特に異論はありません。気になるのはそのリスク社会が階層化を進行させ、社会不安を招きかねないという予測と、それに対して内田氏が考える「断念」の勧めであり、これを私は「競争」そのものを問題とせず、システムを温存するものであると解し、それとは逆に私は「競争を降りる」という方向性を示しました。
 458masayaさんが指摘してくれたのは、そうではなく内田氏は決して「競争」や資本主義のシステムを維持温存しようとしてるのではなく、むしろそのようなシステムを批判し、ヒートアップした競争社会をやせ衰えさせようという意図のもとに発言しているのだ、ということかと思います。

 具体的には学校教育の「学び」を降りるものを、私が勝手に「競争」を降りるものとして肯定的に理解していることをいさめ、「学び」を降りたものが「オレ様化」するメカニズムに注意を促しています。つまり消費資本主義によって自己肯定・自己満足的な「オレ様化」した子供が作りだされ、そのような自己を過大評価した子供たちを「あなたには無限の可能性があります」的なスローガンによってヒートアップした競争社会に送り込み収奪する、ということをまた資本主義社会は行っているのだ、と458masayaさんは内田氏の論旨を説明してくれました。
 内田氏の「断念」の戦略はこのような過酷な競争社会をクールダウンさせるためになされるものだと、つまり資本主義を無条件に肯定するものなどではなく、資本主義の横暴を終息させるためのものなのだ、というのが458masayaさんがおっしゃりたいことだと私は理解しました。
 
 なるほど内田氏の言葉はそのように理解すれば、私が行った「読み」がそうであったように、人の上に立ってなされる抑圧的な発言には聞こえてこないわけです。458masayaさんが引用した内田氏の言葉をそのまま載せてみましょう。

『私たちの周りには「分をわきまえる」ことのたいせつさを知らない人々ばかりになってしまった。
彼らは「ここではないどこか」に「自分にとって最適の仕事」が待っていると信じて転職を繰り返し、「このひとではない誰か」が「自分にとって究極のパートナー」だと信じて恋愛を繰り返し、「これではないなにか」が「いつか自分の欲望のすべてを満たす」と信じて「モノ」を買っては棄てる。
政治家も財界人もメディアもイデオローグもみんなが「自由に生き、我を張り、私情を全領域に貫徹し、つらい仕事からすぐ逃げ出すこと」を支援している。
もっと欲望を持て、もっと買え、もっと飽きろ、もっと棄てろ、もっと壊せ・・・と彼らは唱和する。
「分を知る」ことは、覇気も野心も欲望も向上心も棄てることであり、人間の尊厳を踏みにじることであり、社会関係の現状を肯定する退嬰主義に他ならないのである。
だが、この「身の程をわきまえるな」という命令は誰でもない資本主義の要請である。
そのことは誰も口を噤んで言わない。
 
「分をわきまえる」というのは、資本主義の暴走に対して、「ちょっと待って」と告げることであり、決して自己限定することでも、自己卑下することでもない。
それは、自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つことである。
社会の成員のひとりひとりがおのれの「分を知り」、自分に与えられた仕事に対して「選ばれてある」という責務の感覚を持っている社会は、たしかに大量生産、大量消費、大量廃棄という「資本主義の夢の国」にはらないだろう。
だが、そこに住む人々に、ささやかだが確実な幸福を約束してくれる。

そのことの大切さをアナウンスする人はもうどこにもいない。』


 はは〜ん、なるほど。………この内田氏の言葉は、とても美しい、説得力のある言葉に聞こえるかもしれません。しかし私は正直ここに非常にイヤラシい、詐術のようなごまかしを感じます。おそらく内田氏自身の発言の意図は、資本主義の暴走を食い止め、私たちが人間らしく生きることのできる社会を構想する、というところにあるのかもしれません。(いや、そうでなければ困りものです。)しかしこの言い方では荒れ狂う資本主義を結局のところ追認する「働き」しかしないと思うのです。
 願わくば、私の読み方を言いがかりとして理解しないでいただきたいと思います。確かに私は内田氏の言葉をその意図通りに読む「素直な」読みを行うつもりは毛頭ありません。なぜならある言葉を発言した人の意図通りに理解できているかどうかは厳密には検証不可能であり、そのような試みが大して意味あるものとは思えないからです。が、もちろん曲解するつもりもありません。むしろ私がここで行いたいのは、内田氏の言葉がこの社会の中でどのような意味合いを持つものとして機能するか、という「働き」を分析することです。内田氏がどのような意図を持って発言したにしろ、実際には全く違う意味合いで理解され、機能するだろう、ということを私は「読み」として実行したいと思います。

 とりあえず458masayaさんがいままで指摘してくれたことを、私が納得したということを前提にして話を進めましょう。そのうえで、内田氏の「断念」の戦略が本当に「資本主義の暴走」をくいとめる「働き」をするのであれば、私は内田氏の言葉にケチをつけることはできないことになります。
 「夢を捨てるな」というのが資本主義の要請であり、逆に内田氏のそれに対抗する戦略は「あきらめろ」ということでした。以前にも分析しましたが、「あきらめる」ということは「あきらめなければならないもの」に対して、つまり「夢」に対して価値を感じている、ということです。同様に「分をわきまえる」ということを考えてみると、これは別の何かに対して「分をわきまえる」ということ、すなわちより優れたものに対して「分をわきまえる」ということです。
 つまり、内田さんの言葉は、あくまでも資本主義が人を競争させるために作り上げた業績主義的な序列における人間の優劣を前提にして言われていることがわかると思います。あくまでも優れた地位の人間は存在し、その人たちに対して自分は「分をわきまえる」のであり、そのような優れた地位への上昇は「夢」であるのだが、それは「あきらめる」必要がある、ということです。要するに「競争」の前提はこういう言い方をしている限り消滅していない、ということです。暴走する資本主義、「リスク社会」の前提である「競争」とヒエラルキーは温存されたままなのです。

 はたして本当に「自己の可能性を過大評価した」人間が「無限の可能性」という「危険なイデオロギー」に乗っかっているから競争がヒートアップしているのか、また彼らが身の程を知れば本当に「資本主義の夢の国」は痩せ細るのか、個人的には疑問ではありますが、まあいい。とにかくここで内田さんが考えている「断念」の戦略とは、たぶん危険なまでにヒートアップするエンジンを低速な回転へとシフトダウンするように、「資本主義の暴走」をシフトダウンさせることだと言っていいでしょう。回転を低速に保つことでエンジンそのものが焼け付いてしまうのを避けようということです。………つまりエンジンそのものは温存、維持されているのです。

 さらに、内田氏は過大な「夢」を「断念」する者に、「かけがえのない」という言い方で、人間の職業への一体化を迫っているように見えます。『自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つこと』………何か歯の浮くような美しい言葉ですが、これは「夢」を「あきらめた」結果の虚無感を、社会的役割への責務によって埋め合わせようとする言葉ではないでしょうか。
 「断念」である以上、本当はやりたくない職業なんだけど、それになんとか意味を持たせたいから「かけがえのない」だとか「選び」なんて美しい言葉でフォローしなければならないのです。私は若い頃から職業で人間を判断することは許されないと思って来た口なので、社会的役割への特化を美化するこのような言葉にはむしろ不快なものを感じてしまいます。
 しかもこのように社会的役割に邁進することで、「断念」した人たちは「断念」を迫って来た社会を支える役目を引き受けるのです。つまり上で語ったシフトダウンした資本主義のエンジンを支え続けるわけです。………「ネジにするのか? 俺を!」(by 星野鉄郎………古いかな?)

 458masayaさんはこうおっしゃっていました。『「現行システム」以外にひとまず私たちの社会はありません。『根っこから切り崩して』しまったら、私たちの社会はどうなるのでしょうか? 私たちにできるのは、せいぜい現行システムを住みやすい方向に変えていくことではないでしょうか?』
 このような社会システムの改良や修正は、結局のところ現行システムの是認です。基本的に現行システム以外の選択肢や可能性は考慮されていない。つまり「外部」への視線がないということです。
 競争社会そのものは温存されたままなのですから、危険な状態にヒートアップする可能性も温存されたままです。低速回転を維持し続けなければ焼け付く可能性のある危ういシステムを成員の大多数に「あきらめ」を迫り続けることでしか維持できないってことになります。
 私が内田氏の議論を聞いてげんなりしてしまうのは、全く別の可能性、つまり「外部」への視線が遮断されたままで話を進めてしまっているからです。私は『そんな非情で、階層化による機能不全の危機をかかえたシステムなんて、根っこから切り崩してしまえばいい』と言いました。が、この根っこから切り崩す、ということは(たぶん458masayaさんはそう疑念を抱いているようですが)たとえば革命を起こしたりして社会を混乱させるというようなことではありません。そうではなく、それはまさに「外部」の視点を導入するということです。そのことをこれから説明しましょう。



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Comments
 
こんんちは。
私にはとても奥深い話しに見えますので、的外れな書き込みかも知れませんが…
私はこの文章での「夢を捨てるな」「あきらめろ」という言葉から、
ビートたけし氏が以前よく言っていた、偏差値教育・学歴社会の果てにある到達点を見越して、
資本の論理下の競争社会を見限れ、と読みました。
『偏差値教育の果てにある有名大学、一流企業に入ることが人生の到達点だという価値観が、子供に対して
「お前は馬鹿だけど愛想がいいから商人になれ」とか
「お前は手先が器用だから職人になれ」という価値観が学歴社会では無価値にされてしまった』
というビートたけし氏の発言です。
社会から洗脳されて植え付けられた価値観に喜びを見いだすのではなく、
自分の心情や身体に合った(分をわきまえた)喜びを、
という意味では、ないのでしょうか。
 
問題があるとすれば、その「分をわきまえた喜び」というのは誰が決めるのか。言い換えれば「過剰な夢」とは誰にとって何がそうなのか?ってことでしょうね。この点の不透明さが僕は内田さんのエントリーの問題だと思います。例えば僕が「中田みたいなサッカー選手になりたい」と言った場合には、内田さんのエントリーは有効でしょうが、「年収300万以上で安定した職につきたい」に対して「断念しろ」というのはかなり議論が分かれる問題でしょう。
つまり、資本主義が可能性を悪戯に助長するとするなら、断念は死ぬまで断念を要請するということです。そして、断念を若者やニートといった社会的弱者のみに要請するならば(贈与としての労働)、それは資本主義に対抗どころか奉仕しているのでは?というのは考えすぎかもしれないので、どうか内田さんには年金問題の「断念」や投機ゲームの「ヒートダウン」や高額所得者の「贈与」についても一考して頂きたい(笑)。
 
僕の場合のポイントがずれているという印象は、僕は、araikenさんの読みが間違っていると判断しているのではなく、自分とは違うと言うことに関心があって、その違いがどこから生まれるかに関心があるからなのだろうと思っています。
内田さんの文章の正しい読み方というものがどこかにあって、それと比べて、araikenさんの読みが違っているから間違っていると判断しているのではないのです。僕が使う<誤読>という言葉は、単に表現者がこう表現したという意図と違う読み方をしているのではないかというだけのことです。
araiken さんが批判をする対象を、内田さんの言葉と離れて、客観的な存在として考えた場合、競争原理に対する批判などは共感するところもあるのを感じます。それだけに、その批判している主張を、内田さんが語っているという判断だけが違ったりすると、どうしてそこだけ違うのだろうと言うことが不思議で、どの言葉の受け取り方が違うと、そのような判断になるのだろうかというのが僕の最大の関心になっています。
内田さんの文章に、誤解されそうなところがあるとしても、それをどう受け止めるかは、内田さんに対する元々の評価でこれほど違うものになるのか、というのに面白さを感じています。
内田さんに対する評価以外では、araikenさんと対立するような部分をあまり感じません。それだけに、まだまだ考え続けたいと思っています。今しばらく、考察の対象にさせていただければありがたいです。
 
それならば、「誤読」という表現はおやめになったほうがいいですよ。表現者の意図というのは後からどうにでもいえるもので、基準にするには不適当です。「誤読」はどうしても「間違っている」という印象を与えますし、言われたほうは余り愉快ではないでしょう。
「見解の相違」ぐらいでいいのではないでしょうか?
 
言葉使いさん、こんにちは。
そうですね。おそらく内田さんは言葉使いさんのおっしゃってるような意味で、「分をわきまえろ」と言ってるんだと思います。まあ、このことについてはこれから論じてゆくつもりですが、そのような人間の差異が「あきらめ」のプロセスとして、また、職業への適切な配置、みたいなことで問題にされているのが、内田さんの文章を読んでて私がひっかかるところです。
 
>すこっとさん
>問題があるとすれば、その「分をわきまえた喜び」というのは誰が決めるのか。
内田さんのものを読む限り、「分をわきまえる」というときの判断の基準は、結局学校教育における選別、つまり「競争」で決定されるとしか思えません。競争社会を見限るための方策として、「競争」を判断基準にするというのが、どうも私の頭を悩ませます(笑)。
 
秀さん、こんにちは。
私も秀さんの問題意識はだいたいわかっているつもりです。私も実際秀さんのものを読んでてピンと来る言葉に出会います。ただ、秀さんのスタンスは基本的には458masayaさんのスタンスと近いような気がして、その辺に私たちの「読み」の違いの原因があるのではないかとボンヤリ考えています。ですので、458masayaさんへの答えをベースに、「誤読」(ま、確かに sivadさんが言ってるように、この言葉はちょっと引っかからないでもないですが)について改めて考えることができるんじゃないかと思っています。引き続き私の方でも秀さんのエントリーを読んでゆきます。
 
承認と競争は常に結びついているので、無条件に承認を肯定する内田氏が競争を否定していることはありえないと思います。私は承認=競争に歯止めが掛からなくては世界はどんどん野蛮の方向へ進んで行くと思います。今村仁司氏の「近代の労働観」の立場に私も賛同しているのですが、内田氏は今村氏の立場から完全に逆転した場所に立っていますね…。「近代の労働観」は承認を欲する欲望が過剰労働を齎し人間を破壊することを分析しています。
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/5/4305840.html
 
kagamさん、どうもです。
実は私も今村さんの労働論を読んでものを考え始めた口なので、 kagamさんのおっしゃることは理解できます。ただ、第三項排除論はもちろん知ってますが、直接は読んでいません。kagamさんのエントリーを読んで、承認という言葉はこうやって使ってるのか、と思いました。でも個人的には今村さんのものはやや物足りないな、というか例えばバタイユのほうが徹底して考え抜いてるなあっていう印象があります。ま、このへんをいずれ理屈で説明したいと思ってるんですが、きっと今村さんは大学の研究者の枠(つまり職業)をあまり出てないって感じだけど、バタイユは生々しく生きていた……ってあたりに差がありそうだと漠然と思ってます。
内田樹という迷路の行く先は 
内田樹が表向き述べているなにやら「おせっかい」で人のために発言しているというその中味の妙な棘。
その棘に気づくにはなかなかに批評的な感性がいるのじゃないかな。
わたしはaraikenさんのような方がいるのをネットで知ってほっとしています。
正直いって内田樹はどこかで捩れている。天国をめざして地獄の門をくぐるようなところがある。かれがどのような地獄の門をくぐっているのか。そして、人々をどのような地獄につれていこうとしているのか。あきらかにしてもらえるものならしてもらいたい。
かってな願望ですが、わたしのような中卒には、内田樹を思想的に批判することがむつかしいのであなたの論評に救われています。

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