泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: スポンサー広告   Tags: ---

Response: --  

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: 思想など   Tags: 思想  

Response: Comment: 9  Trackback: 0  

センセー、やっぱり違うと思います! その2

 私たちは日常生活において実際には多様で複合的な価値観の中に生きています。なるほど私たちは資本主義社会に生きているのですから、支配的な価値観は経済の成長に向けられた業績主義的な競争のイデオロギーであるにしろ、それがすべてではなく、その他の視点でもって自分や他者を評価し判断しています。『数学屋のメガネ』の秀さんがわかりやすい例を提供してくれていますので、それを使って詳しく見てゆきましょう。

『ボクシングのトレーナーだったエディ・タウンゼントという人は、自らがチャンピオンになれなかったという敗者の経験を積むことで、敗者の気持ちが分かる深い人間性を身につけた人だったと思う。長い目で見れば、そのような特質において、エディという人は、最終的には勝者になったのだと僕は感じる。このような勝者の道を、多くの敗者が見出すと言うことが必要なのだと思う。』

 ここで言われていることは、チャンピオンになるという「勝ち/負け」の業績主義的イデオロギーおいては敗者の位置にある人間が、それとは違う物差し、つまり敗者の気持ちがわかる「人間性」において自己の存在を肯定的に評価している、ということだと思います。ここにはすでに二つの視点、価値観が併存しています。一方においては敗者であるが、他方においては勝者である。むしろ秀さんもおっしゃる通り『(敗北の)悲しみや苦しみを知ることが出来た人間は、他の人間に対する受け入れや共感という力で、勝者よりも遙かに高い人間性を示すという、負けたことによって勝つという逆説さえある』わけです。もし競争における「勝ち/負け」のみで判断すればこの人は心に大きな挫折を抱えた敗者でしかない。でもそれはあくまでも一面的な物差しでの判断でしかないのであって、現実には私たちはそれ以外の視点を導入して人間を判断しているのです。また別の例ですが………

 『学校での成功から降りてしまう、相対的に階層の低いグループの子どもたちにとって、あえて降りることが自己の有能感を高めるはたらきをももつようになっている』

 『相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、「将来のことを考えるより今を楽しみたい」と思うほど、「自分は人よりすぐれたところがある」という〈自信〉が強まるのである。同様に、(…)社会階層の下位グループの場合にのみ、「あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない」と思う生徒(成功物語・否定)ほど、「自分は人よりすぐれたところがある」と思うようになることがわかる。』

『現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。』


 これらは苅谷剛彦氏の言葉ですが、苅谷氏本人や内田氏によって「学び」を降りる子供たちの「自己満足」とか「自己肯定」といった言葉で語られた事態が意味することも、上のエディという人がやってるのと同じことだと思います
 そもそものはじめから苅谷氏や内田氏は、努力をしないだとか、享楽的だとか、自己評価の肥大であるとかいったネガティブな色合いに彼らを染めあげていますが、このとき「学び」を降りる子供たちは、学校教育に貫かれている競争の業績主義的イデオロギーとは別の物差しで自分を評価しているのです。学校内部で行われる競争に敗れたためなのかどうか知りませんが、とにかく子供ながらに学校での「勝ち/負け」による評価が一面的なものでしかない、ということを直感的に理解し、別の「人間性」において自分を評価しているということだと思います。
 (458masayaさんは、「学び」から降りることと「競争」から降りることは違う、とおっしゃっていますが、内田氏自身、学校教育の機能を「選別」であるとしていることからもわかる通り、ここで言う「学び」とは明らかに「競争」の意味合いを持つものだと思います。)

 このように、現実の社会の成員は、多様な価値観、すなわち業績主義的イデオロギーの「外部」の視点でもって自己を評価し生きています。ところが内田氏(または『希望格差社会」の山田昌弘氏)は、人間を資本主義社会を貫く競争の業績主義的イデオロギーだけでしか評価していない(つまり外部への視線が欠如している)ように思えるのです。
 それはまず人間の「夢」がいかなるものか、という面に現れています。例えば『希望格差社会』というエントリーを読めばわかると思いますが、人の「夢」は職業と結婚についてしか語られていません。『夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である。全ての人が希望通りの職に就けることはあり得ない。』………また、結婚については「強者同士の婚姻」であるとか、「玉の輿」だとか経済的な意味合いでしか問題にしていないのです。
 過剰な「夢」を抱くものの姿は、内田氏にはこう映ります。

 『彼らは「ここではないどこか」に「自分にとって最適の仕事」が待っていると信じて転職を繰り返し、「このひとではない誰か」が「自分にとって究極のパートナー」だと信じて恋愛を繰り返し、「これではないなにか」が「いつか自分の欲望のすべてを満たす」と信じて「モノ」を買っては棄てる。』

 おそらく収入が良く楽な「職業」、生活を安定させるための「結婚」、金持ちになって心置きなく楽しむ「消費」、でしか「夢」は語られていません。ホリエモン的な成功の「夢」………いってみればそれは「金」のための「夢」でしかなく、「金」で得られる「夢」でしかありません。たとえば先ほどのボクシング・トレーナーのように「人間性」の追求のようなことが積極的な「夢」として語られることはないのです。内田氏や山田氏にとって「夢」とは結局、経済的な意味で計量可能で、他者と比較可能な一面的でずいぶんと貧困な「夢」でしかなく、「人間性」とか「愛」とかそういう抽象的なものは追求すべき「夢」でにはなりえないのでしょう。お二人がそのような貧困な「夢」を抱いてるのはかまいませんが、すべての人がそうだと判断されてしまっては困る。なぜそのような判断になってしまうかと言えば、いわゆる「人間性」みたいなものは資本主義の業績主義的イデオロギーからは外れた「外部」の価値だからで、お二人にはそれが見えていないからです。

 そしてだからこそ、そのような「夢」を実現できないものを不安視したり危険視したりしだすのです。

 『一生』大学教員になれない博士課程入学者は年に一万人ずつ、『一生』上場企業のホワイトカラーや技術職につけない大学卒業生は、多分、年に数万人ずつ、『一生』中小企業の正社員にさえなれない高校卒業生は、年10万人ずつ増えてゆく。これに呼応して、正社員と結婚するつもりだが、一生結婚できないフリーター女性は、年20万人ずつ発生していくのである。(…)
いつかは受かるといって公務員試験を受け続けても、三十歳を過ぎれば年齢制限に引っかかる。どうせ正社員に雇ってくれないからと就職をあきらめ、単純作業のアルバイトをしていた高卒者は、仕事経験や能力が身に付かないまま、歳だけとり続ける。よい結婚相手に巡り会えないからと結婚を先延ばしにしていた女性は、四十過ぎれば見合いの口もかからなくなる。当の若者は、考えると暗くなるから考えない。若者自身が、不良債権と化すのだ。(…)
結婚や子供を作ることなく、高齢を迎える元フリーターの中年男性、女性が100万人規模で存在する社会はどのようなものになるだろうか。


 仮にこのような事態が訪れたとして、それがどれだけひどいことなのかなんて判断することができるのでしょうか? だいたいすべての人が会社や公務員として定職に就き働いているような社会が歴史上かつてあったのか、地球上のどこかに今あるのか、って話です。それに結婚せず、高齢を迎える元フリーター100万人だって、積極的にそのような道を選択してる人もいるし、それぞれ多様な価値観で自分を評価し、肯定して生きているだろうと思う。まさにボクシング・トレーナーのエディのように………。
 それを不良債権だとか社会不安の元凶のように捉えているということは、内田氏や山田氏が一面的な業績主義的イデオロギーからのみ、彼らを敗者だと決めつけていて、それだけに彼らが不満をくすぶらせて(ルサンチマンを抱いて)いるんじゃないかと妄想しているからに過ぎません。いや、実際敗者と感じている者もいるでしょうが、すべてがそうだとは言えないと思うのです。「外部」への視線が欠如し、違う物差しで人間を評価できないから「夢」を実現できないものを不安視するわけです。
 たぶん「学び」を降りる子供たちを「オレ様化」しているなんて言えるのは、同じメカニズムからでしょう。学校の業績主義的イデオロギー(競争)にのって努力をしない子供が、別の価値観でもって自己肯定することが、内田氏には不可解でワガママなものにしか映らないのであって、そういう「ねじれ」た子供は自己の可能性を過大評価した「バカ」でしかなく、消費資本主義に収奪されるだけだとして、これまた不安視されてしまうのです。
 きっと内田氏にとって真っ当な人間は資本主義の業績主義的イデオロギーに乗っかり競争を繰り広げる人たちだけであり、そこからこぼれる人は怪しい色メガネで見られ、社会不安につながる存在でしかないないのでしょう。こういう人間の捉え方を普通、差別とか排除みたいな言葉で表現します。

 私は『希望格差社会』という本は読んだことがないのですが、ここで行われる社会の分析が暗いものであるのは、それが様々な統計の裏付けによって結論された事実としてそうなのではなくて、山田氏が人間の夢や希望を競争の業績主義的イデオロギーでしか理解していないので、そのせいで格差のため落ちこぼれてゆくものが不良債権なんていうネガティブなものにしか映らないからじゃないか、と想像しています。ついでですが、この本のいかがわしさを分析してくれているブログを紹介しておきます。『格差ムチャクチャ社会』(Gimliのオルサンク語解読事始さん)『「希望格差社会」の何を私は問題とするのか』(研幾堂の日記さん)
 で、今度は内田氏がそのような暗澹たる未来をみなに突きつけ、自分で捏造した「自己評価の肥大した過大な夢を抱く人間たち」にたいして、今度はその「夢」を「断念」せよ、と迫るのです。
 このような奇怪な議論は、すべて一面的な尺度でしか人間を見ていないことに起因するのです。だからこそ「外部」への視線が必要なのです。ですから次の秀さんの言葉には共感しますし、全く正論だと思うのです。ただ一点を除いては………。

 ある種の固まったイメージの勝者を夢見ることによって、自分が最終的に少数のエリートには残れないと感じても、敗北のイメージだけが残ってしまうので、なかなか競争から降りることが出来ない。現在の状況はそのような感じではないかと思う。問題は、固定した勝者のイメージを壊し、その場での敗北は、場を変えればまた勝者になる可能性があるのだと考えを転換していくことで、建設的な生き方に結びつけていくことが、内田さんや山田さんが語るカウンセリングの中身なのではないだろうか。

 ここで秀さんは『敗北は、場を変えればまた勝者になる可能性がある』とおっしゃっていて、すでに競争の業績主義的イデオロギーの「外部」の物差しで人間を見ています。そのような視点を導入することで建設的な生き方ができると。しかし、私が言いたいのは、少なくとも内田氏はそう考えてはいないだろうってことです。
 というのも、内田氏はそのような「外部」の視点に立って「断念」する人間を別の物差しで評価する方向へは向かわずに、人間の価値は「かけがえのない」社会的機能を担うことでしか成り立たない、なんて言い方で再び「外部」の価値観を遮断し、「競争」のヒエラルキーの内部の「職業」へ没入させる方向へと議論を引き戻してしまうからです。
 結果、内田氏は「断念」する者に、職業へと邁進させることで、シフトダウンしているものの暴走する可能性のある危険な消費資本主義社会を底辺から支えさせようとするわけです。この辺の理屈はほとんど詐術に近いのではないでしょうか。このような詐術とは逆に、私が考えるのは秀さんがおっしゃっていたように「敗北することが、勝利につながる」という「外部」の価値観で自己を評価し、肯定する方向を徹底させることです。これが「競争」を降りることであり、「競争」を支える業績主義的イデオロギーをそれによって相対化し、無力化させてゆくことです。

   


 トラックバック 


Comments
 
>言葉使いさん
内田さんの言うことをそのまま素直に理解すると、確かに言葉使いさんがおっしゃっていたようにとれるんですよね。それに内田さん自身も世の中を憂いてそう発言されてるのかもしれないんですけど、ご自分でも気づいてないようなボロが出ちゃってるって感じですか………見極めは難しいですが、私にはそうとしか思えないんですね。
 
>458masayaさん
そうですね。sivadさんが言ってる通りだと思います。私も個人的に内田さんがどうという気持ちは全然ないです。正直なところ内田さんは、私が描いてるような悪辣な人だなんて自分でも思ってないですが、内田さん自身の意図がどうであれ、この書き方では意図することと全く違った「働き」をしてしまうので、それを非常に危惧しているわけです。何しろ非常に人気のある方なので………。それに私の批判なんて相手にもしてないだろうし……(笑)。
とりあえずもう一つだけエントリーが続きますです、ハイ。
 
>kagamiさん
「若者の人間力を高めるための国民会議」ですか………。つまりお前らは働くべきだ! って言いたいんでしょうね。よく言われますけどこんなに一生懸命働いてる国民はそうそういないのに、まだ物足りないみたいですねえ。
 
>sivadさん
もし内田さんがこのへんのことわかってくれてる人だったら、本を全部取り揃えて愛読してるかもしれません。わかりやすい文章でとても助かりますよ。ただ、おかしなところもわかりやすいというか………。
 
いえいえとんでもない>458masayaさん
批判の時は皮肉めいた書き方をしているかもしれませんが、内田さんの文章そのものは素晴らしいと思いますよ。本当に。
ただし、論理の前提や展開方法に問題があると考えているわけです。
決して「生理的」嫌悪ではありませんよ。
 
うーんせつない。
今のところまだ、araikenさんと私の読み取りがずれているようですね。
こういう読み方にこだわらないほうが、論点がはっきりするかなーーと思っていたのですが、こういう読み方をすること自体が実は目的だったということになるのでしょうか。
他のところのコメントを見ると、そもそも批判的な深読みをドライブしているのが内田さんの文章に対する生理的な嫌悪感のようですので、今までの私のエントリでとったやり方は火に油を注ぐというか、切ないことに、あまり有効ではないということがわかりました。そもそもあのやり方は、私が大変消耗する (^_^;)のがネックですし。。
以上、中間感想です。おかまいなくお続けください。
 
araikenさま、こんばんわ。とてもよくわかりました。(_ _)
ちなみに私の立ち位置って、ボクシングの例に乗らせていただきますと、
ボクサーに対して
「あなた自身の真意・覚悟は脇に置いておいて、あなたは観客とか、非関係者、第三者、即ち『他人』に対して
ボクシングは観るものである(特に俺の試合)とアピールするのか、
ボクシングはやるものである(一緒にやろうよ)とアピールするのか、
どちらですか?」
と質問するような人間です。
実際には私の主目的はボクシングではないですけど(^^;)、
この質問をすると今のところ全員がビックリして、
「そんなこと、考えたこともない!」と答えます。
自分の中の何か、表現欲とか衝動とか情熱とかうまく言えないものが
『他人』に届けば御の字で、個人的な行動らしいです。
そういう人にしか私が質問をしていないとも言えるでしょうけど…。
私が内田氏に感じたとこと、内田氏の本来言いたいこと、きちんと見極めなければなりませんね。
ありがとうございました。
 
NEETを巡る状況は非常にきな臭いです…。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050526-00000406-yom-pol
国・産複合体の税金によるニート利権…。「大人の本気」…。状況は非常に良くない方向に向かっているように感じます。
 
その通りだと思います。きれいにまとめて下さっていて気持ちいいですね。
内田氏の「意図」が秀さんのおっしゃるようなものであるならば、これはまさに「必要な批判」で、先生にきちんと気づかせて差し上げなくてはならないことだと思います。

06 2017 « »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
目次

 前衛芸術研究室
 

 セザンヌ講義1@電子書籍

 セザンヌ講義@ニコニコ静画
 おすすめコラム集
 ギャラリー
 シチュアシオニスト文庫
 garage sale
 オンライン読書会
 After the last sky


カテゴリー 累計
全記事一覧
前衛芸術研究室 28
亡霊退治 64
アート・建築・デザイン 29
思想など 144
旅行・タイなど 60
ニュース・時事など 31
フンデルトワッサー 12
中西夏之 3
日記・その他 115
記憶の底から 15
音楽 6
Category: None 22
反芸術研究室 5
最新のコメント
Twitter
タグcloud
アクセスカウンター
   




プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



Archive

RSS

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。