泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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内田批判のまとめ

 ここしばらく内田樹氏のブログのエントリーへの批判を書き連ねてきた。私は内田氏についてはほとんど知らないし、何の利害もなく、とりたてて本人に対して何の感情も抱いていない。たまたま読む機会のあった内田氏のエントリーがどうにも納得のいかないものだった、というのが批判の直接の理由だ。ついでに言えば、私には納得のいかない論を展開している内田氏を持ち上げている人がけっこう多いのが驚きだった。だからこそ、あえていじわるな言い方で内田氏の言葉に現れている矛盾と思われる点ををあげつらって、「こんなこと言わせといていいの?」と、アピールしてきたのだ。はっきり言って私は内田氏には関心もない。しかも私など影響力のある立場にいる内田氏に比べて一介の無力な存在である。ただ、明らかなインチキに対して一矢を報いておきたい、そう思ったのだ。
 しかし、言いたいことは言い尽くしたかなとも思う。自分でも内田批判に少々げんなりしてきた。だからそろそろまとめにはいろうと思う。

 私が言いたいことは実に単純なことなのだ。内田氏の言葉には矛盾があり、その矛盾ゆえに内田氏に賛同する人のように素直にその言葉を受け取るわけにはいかない、ということだ。私は論理学や数学の素養などまったくないのだが、一読して内田氏の言葉に矛盾を感じた。不思議なのはこの矛盾を前にしてみなさんどうして内田氏の言葉に疑惑を抱かないのだろうってことだ。内田氏の肩を持つ人がいっぱいいるのを見るにつけそう思う。
 もう詳しくは書かないが、内田氏は均質的な量的な格差を競う競争社会を資本主義を暴走させるため「危険」だとする。そしてそのような事態に対して「生き方の多様性」を唱えているにもかかわらず、試験による量的な格差によって夢を下方修正することで、若者を選別する学校教育の「学び」の過程を無条件的に肯定している。
 というのも、何らかの理由で「学び」から逃走する者を「ねじれ」とか「オレ様化」とかいって、ネガティブな評価を下しているからだ。ということは逆に「学び」の過程をこなすものは「ねじれ」ていないポジティブな存在だということになり、内田氏自身、学校教育を身をもって価値的に肯定していることになる。そうでなければ、「学び」から逃走する者を「ねじれ」扱いできるはずがないからだ。


 これが私には見逃すことなどできないとんでもない矛盾にしか思えないのだが、内田氏の肩を持つ人たちはそうではないのだろうか? 多様性を語りながら多様性を認めていないのである。いってみれば異文化交流を唱えながら外国人差別をしてるようなものだ。
 量的格差を争う競争が危険だというのなら、学校教育のメカニズムにも批判的であるべきだろうし、生き方の多様性を唱えるのであれば、「学び」を降りる者をもポジティブな存在として認めるべきだ。それが、不登校であろうと、引きこもりであろうと、怠け者であろうと、不良であろうと、享楽的であろうともである。多様性を認めるということは、そのような形で人間を排除したり差別したりしないことではないのだろうか。それができてないということは、内田氏は単なる「ウソつき」じゃん……って思うのだ。
 私の批判のやり方を見て「極端な二項対立への性向がある」なんて言ってる人がいるが、そんなこと言う前に内田氏の二項対立を指摘してあげたほうがいいのではないか? 若者たちを、真面目に学ぶ若者/学びを降り「ねじれ」た若者、という二項に分節しそのうち一方を他方を貶めることで評価するという典型的な二項対立の思考を披露しているようだが………。しかも「ねじれ」た若者の性格は「勝ち誇れる自己肯定」とか「バカ」なんて言われて社会不安の元凶にされ、あげくの果てにはファシズムにまで結びつけられている。内田氏はそれほどまでに「学び」の選別/自己評価の下方修正を受け入れない輩が気に食わないのである。

 内田氏の考えの背後に、どんな理路があり、どんな問題意識の埋め込みがあるのかは知らないが、こういうインチキを見せられると、誰だって素直にその人の言うことを聞く気にはなれなくなるんじゃないだろうか。どんな戦略的思考があるったって、多様な人間の生き方を主張するために、あえて排除や差別を行うっていう戦略なんて普通あり得ないだろう。
 内田氏があからさまに現行体制に有利なように世論を導くような意図を持ってこのような発言をしているとは考えたくないので、たぶん不幸にも「多様性」という言葉の意味を、わかってらっしゃらないのだ………そのために内田氏はこんな思考の隘路に陥ってしまったのに違いないと、私は考えている。
 だから本当のところ、内田氏にとって多様な生き方とか、資本主義の暴走なんてのはどうでもいいことなんだろうと思う。 この社会の居心地の悪さの原因をどこかに求めたいという動機があって、それを普段から苦々しく思ってる「学びから逃走する若者たち」におっかぶせたい、というのが内田氏の思考のアルファでありオメガなのだ。
 逆に言うと内田氏は、そうやって若者たちを諸悪の根源へと仕立て上げなければならないほどに、現行の「リスク社会」は居心地の悪い非情なシステムなのだってことを、回りくどいかたちで証明してくれている、とも言える。

 もちろん私自身も資本主義の暴走は大問題だと思うのだ。しかし激しい競争がそれを引き起こしているなら、競争のベースになっている業績主義的価値観の専制を無効にするのが正しいやり方なのではないか?(内田氏は「学びから逃走する若者たち」が競争を激化させる」張本人であるかのように事態を捏造しているが………。)そのためには、業績主義的価値観の専制によって押しつぶされている多様でオルタナティブな価値観を救い出し、育てるべきだ。そのためにこそ「生き方の多様性」を認めることが必要なのだ。排除や差別をすることではなく、ましてや二項対立的な思考に陥ることなく………である。

 生き方の多様性を認めるってことは決して楽なことじゃない。「居直り」なんていうイージーな状態ではあり得ないと思う。多様性を認める人はつねに心を可能なかぎりオープンな状態にして、外から訪れる他者をそのまま受け入れなければならない。たとえそれが外国人であろうと、犯罪者や狂人であろうともだ。考えてみるとそんなこと自分にもできるかどうかわからない………尻尾巻いて逃げ出してしまうのかもしれないが、自分が耐えられるかぎりそのような他者を前もって排除することなく受け入れるというのが、多様性を認めるってことだ。
 そしてそのことはつねに自分自身の足元をぐらつかせる作業でもある。自分の足元すら絶対ではない、と認識させてくれるのが多様性や他者との出会いだからだ。だから自分の足元の上にあぐらをかいているような「居直り」状態は、「生き方の多様性」を求める人には無縁なはずなのだ。
 つまり多様性を追求する人は、内田氏風にいえば、新しい次元の責務を背負って生きるのである。資本主義社会に貫徹する業績主義的な価値観への没入からの「解放」であるにしても、それは決してお気楽なものではないのだ。
 そしてその責務は押し付けられた一元的価値観への反抗という一面も持つ。現行の資本主義社会は効率的な利潤の追求のために私たちを業績主義的な価値観をベースとした一元的で激しい競争に巻き込むのだ。あるときは巧妙に私たちの「夢」や「欲望」を操作/捏造することで、またあるときは強制的な制度=規律という形をとって、社会は私たちに一元的な価値観を押し付けてくる。多様性を追求するということは、それらの社会の介入にNO!を言い続けることでもあるわけだ。
 内田氏の言葉も(一見、多様性をうたってはいるが)結果的には一元的価値観を私たちに巧妙に押し付ける「働き」をしている。そのあたりに私はモーレツに反発したくなるのである。

 私の内田氏への極端な物言いの仕方を見て、何かの先入観から強引に否定的なイメージで内田氏を語っているように見えるかもしれない。でもよく読んでいただければわかると思うのだが、私の言葉は、内田氏の犯していると思われる矛盾をもとに考えていけば「内田氏の言葉はこのようにしか読めないだろう」という、一つの「読み」の提示なのである。したがって私の「読み」が絶対に正しい、とは思っていない。内田氏の言葉には何も矛盾などないということが納得できれば、私は自分の「読み」をいつでも撤回する。
 だからこそ内田氏を擁護する人たちに、私はあえてやや誇大な調子で内田氏の言葉にある矛盾を語り、アピールしているのだ。誤解しないでほしいのだが、「内田氏はこうだ」と決めつけたいのではなく、みなさんの反発を期待し、建設的対話を望んでいるからこそそうするのだ。
 実際いくつか反論もいただいたわけだが、私の目を開かせてくれる面白いツッコミもあったけど(だから反論をくれた人たちには感謝している。)、上に示した内田氏の矛盾を説明してくれる反論はなかったと思う。………だからたぶん、内田さんは「生き方の多様性」なんてわかってないだろうな、と想像するわけだし、実際ご自分の大学でも教員を数値で評価するシステムを導入しようと奮闘なさっているようなので、きっと量的格差を競う競争にも本心ではさほど危機感を募らせてはいないのだとも結論し、私の考えは「あたらずとも遠からず」だろうなと思うのである。

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Comments
 
araikenさん、こんにちわ。「内田批判」に同意する立場からですが、今一度書かせていただきます。
6 月23日付けの毎日新聞に「ニート率 学歴で差」という興味深い記事がありました。厚労省機間の調査によれば、現在、学歴とニート率は完全に一致します。例えば、中卒者のニートになる率は9・8%ですが、大学卒では1・3%で、高学歴であるほど率は低くなっています。同機関は、「正社員を減らし、パートやアルバイトに置きかえられる労働市場から、ニートは必然的に生み出されている」と結論づけています。
内田氏は、「資本主義の黄昏」(5/19)で、ニートのことを、「自分は他者からの贈与に依拠しながら、自分は他者への贈与の主体になることを拒否するやらずぶったくり」と分析しています。が、上の調査結果からもわかるように、ニートは当事者のモラルの欠如やエゴイスムから生まれているのではなく、学校における<競争>の帰結として、また、現代の資本主義の構造的病理として生まれているのです。内田氏の論は問題の本質をそらした「精神論」であり、「抽象的詭弁」に過ぎない、ということが結論できるように思います。
ある有名な論者の『寝ながら学べる構造主義』という本に、面白いことが書いてあります。「無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。(略)『私たちは何を知らないのか』という問いは、『私たちが必死になってそこから目を逸らそうとしているもの』を指示してくれるはずです」(10-11頁)と。内田氏が必死になって目を逸らそうとしていること、それはおそらく、現在の学校とは量的格差を査定する資本主義社会そのものであり、内田氏自身もその歯車のひとつとして立派に機能している、という「唯物論的事実」なのではないでしょうか。
 
言うなれば「ドイツ・イデオロギー」ってことですよね(笑)>内田さんのニート論
で、内田さんの擁護者はこの批判に対して、ドイツ・イデオロギーにおける「暗箱」や「意識」のレトリックについて、「哲学的に正しくない」と否定し、それはそれで正しい部分もあるんですが、その「哲学的」議論において、現実面の問題はいつの間にか流しに捨てられてしまう。
なんだか、今回の荒井さんの議論でもこのパターンがずっと続いているように思われます。
>内田氏の論は問題の本質をそらした「精神論」であり、「抽象的詭弁」に過ぎない、ということが結論できるように思います。
内田さんの大好きなレヴィナスの言葉を借りれば「現存在は飯を食べない」訳で、ニートの問題はあくまでも哲学的問題であると言いたいのでしょう。人間は承認という霞を食べて生きるべきであり、決して物質的な対価を求めてはいけない。そして、この物質的な対価という問題こそが現在の資本主義の病根であるが故に、それに基づいた批判は問題の解決どころか問題の一部である。と多分内田さんの理論はこんな感じでしょう。
ここで重要なのは上のレヴィナスの言葉が、どのような文脈で用いられているかという事ですが、まぁそれは内田さんが一番良く解っているのではないかと(笑)。
 
Gilさん、こんにちは。
経団連の会長さんたちが、ニートの増加に危機感を抱いて会議を開き「大人の本気を見せる」とか言ってましたが、内田さんの言葉は見事にそれと響きあってますね。それにしても内田さんのこの「贈与」という言葉の使い方はなんとかならないものですかね? 「贈与」は人間の本質だなんて言って、それゆえにサラリーマンが搾取される(獲得を断念し贈与する)のは人間的なことだなんて言ってるんですよ。よくもまあ、こんなことが言えたものです。
 
すこっとさん、コメントありがとうございます。
私は『ドイツ・イデオロギー』もレヴィナスも読んだことがないので、どこまでスコットさんの文意を汲めているかわからないのですが、「現実面の問題はいつの間にか流しに捨てられてしまう……」というのはまさにその通りです。
社会思想みたいなものって、現実の社会が持っている矛盾や人間が感じている苦悩を敏感に感じ取るところから始まると思うのですが、内田さんの思考を追ってゆくとそのへんの動機が感じられないのですね。そうじゃないと上で述べたような矛盾を平気で犯せるはずがないと思うのです。どんなに論理的に学問したって自分で自分が犯している大きな矛盾をスルーしているのではこの人の人間的なセンスはどうなのだろう、と思ってしまいます。
 
araikenさんのおっしゃるように、内田氏は「贈与」という言葉を何ともでたらめに用いていますね。百歩譲ってサラリーマンが「贈与」しているというなら、彼らを搾取している資本家こそ、「他者からの贈与に依拠しつつ他者への贈与を拒絶するやらずぶったくり」なのではないでしょうか。ともかく、こうした議論は失笑ものの「屁理屈」でしかないと思いますが、むしろ不思議に思うのは、内田シンパの人たちは、こうした安っぽい詭弁に本当に疑問を覚えないのだろうか、という点です。
あえて分析すれば、内田氏の言説はロジックとしては幼稚でも、ある種の人々の<感情>に訴える部分があるのではないでしょうか。例えば内田氏のニート論は浅薄きわまるものですが、「ニートだかなんだか知らないが、甘ったれるな。誰のおかげで育ったと思ってるんだ!」というような、「おじさん的ルサンチマン」に心地よくシンクロするのではないでしょうか。内田氏の言説が、ひとを冷静な思考にではなく、安直かつ感情的な「若者バッシング」を煽るものであるとすれば、その危険性は見た目以上に大きいかもしれません。
すこっとさん、ありがとうございます。内田氏の「哲学的」議論において現実が忘れられている、ということですが、本物の「哲学」は現実を軽視しないはずです。「現実を流しに捨てる」哲学など、そもそも哲学の名に値しないのではないでしょうか?
 
なるほど! その通りだ! 資本こそがやらずぶったくりですよ。ぜひともサラリーマンたちの面目を丸つぶれにしてくれるような対抗贈与を資本にはやってもらわなければなりません。ブクブクと巨大化し世界中へと肥え太りやがって……(笑)。
まさにおじさん的ルサンチマンです。なまけてる若者が許せないんでしょうね、内田さんは。最近よく聞く「ものづくりの大切さ」とかいった言葉が好きなんじゃないですかね。職人芸のすばらしさみたいな言い方で、労苦や社会関係を脱色して労働を美化する………「プロジェクトX」的な精神論。これは明らかに問題の隠蔽ですから非常に腹立たしいものです。
 
『「学び」から逃走する者は、「ねじれ」「オレ様化」する。』を「真」とした場合、逆も裏も真ではありません。せいぜい導かれるのは、『「ねじれ」「オレ様化」しないのは、「学び」から逃走しないものである。』(対偶命題)のみです。
『ということは逆に「学び」の過程をこなすものは「ねじれ」ていないポジティブな存在』とならず、「批判の前提が間違っている」ので議論や批判以前ということになります。時間のムダづかいのためには一指たりとも動かしたくない、っていう「積極的な無視」なのではないでしょうか(笑)
 
このエントリーはそれまでの長い議論を前提に書かれたもので、それらを読んでいただければ、よりはっきりとわかると思いますが、私が言っているのは『「学び」から逃走する者を、内田氏は「ねじれ」だとか「オレ様化」などとネガティブな評価をしている。』ということであり、そのような評価をする以上、それは同時に『「学び」をこなす者をポジティブに評価している。」ということと表裏一体の事実だ、ということです。たんに無視するのであれば、「ねじれ」てる、なんて言わないものです。
 
内田樹はちょっと頭がおかしいのではないかとわたしは本気で疑っています。
しかしいまの世の中ではちょっと頭がおかしいほうが理解され受け入れられる傾向があるようです。
これが内田樹現象や村上春樹現象や細木数子現象などなどのすべてでしょう。
イカフライさん 
こんにちは。コメントありがとうございます。ウチダージュさんは師匠のレヴィナスにずいぶんと惚れ込み、数多くの著作を翻訳している実績があるのに、どうしてこれほど師匠の思想からかけ離れた発言ができるのか、、、その辺が薄気味悪いぐらい驚異的です。最近私もレヴィナスを読み始めているので、機会があれば師匠側から突っ込みを入れてみようかと思っています。

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荒井賢 (Ken Arai)

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