泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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デヴィッド・グレーバーがジョン・ホロウェイについてこんなことを語っている。

 ジョン・ホロウェイに関して私か評価しているのは、彼が弁証法の最も良い部分を掴み、使いこなしていることです。それは自己同一的な対象に見えるものは、ただ単にそれがそれらを通して存在する行為や過程から切り離された時にのみ知覚しうるという認識を軸にしています。
 西洋哲学は、ヘラクレイトスとパルメニデスの議論で開始されたと言われます。へラクレイトスは、われわれが自己同一的な対象とみなすものは、実は運動のパターンでしかないと主張しました。そこから「同じ川に二度入ることはできない」という有名な引用が出現します。そこで彼が言おうとしたのは、もちろんわれわれは同じ川に二度入ることはできる。だが、二度目は水が違うということです。川であるところのものは、その内容=水ではなく、流れのパターンだということです。恒常的な変化のパターンですね。だからわれわれが持つ、固定され自己同一的な川という観念は幻想であり、結局このことは、われわれにとっての本、山、椅子などへの知覚にも当てはまるわけです。パルメニデスは、反対の考え方をしました。論理が対象を現存するものとする以上、変化こそが幻想である、と。ここでのアイロニーは、現在ではわれわれはヘラクレイトスが正しいこと──固体に見えるものは、恒常的な運動状態にある分子によって構成されている──を知っていることです。しかしもしパルメニデスが議論に勝たなければ、実はヘラクレイトスが正しかったことさえも分からなかった。つまりギリシアの哲学者たちが、固定された自己同一的な物体が存在し、それは正確に測定可能であるように思考したからこそ、実験科学が発展することができたのです。さもなければば、事の仔細を研究する道具は発明されなかったでしょう。
 西洋哲学の伝統について面白いことは、その偉大な思想家のほとんどが、何らかの形でヘラクレイトスに回帰しようとしてきたことです。ここには興味深いパターンが観察されます。ヘラクレイトス自身は単なる貴族でした。誰にも分からない世界中の秘密の知に通じていると自認する反動家でした。だが彼の最も有名な学生で、原子論の創始者デモクリトスは、ギリシアの哲学行の中で、民主主義を評価したごく少数(私の知るかぎり3人)の内の1人でした。これと同じことが、ヘーゲルとマルクスの間で起こります。ヘーゲルは、政治的に極度に反動的でした。しかし彼がつくった弁証法は、彼個人の用法よりもはるかに強力なものになった。だからマルクスは博士論文で、デモクリトスについて書きました。しかしほとんど皆、ヘラクレイトス的な変化と過程の先行に回復せよと主張します。スピノザ主義、ハイデガー主義、ニーチェ主義、ドゥルーズ主義を名乗る多くの人びと、そしてほとんどの主要な哲学者たち……。この哲学、この存在論は、固定された形式に見えるものを、動態的な過程(あるいは「流体(フロー)」)と見るのでなく、これら2つの視点を対立させてしまいます。つまり資本(対)労働、国家(対)戦争機械……。実はそれらは、お互いに他ではありません。しかし彼らはそれらを全く別のものとしてとりだす。そこでホロウェイが重要になります。彼はそのあたりを微妙に修正しようとしています。たとえば彼のネグリ批判を見てみましょう。彼が指摘するところ、ネグリ的オートノミスト・マルクス主義は資本と労働を本質的に戦争状態にあるものと見ます。まずオートノミストたちは、この戦争におけるイニシアティヴは資本にあるのではないとします。それはいいでしょう。そこで歴史の動力である階級闘争において、資本は新しい革命的な要請と趨勢への反作用をなしている、と。これもいいです。しかしそこからあと、ホロウェイによると、ネグリはいまだに資本と労働をリングの上で殴り合う2人のボクサーのように想像している、と言います。それはいまだにそれらを2つの別個の実体とみなしている、と。ホロウェイの主張は、その認識では不十分だということです。今日真にラディカルな認識は「資本とは労働のことだ」と言い切ることなのです。資本はまったく自律的な存在ではなく、資本とは自己を誤認している労働でしかありません。それは自己を疎外され、外化されているものと認識している労働でしかないのです。それは本質的に自らに反目しているものから作り上げられた想像の全体性なのです。
 ホロウェイの近刊本は「資本主義をつくるのをやめる」と題されることになっています。それこそ、弁証法的な視点をまともに押し進めた場合の論理的な結論です。なぜ資本主義が存在するのか? われわれが集合的にそれを毎日作っているからだ。自分たちの行動の現実的な意味を理解しえないのは、われわれ自身の無力だ、と。マルクスが指摘したように、われわれは自分たちの創造的な過程を統制しえないため、われわれ自身の行いが、疎外された形でわれわれに戻ってきています。ホロウェイの視点が重要なのは、われわれは結局資本主義を破壊する必要はないということを示しているからです。われわれがしなければならないことは、単にそれを生産するのをやめることなのです。ですからホロウェイは、悟性( understanding )の仕事は、革命の仕事に限りなく近く、またその必要不可欠な部分である、と主張しています。そこで実践の問題、つまり行動と悟性の統一の問題が出てきます。それは行動するために正しい分析が必要であるということを意味するだけでなく、もし正しい行動をしていなければ、正しい分析を得ることはできないということも意味します。ともかくわれわれの行動は、分析から出てくるものではありません。それが、彼によると、「はじめにありき」という「叫び( scream )」(聖ヨハネの「言葉」でなく)の意味です。それは何かが根底的に間違っているという、ほとんど身体的な感性から来るものであり、それがわれわれを行動に向かわせ、それがさらに分析に向かわせるわけです。
 しかしホロウェイの分析には問題もあります。彼は詩人のようです。彼の思考は、もしかすると論理的に完璧な意味をなすはずのものではないのかもしれません。たとえば、論理的には「叫び」の前に何かがなければならないでしょう。われわれに正義について何らかの積極的な認識がなければ、何事かを不正義とみなすこともありえないからです。さらに彼には、弁証法を厳格にとことん突き詰めるという妙な美徳があり、それがほとんど道理を超えてしまっています。何らかの論理をとことん突き詰めるというのはいい。偉大な思想家は多かれ少なかれそれをやっています。しかしその挙げ句に、妙なことを言い出すのです。たとえばヘラクレイトスの視点を強調した挙げ句に、あらゆる自己同一的な対象は、資本主義の産物だとまで言います。そうすると、資本主義は言語と同じくらい古い、なぜなら名詞のない言語はないのだから、ということになってしまいます。私はそのことを彼に指摘しました。彼の答えは「そうだ、そして動詞のみによって構成されている言語を考案しようとしている人びともいる」ということでした。しかしもし資本主義を乗り超えるためにそんな言語が必要だというのであれば、それはあまりの迂回ではないでしょうか。技術的な問題としては、彼はちょうどルカーチのように、物象化( objectification )とフェティシズムを同じものとして捉え、これら双方を廃棄することが可能だと考えています。すると「価値」というのは単純に悪いものになってしまいます。私か思うには、価値形態、想像の全体性、あるいはフェティシズムさえも、人間の創造性の必要不可欠な側面なのです。問題は、この過程がわれわれを統制しないようにすることでしょう。



私達が今資本主義を作ってしまっている。。。というホロウェイの言葉が僕にはピンとくる。2冊訳されている彼の本は自分で書いたみたいだと思った。しかしこのホロウェイの思考は弁証法を突き詰めたらものだという。そうなのか~。弁証法ってのも最近流行らない概念だが、、、つか、弁証法って何?ッて言われると説明できない。物象化とか疎外とかマルクス主義の批判理論の概念をもっとがっちりおさえておきたい。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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