泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

Response: Comment: 4  Trackback: 0  

操作する権力は逸脱を敵視する

 マルクスはルンペン・プロレタリアート(失業者、乞食、外国人労働者、大道芸人、売春婦など)を毛嫌いしていたという。解放の思想家、聖マルクスの内に巣食っているこの排除の視線とは何なのだろう。的場昭弘氏はこのマルクスのルンペン・プロレタリアートの差別について苦々しく語っている……彼らだってプロレタリアートに含まれなければならないはずなのに……と。

 
『マルクスは全体的な枠から言えば、マルチチュードたる広義のプロレタリアートを支持している。このプロレタリアートにはルンペン、外国人、農民もすべて入っている。しかし狭義の意味でのマルチチュードたるプロレタリアートには彼らは入っていない、まさにそれがマルクスのアポリアだったわけです。』

 『……ではコミュナールたちの中に外国人、農民、ルンペン・プロレタリアートはいたのか。残念ながら、マルクスの文章からそれを見つけることはできません。マルクスはこのような人たちにここでは関心をもっていない。
 もっと内容をつめれば農村コミューンはパリ・コミューンと同時に存在しえたか。プロレタリアートが、農民と共闘できる可能性をもっていたのかどうかという問題です。これこそマルクス主義の革命のアポリアです。おなじことはルンペン・プロレタリアートについても言えます。マルクスはルンペンにまったく仲間意識をもっていなかった。
 もっともプロレタリアートに対してさえ実際仲間意識をもっていたのかというと、そうではなかった。彼はあくまでも理論家であって、彼らと一定の距離をもっていたがゆえに、彼らの力を理解しえたとも言えます。これは難しいところです。」(的場昭弘『マルクスを再読する』)


 マルクスに惚れ込んだ研究者にとってこのアポリア………階級なき社会への変革を夢見るマルクスの、プロレタリアートへの無関心、ルンペンたちへの憎悪………は「痛い」ものであるわけだろう。とはいえマルクスは前々世紀の人だ。現在ほど平等の意識も人の心に深く浸透していなかっただろうし、自身がブルジョワの出身であるこの天才を、そんなちっちゃい差別意識だけで責めるのは酷であるかもしれない。
 僕自身はといえば、マルクスのことを詳しく知らないのでほとんど直観だけで言うのだが、このアポリアがそれほど不思議なものとは思っていない。ようするにマルクスの差別の視線は、彼が社会を動かす(操作する)権力の地点から語っていたということの論理的な帰結にすぎないと思うからだ。

 マルクスの考えた社会の変革とは、ブルジョワジーの支配する資本主義社会を解体し、階級なき社会を設計し直し、それにとって替えることだった。まず労働者たちを動員し政権を奪い取り、新しい社会のプランを実現させるという、一連の社会制度の「操作」によって変革は行われるはずだ。
 この変革の構想を練り、議論し、また現実の社会の動きの中にプロレタリアートの解放の運動を見ようとするとき、マルクスは社会を動かす権力の地点に立って状況を判断したり語ったりしていた。もちろん現実のマルクス自身にそのような権力はなかったわけだが、その視線は権力と一体化していたのである。おそらくそのときルンペンなどの社会の逸脱者たちは無秩序で危険な存在として立ち現れてくる。

 社会を「操作」しようとする権力を持った存在にとって、社会や社会の成員は操作の対象であり、さらに彼らを動員して社会を動かすとなれば、人間は変革のための「手段」となる。
 政権奪取のための闘争は効率的かつ迅速に行われなければならない。闘争が長期にわたればいろいろな意味でダメージが大きくなる。そのため変革へむけて動員される人々には、明確に目的を持った秩序だった行動が要請されるだろう。
 ところが、社会の周辺部に存在する逸脱者たちは、そのような動員に向けて組織され得ない。つまり変革のための「手段」になってくれないのである。

 『………このことはルンペン・プロレタリアートにも当てはまります。マルクスのルンペンプロレタリアートに対する言葉はひどかったですよね。インチキ野郎というような言葉を投げつけた。農民に対してもそうでした。愚か者という言い方をしました。外国人に対しても変わるところがありません。
 マルクスの思考構造を規定したのが四八年革命のときの怒りであった。裏切られたことに対する憎悪がルンペン・プロレタリアートにぶつけられている。この怒りは、このような人々が自分たちの運動の本質を理解していないことから来ています。ですから自分たちの運動の本質を理解してくれないことへの焦りです。………』(同上)

 『………しかし広義と狭義でプロレタリアートの範囲が分かれたのは、歴史の流れにポイントがあったわけです。新しい社会をつくることになぜ裏切り者が出るのか。彼らは仲間であるはずなのになぜ仲間になれないのかという問題です。
 仲間になれないのは、ルンペン、農民、外国人が歴史の運動を理解しないということです。彼らは歴史の外部にいることによって歴史が見えない。だから一度外部から内部に引きずり込まれねばならない。』(同上)


 動員されない逸脱者たちは容易に旧体制と結びつき、利用され、革命の迅速なる進行を妨げる反動的な役割を担いかねない。フランス革命やパリ・コミューンの失敗を眺めながら、明らかにマルクスは革命にむけての「手段」として統合されない存在に苛立っている。変革の役に立たない人間はクズなのだ!………こうして、階級なき平等な社会の設計者は、歯ぎしりしながら「外部」の存在を敵視するのである。
 マルクスの言いたいことはきっとこうではないだろうか? 「お前らクズどもはオレたちの言うことを聞くか、せめておとなしくしてればいいんだ。革命が成功した暁にはお前らだって平等な地球市民として認められるのだから………。」革命の成功という結果は現在の排除も正当化するとすら考えていたのかもしれない。マルクス……いや、このように社会を「操作」する権力(指導者)、または権力の視点に同一化した人にとって、権力に統合されない逸脱者はいつだって必然的に危険で迷惑で邪魔な人間のクズとして社会の周縁に浮かび上がってくるのである。
 
 結局この逸脱者を危険視する権力は、スターリニズムや文化大革命など、マルクス主義史上最悪の全体主義において猛威をふるうことになる。社会主義革命は、共産主義社会への第一歩に過ぎず、ロシアや中国という資本主義の発達していない国で革命が起こったため、まず労働者に求められたのは、社会主義国内における資本の蓄積であった。したがって共産党(権力)は労働者たちにその目的に沿うかたちでの一元的な統合を………勤勉な労働者であることを求め続けたのだ。理想の社会の到来という叶うことのなかった約束を糧にして………。
 そもそも多様な欲望を持って生きる人間を、ある一つの目的に向かって統合し、動員するというのは困難を極める。目論見通りすみやかに革命が実現すれば問題はないのかもしれないが、複雑な社会が権力の思惑通りに動くと考えるのはあまりにも楽天的すぎるわけで、単一の権力に貫かれた統合はすぐに綻びを見せはじめるだろう。それを一つの目標に向かって長期間にわたって統合し続けようとすれば、警察的、暴力的な手段を用いて人間を管理/監視せざるを得なくなるということは当然のことだろう。
 このような全体主義的な社会主義国家の誕生に対して、マルクスは直接責任があるわけではないだろうが、スターリンや毛沢東やポル・ポトたちが実際に手にしていた権力の地点においてマルクスも語っていたわけで、マルクスにおけるルンペン・プロレタリアートの差別が意味するところと、20世紀の全体主義における大虐殺は、本質的に地続きのことだと言ってよいのではないだろうか。

 しかし、マルクスの時代からは長い時間が過ぎた。僕たちは社会を設計し直すという前代未聞の近代のプロジェクトを試み、そのプロジェクトのもたらした光と影を………特にその否定的な面をいやというほど味わえる立場にある。人間の多様性なんてことが問題になってきたのは、僕らが日々、まさに単一の権力に支配されていると感じているからだ。だからこそ、そこで行われた、また今行われている政治のあり方を再検討する必要があるのだ。
 つまりどんなに崇高な理想………階級や差別や格差のない、多様な人間のあり方を肯定する社会………を構想しようとも、それを権力の超越的な立場から「操作」する政治でもって実現させようとするなら、すべての社会の成員は一度ひとつの権力の下に「手段」として統合されなければならなくなり、多様性はその瞬間に消失しなければならないというジレンマが生じること、そして宿命的に統合されない存在の排除が生じるということ、さらにそのような排除を抱える単一の権力が作り上げる社会には、(社会主義国家がそうであったように)たぶん多様性が息づくことはないだろうということ………したがって新しい社会の実現を考えるなら、まったく別のかたちの政治が必要なのではないか、ということをしっかり自覚しておく必要があるのだ。

 なるほど確かにシステムを変革する以上、社会は「操作」されるであろう。しかしその操作の手続きは単一の権力に統合されないかたちで進めるべきではないか。そのためにはまず「操作」を一度カッコに入れておくべきだろう。そうしないと、多様性なんてものは見えてくるはずもないからだ。
 まず、今この瞬間に多様性は肯定されるべきだ。それは将来の約束ではなく、今、僕らを支配する単一なる価値=権力と闘い、それぞれが特異/固有な方向を目指して孤独に歩みを進めることを通して勝ち取るべき歓びとしてである。「手段」となって単一の権力に奉仕するのはもうご免だ。………このように現実的に多様性が生い茂っている土壌以外のどこから人間の多様/多元性を生かしながら共生できる社会のかたちを構想できるというのだろうか? 僕らの仕事は資本主義の権力の支配の中に、闘うことで多様な生の息づく領土を確保し広げてゆくこと、その領土の中に未来の人間関係(社会)のかたちを(十全なかたちでないにしろ)実現してゆくことだ。

 もっとも資本は一見多様性を認めるようなかたちで巧妙に人間を管理するフレキシブルな統合の戦略を打ち出してきているのも事実である。多様な生のかたちが体よく権力に回収されてしまう事態が生じているというわけだ。液体金属でできたターミネーターが強かったように、フレキシブルな敵は攻撃のポイントが定めにくい。が、いずれにしろ資本の認める多様性は表層的なものに過ぎない。資本主義の権力は自らを再生産するために社会を操作し続けている。今まで述べてきたように、そのような単一の「操作」する権力は一つの根源的な排除をもっている。社会主義であろうと、ファシズムであろうと、福祉国家であろうと、またネオリベであろうと事情は同じだ。資本が敵視し、憎み、どうしても認めたがらず、隠蔽し、見せしめに利用したりもする「外部」へと開かれた「システムの綻び」を自らの周縁に分泌し続けている。僕らはそこをしっかりと捕捉し、闘争のフィールドの基点に据えるであろう。
 このあたりについては、『魂の労働』(渋谷望 著)をよく読んでから整理し直してみたい。

Comments
 
kenさま、ごぶさたしておりまする。
なんとまぁ、私も「人が人を操作する」ということをエントリしようかなぁ、なんて思っていた昨今でございました。
kenさまのこのエントリに関しましては、「管理野球」を思い浮かべながら理解を試みてみました。というのも、自分自身が「管理野球」をベースに「人が人を操作する」ことについてエントリしようかなぁと考えていたからでして、単一の「操作」する権力、というのは、一人の監督による管理野球に似ていて妙也、と感じた次第でございます。
まだ考えがまとまりませんが、漠然とそんなことを考えながら拝見いたしましたです。
 
久しくしておりました、こんにちは…。内田樹氏が最悪の差別主義者であることを自ら差別主義言説の公開という最悪の形で表明されました…。
http://blog.tatsuru.com/archives/001236.php
私はもう…壮絶に気分が悪くて…。私には、重いハンディを持っている友人がいるし、自分だってそういう境遇になることは十分いつだって覚悟しているのに、それをこうやって平然と、傷つけてくる内田氏という人間が、理解できません…。
 
チャマさん、チワっす!
おっしゃる通り、スポーツには「管理」とか「競争」がついてまわっていて、ある意味、現在の社会のあり方をそのまま反映してますよね。レギュラーポジションを争って必死に努力する選手の姿は、格差社会をサバイバルする私たちの姿とダブリますからね。
競争を問題視しようという立場にありながらなんなんですが、私もサッカー好きで(しかも視るほうが)、その見せ物に熱くなったりしております。そのあたりが自分でも整理のつかないとこでちょっと困ってます(笑)。
子供の頃は私も少年野球やってたんですよ。ヘタクソでしたが一応セカンドを守ってました。エラーして怒られて泣きながらやってたのを思い出すなあ。泣き虫だったんですよねえ………ボキは。
 
kagamiさん、ごぶさたです。
久々に内田氏のブログをのぞいてみました。『ファナティックな政治イデオロギーの持ち主はやはり奇形的な身体をしている。』ってのは………ウ〜ン。まさか病者や障害者を貶めるつもりで言ってるつもりではないのでしょうが、そういう理解もできる言い方なのは確かですね。
この方は、階層社会論やコミュニケーション論においてもそうでしたが、現代思想の言葉をちりばめたきれいごとを言いながら、同時にその正反対のことを態度で示すということをいつもやっておられます。今回のエントリーにも、ご自身のことだと思いますが『健全な社会理論の持ち主は、原理的に「弱い敵との共生」ということを優先的に配慮している』なんていう美しい言葉が出てきてますが……それは本当なんですか? と尋ねたくなってしまいます。それだけに内田氏の迂闊な言い方が露骨な差別発言にも思えてくるのだと思います。

08 2017 « »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
目次

カテゴリー 累計
全記事一覧
前衛芸術研究室 28
亡霊退治 65
アート・建築・デザイン 29
思想など 144
旅行・タイなど 60
ニュース・時事など 31
フンデルトワッサー 12
中西夏之 3
日記・その他 116
記憶の底から 15
音楽 6
Category: None 22
反芸術研究室 6
最新のコメント
Twitter
タグcloud
アクセスカウンター
   




プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



Archive

RSS