泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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アドルノの息苦しさ

 アドルノがモデルネの芸術(モダニズム)に特徴的なカテゴリーとして考えるのは、〈新しさ〉(das Neue)である。ボードレールが抵抗を示した社会は技術進歩と功利性ばかりを追求する社会であったが、アドルノはそうした社会、近代のブルジョワ資本主義社会を「非伝統主義的社会」と呼ぶ。「本質的に非伝統主義的な社会においては、美的伝統はア・プリオリに疑わしいものとなる」(Adorno 1970 p.38 /39頁)。「非伝統主義的な社会」のなかでモダニズムのもつ〈新しさ〉の意味は、モダニズムの登場以前にも芸術の発展の指標と考えられてきた新たなテーマの発見、ジャンルの拡大、ジャンル内での様式やパターンの変化、芸術手法の更新などとは区別される。「モデルネの概念は、つとに様式がそうであるように先行する芸術行為のあり方を否定するのではなく、伝統それ自体を否定する」(loc.cit./同上)。つまりボードレールが抱いていたよ うな、芸術の歴史、伝統との全面的な対立の意識である。

 また、芸術の自律性が獲得される過程は、芸術作品が自己言及的になり批評的になる傾向と平行している。作品の自己言及的な傾向は20世紀前半のモダニズムの作品の明白な特徴である。モダニズム作品に見られるやや自意識過剰な点は、作品の解釈すら作品が限定しようとする。だがそれだけではない。モダニズムの作品の批評性は、作品が自分自身のなかで、他の芸術作品を評価したり批判したりすることにも及ぶ。「芸術作品の真理内容は芸術作品の批判的な真理内容と融合する。そのため芸術作品はまたお互いに批判し合う。芸術作品は作品どうしの依存による歴史的連続性を通してではなく、こうした批判を通してお互いに結びつけられる」(ibid. p.59 /64頁)。自律的な芸術作品は、作品どうしの批判と競合のダイナミズムに基づいて理解されるのである。
 モダニズムの擁護(アドルノ)田辺秋守



 伝統の否定­=自己批判の運動としての、また自律性=自己言及的なメタ芸術としての前衛(アヴァンギャルド)、というアドルノの理解は、グリーンバーグのモダニズムによるアヴァンギャルド解釈とほとんど重なっている。文化産業を嫌悪したアドルノとキッチュ(まがい物)に対する本物がアヴァンギャルドであるとしたグリーンバーグは、ほとんど瓜二つなのである。
 しかし2人の最大の違いは、グリーンバーグが所詮ナンチャッテ左翼に過ぎないのに比べて、アドルノは筋金入りの左翼だという点である。アドルノは芸術作品が商品化し文化産業へと堕してゆく危うい性格に自覚的であったし、なにより彼は芸術の形象がシステムを批判する力に注目していた。道具的理性(同一性)の支配する資本制システムを震撼させる「非同一性」を、アドルノはアヴァンギャルド芸術の中に見出していたのだ。

芸術作品は、作品自身の生命をもって現れることによって、自分自身であることが許されない社会、すべてが交換原理に従属している社会に疑いを差しはさむ。

無用のものとして現れることによって、芸術作品は「道具的理性」が忘れてしまった生産の人間的な目的を呼び覚ます。



 つまり非同一性とはシステムに入った亀裂であり、芸術作品は生々しい秩序の裂け目だというわけだ。このアドルノの感性には共感するが、彼はアヴァンギャルドをモデルネ=伝統の否定という、芸術のカテゴリー内部でのムーブメントとして理解したために、かつての支配階級の高級文化であり、現在では資本主義のイデオロギー装置となった「芸術」に希望を抱いてしまった。
 しかし美の伝統の否定とか芸術の自律性ゆえに、芸術作品に非同一性が現れるものだろうか? そうした芸術カテゴリー内の否定のアクションは、そもそも芸術家の生活=生のあり方全体に動機づけられているのではないか。つまり、アヴァンギャルド芸術と言いならされている運動は、むしろ「すべてが交換原理に従属している社会」における疎外の否定の試みであったゆえに、同一性=道具的理性が忘れてしまった生産の人間的な目的を呼び覚ますことができると考えるべきではないだろうか。
 私は「疎外の乗り越えの試み」が「芸術」を流用し、乗っ取ったものがいわゆる前衛芸術であったと考えているが、結局、モデルネ=モダニズムの言説は、「アヴァンギャルド=疎外の乗り越えの試み」を、権力の侍女である「芸術」内部のムーブメントへと置き戻してしまう。アドルノ自身の意図を裏切って、非同一性を同一性へと解消させる言説になってしまっているのだ。
 アドルノは対立させて考えているようだが、資本制の文化装置である「芸術」と文化産業の役割は基本的には同じである。ポストモダンの時代になって芸術とキッチュの境目は曖昧になったといわれるが、どちらも民衆を疎外の中に繋ぎ止める装置である以上当然である。
 アドルノにとって文化とは芸術(支配階級の高級文化の末裔)の中にしか存在しなかったということだろうか。芸術以外の文化のあり方(民衆的、ディオニュソス的な文化のあり方)がアドルノには見えていなかったのではないだろうか? そうした文化は「芸術」同様「文化産業」をも流用し、乗っ取り、吹き出すことだってあるだろう。アドルノの軽音楽嫌悪は今日エリート主義だと批判されているが、その原因は芸術以外の文化のあり方を見いだせなかったことあるのではないか。おそらく彼の思想がペシミスティックで息苦しいものであるのも必ずしも呵責なき批判精神ゆえではないのである。

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荒井賢 (Ken Arai)

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