泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 亡霊退治   Tags: ---

Response: Comment: 0  Trackback: 0  

 <アポロン的なもの>と<ディオニュソス的なもの>


<アポロン的なもの>とその対立物である<ディオニュソス的なもの>を、「芸術家という人間」を媒介とせずに、自然そのものから直接ほとばしり出る芸術的な力として考察してきた。

人間はもはや芸術家ではなく、芸術作品そのものとなっている。祭りにみられるディオニュソス的なものの魔力によって、人間と人間との絆が復活するだけではない。人間に疎外され、人間と敵対していた自然、息子に踏みつけられていた母なる自然が、人間という放蕩息子と和解の宴をひらくのだ。

そこには、もう奴隷はいない。その時々の気まぐれな事情や「おしつけがましい慣行」で人間同士を引きはなしてきた、あの厳しく憎悪にみちた境界線はいまや完全に消滅する。ついに世界調和の福音がおとずれ、だれもが隣人とむすばれ、和解し、溶けあったと感じるだけでなく、文字通り<ひとつ>になったと感じるのだ。
ニーチェ『悲劇の誕生』



 <アポロン的なもの>と<ディオニュソス的なもの>という、ニーチェの『悲劇の誕生』に出てくる有名な文化形態の区別がある。これはショーペンハウアーの「表象と意志」の概念から派生して、「夢と陶酔」と例えられ、スタティックな造形芸術とダイナミックな音楽芸術の区別につながる概念なのだが、私はこの2つの概念の区別を少々手直ししたいと思う。
 まず<ディオニュソス的なもの>は、「芸術家を介さず、自然そのものから直接ほとばしり出るもので、人間はもはや芸術家ではなく、芸術作品そのものとなっている」というニーチェの言葉から、これがバフチンの言うカーニヴァルなどの民衆(非公式)文化と同じものであるのは間違いないだろう。この形態の文化は「生きられる」ものであり、人と人を結合し溶け合わせる、いわば水平方向へ融け合いつながってゆく形の文化だと言えるだろう。
 一方<アポロン的なもの>を夢や造形芸術ではなく、これもバフチンに従って、「支配階級の公式文化=芸術」と理解し直したい。ニーチェは「文化」という言葉と「芸術」という言葉を特に区別することなく使っていた。その点を私はあえて区別し、文化という幅広い概念の一部に支配層の高級文化として「芸術」という独特の形態の文化が位置を占めている、と考えている。
 この「芸術」という公式文化の特性は、「卓越」にある。
 支配者(権力)は民衆や支配の外部に対して自らの絶対感を誇示し、魅惑しひれ伏させようとする。支配者の文化は自らの卓越を示すために高度に洗練された技術を持った芸術家を招集したり囲ったりしていた。
 支配層(権力)のもとで芸術家は、造形、表現活動の専門家(=演者)として、表現を受け取るだけの民衆(=観客)に対して卓越する。 同時に権力のお気に入りの芸術家は、権力の創りだすヒエラルキー上の卓越した地位を得る。さらにこのようなヒエラルキー内部で複数の芸術家たちはより卓越しようとライバル=競争関係にある。つまり芸術という文化形態においては、権力の創りだした物差しで測られる価値の差、上下の格が問題になっている。いわば垂直方向に距離を広げ、競い合う形の文化といっていいだろう。
 もちろん以上はあくまでも図式的な言説にすぎないのであって、現実の文化シーンにおいては、この水平と垂直の2つの文化形態は純粋な形で存在するのではなく、混ざり合い、影響しあいながら現れている。ディオニュソス的な生きられる文化の中に芸術の垂直性が混入することもあるだろうし、芸術の中にディオニュソス的な陶酔の文化が進入することもある。
 いや、まさニーチェが礼賛するギリシャ悲劇はまさに両者の混交であったわけで、おそらくギリシャの支配層の公式文化(芸術)にディオニュソス的なものが侵入し、乗っ取ったものと考えるべきだろうし、近代の前衛芸術も資本制の文化装置である「芸術」の垂直性を乗っ取った生きられる(陶酔の)文化だったのだ。
 というか私たちの知っている教科書的な芸術の歴史(ヨーロッパ支配階級の公式文化の歴史)は、芸術だけで成り立っているわけではなく、ディオニュソス的なものが何らかの形で芸術内部に侵入し、その血液が流れ込まない限りその絢爛たる姿を現すことなどなかったのではないだろうか。公式文化=芸術の垂直性はそれ自体では空虚な制度であり技巧であるにすぎない(とりわけ資本制のもとでディオニュソス的な陶酔そのものがナンセンスと見なされたせいで、近代の芸術は痩せ衰えてしまった、、、芸術アカデミー(官僚化した芸術)の惨めさを見よ)。しかしまたディオニュソス的な陶酔の文化は、原理的に瞬間的な生の燃焼であって、歴史に残ることはないことを考えると、遠い過去のディオニュソス的なものを直感するためには、芸術作品に頼るしかないという皮肉なことになっている(芸術の特徴には「卓越」以外に「永続」というモメントもあるのかもしれない)。
 いずれにせよ芸術を含め、すべての文化の根源にあるのはディオニュソス的な陶酔だったはずなのだが、ほとんどの知識人はディオニュソスの海に浮かんだ孤島のようなアポロン=芸術だけが文化であるような錯覚を抱いてしまっている。モダニズム(モデルネ)流の前衛芸術の解釈も、前衛を美の伝統の破壊という芸術内部の運動だと勘違いしてしまったところから生じている。アドルノなどミメーシスとか非同一性という概念で、明らかにディオニュソス的なものを指し示していたにも関わらず、孤島だけしか見なかったせいで海を発見することができなかった。芸術という卓越=垂直の文化は、このようにかつてより権力の侍女であったわけだが、資本制システムのもとでもそうあり続けている。やせ衰えた芸術を乗っ取った前衛、資本主義近代に吹き出したディオニュソス的なものによって芸術という文化形態は破壊され、とどめを刺されるべきだったのかもしれない。それだけにこうした前衛のモダニズム(モデルネ)解釈による捻じ曲げ、ディオニュソス的な生きられる文化の芸術(権力)による簒奪は犯罪的である。私たちは芸術のゾンビ(スペクタクル)に未だとり憑かれたたまま、生きることを妨げられ続けているのである。

Comments

08 2017 « »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
目次

カテゴリー 累計
全記事一覧
前衛芸術研究室 28
亡霊退治 65
アート・建築・デザイン 29
思想など 144
旅行・タイなど 60
ニュース・時事など 31
フンデルトワッサー 12
中西夏之 3
日記・その他 116
記憶の底から 15
音楽 6
Category: None 22
反芸術研究室 6
最新のコメント
Twitter
タグcloud
アクセスカウンター
   




プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



Archive

RSS