泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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物として残されたもの

 人間文化には、根源の時代から、儀式があり、祭りがあった。そこには歌もあれば踊りもある。食事も、性の営みも、労働も、戦争も、その他もろもろの行為があった。そのどれが重く、どれが軽いとはいえない。全体がからみあって生活のシスティム、1つの有機体となっている。物として残されたもの、色とか形は、その生きた全体の一部であったのだ
 熱く純粋に、人間の生命とともにふきあがった叫び、歌、踊りは、瞬間に消え去ってしまう。ものも滅びる。だが消えなかったのは、たまたま石で作られた道具、造形だった。考古学はそれらを体系づけ、この極めて古い文化を「石器時代」と名づけた。
 だがそれは、いわば骨だ。それよりもそれを覆う肉体の方の神秘を、なんと呼んだらいいのか。……私か抵抗したくなるのは、この固い冷たい石、生活のごく一部だけを拠りどころにして、形骸をずらっと並べたて── まさに博物館の陳列棚の味気なさだ。── それで人間の歴史の深みを区切り、結果、無名の彩りは闇に没してしまう。そのことが残念なのだ。
 歌声は高く、踊りは激しく、入墨、扮装、祭りの中心にたち現れる神聖な象徴、人間と宇宙を結合する司祭の高貴な姿。それらすべてがどんなに生命の絶対感をもりあげたか。だがすでに影も形もない。
岡本太郎 『美の呪力』


 この「物として残されたもの、色とか形は、その生きた全体であったのだ。」という言葉は、今日では理解され難いものになっている。というのも私たちが「生きられる文化」を見失ってしまっているからだ。殆どの人にとって実は「文化」即「芸術」になってしまっているのだ。「芸術」は作品(物として残ること)をこそ目的とする。繰り返すが「芸術」とは支配階級(権力)によって組織された高級文化(公式文化、アポロン的文化)のことであって、海上に顔を出した氷山のように狭くて特異な文化のあり方にすぎず、圧倒的に大きく海に沈んで見えない「生きられる文化(非公式文化、ディオニュソス的文化)」に支えられなくては存在すらできないものなのだ。ただ瞬間の中に消え去ってしまう「生きられる文化」に対して「芸術」の方は時間的な永続(残すことを)を希求する権力の意志ゆえにはるかに可視的であり得た。権力が好む石や金属などの素材の性質によって、さらに職人的洗練を持った芸術家たちによる非常に手の込んだ文化的形成物(=作品)は、プリミティブな「生きられる文化」のそれに比べて保存される機会も多かったということもあって、「芸術」のみが歴史に残り、まさにその氷山の一角の「物として残されたもの、色とか形」だけをもとにした美術史、文学史、音楽史、芸術史なんてものが文化そのもののような顔をしてまかり通っているのが現実なのである。

 近世ヨーロッパが経済発展した結果、大規模な植民地政策にのり出した。彼らはそれまで暗黒大陸とよんだアフリカ、比較的新しく発見したオセアニアやアメリカ大陸などの未開地域、文化などまったく無いと思っていた土地に進出した.そこで野蛮な土人どもの神像や仮而、その他のエキゾティスムをおもしろがり、気楽にまきあげて、風変わりな品としてヨーロッパにもって帰った。初めはそれらを別に美的観賞の対象とはしていなかった。ゲテモノ趣味として楽しんだかもしれないが。ところで歴史はまことに不思議な軌跡を描いてゆく。世紀末を通って20世紀の初め、ようやく西欧美学が言いようのない壁にぶつかりはじめたとき、その頃の芸術革命のチャンピオンたち、 ピカソ、そしてやがてシュールレアリストなどがこのプリミティーヴ・アートの表現に圧倒され、新しい美の問題をつきつけたのである。これによって近代芸術の相貌は根底から変えられるのである。
同上


 プリミティブな「生きられる文化」はむしろ文化とすら考えられていなかったのだ。しかし「芸術」は目に見えぬ「生きられる文化」支えられることなしには空虚な芸や技術でしかなく、ブルジョワジーが権力をつかむとともにやせ衰えてしまう運命にあった。こうした事態の中、「生きられる文化」が「芸術」の諸制度を乗っ取ってアヴァンギャルド運動が吹き上がったが、「芸術」に加担する人たち(権力)は、それらを「芸術」そのものの手柄として奪い取り、あいも変わらず「文化」即「芸術」であるかのように振舞い、「生きられる文化」を野蛮なものとして貶め、ブルジョワシステム(資本制)の正統性を主張してやまないのである。
 大戦後、「生きられる文化」の血液を吸い尽くしてしまった「芸術」は当然ながらまた衰弱の危機に見舞われている。アクションペインティングだとかハプニングだとかコンセプチャルアートとか様々なイズムによって「生きた全体」を芸術の世界に蘇らせようと必死になっているようだ。だがその努力は結局「生きた全体」ではなく「物として残されたもの(=作品)」を作り出すことを目的とする倒錯した活動でしかない。問題はあくまで「生」なのだ。資本制の文化装置として「芸術」の制度そのものが「疎外」を創りだしているわけだから、残念なことに作り出せるのは再構成された生なきもの、ゾンビだけでなのである。

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荒井賢 (Ken Arai)

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