泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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カイヨワが描き出している祭りの光景、、、

 いわゆる原始文明においては、平常時と祭りとの対照は今よりずっと際立っていた。祭りは数週間、時には数カ月間も続き、途中に時々4、5日の中休みがあるだけであった。それに必要な大量の食糧や富を蓄えるためには数年を要することがしばしばで、そうして蓄えられたものは、この時とばかりに飲み食いされ、消費されてしまうばかりか、何の理由もなくただ単に破壊され、無駄使いされてしまう。というのも、行き過ぎの一形態である破壊と浪費とは、祭りにおける当然の権利としてその本質に含まれているからである。こうした祭りはたいてい、熱狂と痛飲乱舞の様相を呈しながら、夜を徹しての凄まじい喧騒の内に幕を閉じるものである。拍子をとって打ち鳴らされる最も素朴な打楽器に合わせ、騒音はリズムに、騒動は踊りに変えられる。実際にこうした踊りを見た人の話によると、ひしめきあった人の群れは、地面を足で踏み鳴らしながら波打つように動き、中央に立てられた柱をとり巻く踊りの輪が、ある時はゆっくり、ある時は速くというように、不規則な動きでその周りを回ってゆくのだという。人々の興奮はありとあらゆる形で発現され、それがまた一層興奮の度合を高める。うるさいほどガチャガチャと楯にぶつかり合う槍の音、喉音によってはっきりと強弱をつけて歌われる歌、踊る人々の混然たる様と身体の激しい揺動。どんな表現手段であれ、興奮は表現されたことによってさらに興奮を呼び、次第次第にその激しさを増してゆく。そこから自然に暴力も生まれてくる。時おり乱闘が発生する。しかし喧嘩の当事者たちは引き離され、たくましい男たちの腕によって胴上げされ、喧嘩の興奮の鎮まるまで御輿のように揺すられる。そんな事があっても輪舞は一向に中断される様子もない。また、幾組もの男女のカップルが突然踊りの輪を抜け出し、付近の叢林の中に姿を消す。しかし、愛の交わりを終えて戻って来た彼らは、再び踊りの渦にのみこまれる。このようにして踊りは朝までえんえんと続いてゆく。
カイヨワ『祭りの理論』


 このような酒に酔っての乱痴気騒ぎであり、暴力や性的放縦であり、破廉恥で無秩序、インモラルですらある祭りの営みを、私たちは「文化」と呼ぶ。同様に主(権力)によって組織された高級文化である「芸術」も当然「文化」である。だが今日私たちは「文化」という言葉からほとんど「芸術」しか連想できないのではないだろうか。
 ルネッサンスの絵画工房では有名な絵描きが貴族や教会(権力)から発注を受けて洗練され手の込んだ絵画作品を時間と労力をつぎ込んで描き上げていた。若い弟子たちは彼を手伝いながら経験を積み指導を受けて自分の腕を磨き、その技術を受け継いでゆく。こうした職人芸によって営まれる「芸術」作品の制作は「労働」と呼ばれるにふさわしい。このような極めて真面目な努力の積み重ねによって作られるものであるから「芸術」には価値が生まれるのだし、「芸術」を含めた「文化」とはそうした労力(労働)の集積なのだ、と考えるのが私たちの常識的な感覚なのであって、破廉恥な乱交パーティを大規模にしたようなもの(祭り)を基礎にして「文化」を考える人はあまりいないだろう。
 しかし私は「芸術」を含めたすべての「文化」の根源に、労働とは反対の祭り(ディオニュソス的な陶酔と破壊のエモーション)を認めるべきだと思うのである。なるほど修練を積んだ技術を惜しげも無く注ぎ込んだ芸術作品がどれほど素晴らしいとしても、その中にディオニュソス的なエモーションが宿っていなければ、私たちは「芸術」に心底打たれたりすることはないのではないだろうか。なるほどこの芸術家は主(権力)に奉仕し労働するのであるが、芸術家に仕事を依頼する主の途方もない富とエモーションが芸術家の労働を貫いているため、「芸術」は祭りのような「生きられる文化」とは別な形でディオニュソス的なエモーションが噴出する場になるのだろう。つまり主の文化、「芸術」だって祭りの破廉恥さと深いところで繋がっているいるのだ。
 なのに今日の「文化」表象からは、民衆(持たざる者たち)の祭りに見られる破廉恥な「生きられる文化」のあり方はすっかり見失われ、研鑽と努力によって卓越を目指す、主のための隷属的労働である「芸術」(ダ・ヴィンチやミケランジェロ)のみが前面に張り出している。さらに今日では「文化」を輸出し売り物にすることを官民挙げて取り組む時代になってしまった。あきらかに「文化」活動は労働になってしまったのだ。
 その原因は、こうした古代や中世的な権力をブルジョワジーが奪い取って以来、資本主義の精神が徐々に人類社会に浸透したことにある。吝嗇で冷徹な資本主義の精神は陶酔や破壊、浪費を排除することによって立ち上がるものだから、祭り=ディオニュソス的なものはナンセンスなものとしか理解されない。つまり資本主義の拡大と勝利は「文化」の死を意味するのである。
 かくして民衆の文化(祭り)は衰退してゆき、ポップカルチャー(大衆文化・文化産業)へと変質し、消費の領域に取り込まれていった。しかし同時にそれは主の文化「芸術」にとっても死への道であった。ディオニュソス的なエモーションを失った「芸術」は、透明で純粋な職人的技術に限りなく還元され、やせ衰えてゆくしかない。結果「芸術」には権力(現行システム)を自己肯定するスペクタクル=文化装置という役割のみが残された。最近「芸術の終焉」なんてことを言う人がいるが、ブルジョワ社会の成立とともに「芸術」はとっくに死んでいるのであって、腐臭を放つゾンビ(スペクタクル)として私たちの周りを徘徊しているに過ぎないのである。
 そんなわけで私たちの知る「文化」は事実上「労働」でしかなく、破壊と陶酔の荒々しく破廉恥なエモーションは「文化」という概念からは排除されているのである。カイヨワは「祭り」を生命の絶頂だとしていたが、今日の「文化」にめくるめく絶頂感やわくわくするような面白さを取り戻したいなら、破廉恥な「生きられる文化」を再発見しなければならない。私たちを資本主義の疎外の中に留め置くために配備された腐った「文化」=ゾンビどもを、「生きる」ことで退治しなければならないのだ。

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